銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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 夜が静かにほどけていく。
 華やかな宴のあと、残されたのは、誰にも知られぬ帰路と、胸に灯る小さな余韻。
 ひとりの少女は、揺れる箱の中で、今日という一日をそっと抱きしめる。



第二十三話 揺れる箱の中で

 

 社交界の夜が終わりを告げる頃、広間の燭台は静かに消され、絹の笑い声は夢のように薄れていった。

 バルド男爵は満足げにほろ酔いの足取りで、セリウスに支えられながら馬車へと乗り込む。

 杯の残り香と満足の笑みが、彼の衣の裾に揺れていた。

 

 控室の前では、ミレナが帰り支度を整えていた。

 セリウスは男爵の介助で広間の外へ向かっており、周囲は一時的に静かだった。

 

 アデルは木箱の前でふと立ち止まり、ミレナに小声で告げる。

 

「……あの、先にトイレに行ってもいいですか」

 

 ミレナは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく頷いた。

「もちろん。急がなくていいわ。今なら誰もいないし、セリウス様も馬車の方だから」

 

 アデルは小走りで廊下を抜け、扉の向こうへ消えていく。

 その背中は、銀糸のドレスの余韻をまだ纏っていた。

 

 トイレの扉が閉まると、アデルは小さく息を吐いた。

「ふぅ……これで、途中で困らない」

 誰もいない空間で、彼女はほんの少しだけ、素に戻った。

 それは、舞台の上では見せられない、ささやかな人間らしさだった。

 

---

 

 控室に戻ると、ミレナが待っていた。

 彼女はアデルの着替えを手際よく進めながら、そっと囁く。

 

「お疲れさま。……すごかったわよ、今日の舞。広間が静まり返ってた」

 

 アデルは微笑みながら頷いた。

「ありがとうございます。……少し、緊張しました」

 

 銀糸のドレスを脱ぎ、簡素な布地の衣に着替える。

 ミレナは濡らした布で丁寧にメイクを落としながら、ふと懐から包み紙を取り出した。

 

「それと……帰りも長旅になるから。少しだけ、持ってきたの」

 包み紙の中には、小さな焼き菓子と果実の砂糖漬けが入っていた。

 そして、手拭いに包まれた水の小瓶も。

 

 アデルは目を見開いた。

「……えっ、これ……」

 

「内緒よ。貴族たちのテーブルから、ほんの少しだけ。セリウス様には見られたけど、何も言わなかった。たぶん、気づいてたけど黙ってくれたのね」

 

 アデルはそっと受け取り、包み紙を胸元にしまった。

 少しだけ涙が出そうになった。

 

「ありがとうございます……すごく嬉しいです」

 

 ミレナは笑って肩をすくめた。

「たまには、ね。あなたが笑ってくれるなら、それでいいの」

 

---

 

 着替えを終えたアデルは、木箱の前に立った。

 その内側は、滑らかな木肌で冷たくも優しい。

 鍵が外からかけられ、世界は再び閉ざされた。

 

 やがて、馬車が動き出す。

 車輪の振動が床を通して伝わり、木箱は揺れれる。

 その揺れは、まるで遠くから届く鼓動のようで、アデルの身体に静かに染み込んでいく。

 

 箱の中は暗く、馬車の走る音が響く。

 アデルは膝を抱え、しばらく目を閉じていた。

 舞台の光も、広間の喧騒も、今は遠い。

 けれど、胸の奥にはまだ、拍手の余韻が残っていた。

 

 しばらくして、彼女は胸元から包み紙を取り出した。

 焼き菓子は、ほんのりとバターの香りがして、指先に柔らかく馴染んだ。

 果実の砂糖漬けは、光を受けて淡く輝き、まるで宝石のようだった。

 

 一口、焼き菓子をかじる。

 甘さが舌に広がり、口の中でほろりと崩れる。

 果実の酸味と甘みが混ざり合い、舌の上で踊るように広がった。

 水の瓶を開けて、喉を潤す。

 冷たさが身体の奥に染み渡り、アデルは小さく笑った。

 

 誰かが、自分のために用意してくれたもの。

 それは、命令でも義務でもない。

 ただの、優しさだった。

 

 それは、誰にも聞かれない夜の宴。

 彼女だけの、今日の出来事の密やかな祝福だった。

 

---

 

 菓子の甘さが口の中に残る頃、アデルは指先で膝を軽く叩き始めた。

 馬車の揺れに合わせて、リズムを取る。

 それは、舞台で踏んだステップの記憶。

 足音の残響が、身体の奥にまだ残っていた。

 

 そして、彼女は鼻歌を口ずさむ。

 誰にも聞かれない、小さな旋律。

 それは、赤子の頃に聞いたような、夢の中で誰かが囁いたような、曖昧で優しい歌。

 

 舞の記憶が、鼻歌の中に溶けていく。

 銀糸の裾が描いた軌跡。

 虹煌色の瞳に映った光。

 拍手と賛美の余韻。

 それらが、揺れる箱の中で静かに蘇る。

 

 アデルは目を閉じ、木の香りと月の光に包まれながら、

 静かに、静かに、鼻歌を続けた。

 

 それは、誰にも聞かれない歌。

 けれど、確かにそこにあった。

 彼女だけの、夜の箱庭だった。




 
 光が消えたあとに残るものは、静けさだけではない。
 誰にも知られぬ場所で、誰にも見られぬ時間の中で、
 ひとつの心が、そっと揺れた。

 それは、贈られた優しさに触れた瞬間。
 それは、記憶の奥に眠る旋律が目を覚ました夜。

 箱の中にあったのは、閉じ込められた沈黙ではなく、
 小さな自由の芽だったのかもしれない。
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