銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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――その手紙に名はなく、花に言葉はなかった。
けれど、想いは確かに届いた。



第二十ニ話 手紙と花と、名もなき瞳

 

 広間の喧騒は、舞踏の幕が下りてもなお、波のように寄せては返していた。

 杯の触れ合う音、笑い声、香水とワインの香りが入り混じり、空気は甘く重い。

 

 だが、ソフィアの耳には、そのすべてが遠く霞んでいた。

 

 胸の奥では、先ほどの舞踏の残像が、炎のように揺れていた。

 銀糸のドレス、虹煌色の瞳、刺繍入りの眼帯。

 あの少女――名前も知らない、ただの“展示品”として扱われた子。

 

 その舞は、ただの余興ではなかった。

 それは、命の軌跡であり、魂の震えだった。

 

 バルド男爵が「動く芸術品」と呼び、貴族たちが「譲ってくれ」と囁くその姿に、ソフィアは微かな怒りを覚えた。

 あれは所有物ではない。

 あの瞳は、あの舞は、確かに生きていた。

 

 だが、ソフィアは宰相の娘。

 父の名を使えば、政治的な火種になる。

 騎士団の権限を使えば、礼節を欠く。

 彼女の立場は、鋼の檻のように彼女の行動を制限していた。

 

 ――強引には動けない。

 ――だが、何もしないわけにはいかない。

 

 ソフィアは、静かに息を整えた。

 接近は一歩ずつ、確実に。

 そのための最初の手段を、彼女は選んだ。

 

 舞踏の余韻が残る広間の隅で、ソフィアは小さな筆記机に向かった。

 誰にも見られないよう、クラリスがそっと背を向けて立ってくれていた。

 

 ソフィアは深紅の蝋封を用意し、静かにペンを取る。

 言葉は多くなくていい。

 ただ、心に残ったものを、まっすぐに。

 

 筆致は整っていて、凛としていた。

 一文ずつ、丁寧に。

 そして、最後に一輪の薄紅色の花を添え、封を閉じた。

 その花は、騎士団の庭でソフィアが自ら育てたもの。

 香りは控えめで、だが芯のある香気を放っていた。

 

 あなたの舞は、風のようにしなやかで、光のように儚く、

 それでいて、剣のように鋭く、心に深く届きました。

 ありがとう。

 ――ある者より

 

 近くにいた屋敷の使用人――まだ若い、礼儀正しそうな少年に声をかける。

 

「…少し、お願いがあるの」

 

 少年は驚いたように背筋を伸ばし、すぐに一礼した。

「はい、何なりと」

 

 ソフィアは封筒を差し出す。

「先ほど舞台で踊った少女に、これを渡してほしいの。名前は……分からないけれど、銀の髪で眼帯をしていた子」

 

 少年はすぐに思い当たったように頷いた。

「はい、あの方ですね。お預かりします」

 

「ありがとう。名前は伏せて構わない。

 ただ、感謝を伝えてほしい。……踊りが、とても美しかったと」

 

 少年はもう一度深く頭を下げ、封筒を丁寧に受け取った。

 

 控室では、役目を終えたアデルがセリウスと茶を飲みながら、舞踏の疲れを静かに癒していた。

 

「……実は、踊りを少し間違えました」

 

 彼女がぽつりと漏らすと、セリウスは笑いながら肩をすくめた。

「気づかなかった。誰も気づかなかっただろう。

 それだけ、お前の舞は完璧だったということだ」

 

 その時、ノックをして屋敷の使用人が控室に入り、封筒を少女に差し出した。

「ある方から、感謝の品です。名前は伏せてほしいとのこと」

 

 アデルは封を開け、手紙を読んだ。

 添えられた花を見つめながら、静かに微笑んだ。

 

 誰が送ったのかは分からない。

 だが、その言葉には、確かな温度があった。

 

「……嬉しいです」

 

 彼女はそう呟き、花をそっと机の上に置いた。

 

 その花は、控室の空気をわずかに変えた。

 冷えた空気に、春の兆しのような温もりが差し込んだ。

 

 セリウスは何も言わず、ただその様子を見守っていた。

 

 広間の隅に戻ったソフィアは、使用人から手紙が無事に渡ったことを聞き、静かに頷いた。

 それだけで、今日は十分だった。

 無理に話しかけることはしない。

 

 だが、次に会った時は――必ず、言葉を交わす。

 

「友達になりたい」

 

 その想いは、まだ誰にも知られていない。

 だが、紅の瞳の奥で、確かに燃えていた。

 

 そして、彼女は心の中で誓った。

 ――次に会う時は、名前を名乗ろう。

 ――次に会う時は、笑顔で話しかけよう。

 

 それは、宰相の娘としてでも、騎士団の一員としてでもなく、

 ただ一人の少女としての、静かな決意だった。

 

 その夜、クラリスは舞踏の出演者名簿と屋敷の記録を調べていた。

 ソフィアの命を受け、あの銀の瞳の少女の素性を探るために。

 

 だが、記録は簡素で、名は記されていなかった。

 代わりに、所有者の欄に「バルド男爵」とあり、身分には“奴隷”と記されていた。

 

 クラリスは目を見開き、すぐにソフィアのもとへ向かった。

 

「ソフィア様……あの踊り子についてご報告があります」

「何か分かったの?」

 

「はい。ですが……少し、驚かれるかもしれません」

 

 クラリスは一枚の紙片を差し出した。

「彼女は、使用人ではありません。正式には“奴隷”として登録されています。

 バルド男爵が南方の交易で得たと……ただ奴隷ですので、これは定かではありませんがそのように記載があります……舞踏への出場も、“展示目的”と記録されています」

 

 ソフィアは言葉を失った。

 瞳がわずかに揺れ、手にした紙片を見つめる。

 

「……奴隷?」

 

 その言葉は、彼女の口から絞り出されるように漏れた。

 

 あの舞。

 あの瞳。

 あの微笑み。

 

 それらが、“展示”のために用意されたものだったという事実。

 

「……そんなはず、ない」

 

 ソフィアは小さく呟いた。

 

「…彼女は、命を持っていた。……あれは、誰かの所有物なんかじゃない」

 

 クラリスは黙って頷いた。

 ソフィアの紅の瞳は、静かに燃えていた。

 

 その炎は、ただの憧れではない。

 それは、理不尽に抗う者の、騎士としての本能だった。

 

 そして、ソフィアは心の中でもう一度誓った。

 ――次に会う時は、彼女の名を知りたい。

 ――次に会う時は、彼女の自由を願いたい。

 

 それは、少女としての願いであり、騎士としての使命の始まりだった。

 

 彼女は静かに立ち上がり、広間のざわめきの中へと戻っていく。

 深紅のドレスが揺れ、赤茶色の瞳が前を見据える。

 

 その瞳の奥には、もう迷いはなかった。

 あの舞が灯したものは、ただの感動ではない。

 それは、誰かを知りたいという衝動であり、

 誰かを守りたいという衝動であり、

 誰かを“人として”見たいという、確かな意志だった。

 

 名も知らぬ銀の瞳の少女。

 その存在が、ソフィアの世界を静かに揺らし始めていた。

 

 そしてその夜、ヴェルム・アルジェンタムの空には、雲の切れ間から星がひとつだけ顔を覗かせていた。

 それは、まだ名も知らぬ二人の少女の間に灯った、小さな希望の光だった。




名も知らぬ瞳に、心が揺れた。
言葉では届かぬ想いを、手紙に託し、花に添えた。

その舞は、誰のものでもなく、
その瞳は、誰かの所有物ではなかった。

ただ、そこに“生きている”と感じた。
ただ、そこに“触れてみたい”と願った。

紅の瞳の奥に灯ったのは、憧れではない。
それは、守りたいという衝動。
それは、名を知りたいという祈り。

そして、少女は誓った。
次に会う時は、名前を名乗ろう。
次に会う時は、笑顔で話しかけよう。

その誓いは、まだ誰にも知られていない。
けれど、確かに物語を動かし始めている。

――その手紙に名はなく、花に言葉はなかった。
けれど、想いは確かに届いた。
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