舞が終わり、箱庭の夜が静かにほどける。
帰路の先に待っていたのは、拍手ではなく、灯りと笑いと、ささやかな食卓だった。
夜の帳が屋敷を包み込む頃、社交界の喧騒はすっかり遠ざかっていた。
馬車が石畳を滑るように止まり、車輪の音が静かに消える。
玄関先には、エリスが待っていた。
中背で少しふくよかなメイド。物静かで、祈りの習慣を今も守る人だ。
「おかえりなさい。……無事で何よりです」
ミレナが馬車から降りると、エリスは静かに微笑んだ。
「アデルの舞、素晴らしかったのでしょうね。私も、見たかったですわ」
ミレナは頷く。
「ええ。……本当に、素敵だったわ」
荷物の積み下ろしには、カイラ、ノーム、リリィたちが駆けつけていた。
アデルが木箱から出ると、リリィがぱっと駆け寄ってくる。
「アデルちゃん! ねえねえ、どうだった? 貴族ってどんな感じ? ドレス着たの? 踊ったの? ねえ、踊ったの?」
アデルは少し戸惑いながらも、笑みを浮かべて頷いた。
「……うん。踊ったよ」
「わぁぁぁ……! すごいすごい! アデルちゃんが舞踏会で踊ったなんて!」
リリィは目を輝かせて、両手を胸の前で握りしめる。
「リリィ、喋ってないで動く!」
カイラが荷物を抱えながら鋭く声を飛ばすと、リリィは「ごめんなさーい!」とぺこりと頭を下げた。
その様子に、アデルは思わず小さく笑った。
笑い声は、舞台の緊張をほどくように、柔らかく響いた。
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荷物の中には、舞踏会で着た銀糸のドレスもあった。
アデルはそれをそっと抱き上げ、名残惜しそうに眺める。
その布地には、まだ広間の光が残っているようだった。
ミレナがそっと近づき、アデルの頭を撫でた。
「…本当によく頑張ったわね」
その声は、舞台の拍手よりも優しく、胸の奥に染み渡った。
アデルは目を伏せ、静かに頷いた。
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廊下の奥では、バルド男爵が酔いつぶれていた。
ガインとセリウスとノームが、その巨体を抱えながら寝室へ運んでいる。
「重い……」
「動かない……」
「いっそ放っておくか……」
三人のぼやきが、夜の静けさに溶けていく。
アデルはそれを見て、思わずクスリと笑った。
その笑いは、舞台の緊張をほどくように、柔らかく響いた。
すると――
「……ぐぅ」
お腹が鳴った。育ち盛りのアデルには、菓子だけでは足りなかった。
顔を赤らめ、そっとお腹を押さえる。
ミレナは目を細めて笑い、「パンくらいならあると思うわ」と言って、厨房へ誘った。
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夜の厨房には、グランがいた。
鍋の蓋を開けながら、振り返って言う。
「お、来たか。ちょうど良かった。帰ってくる頃だと思ってな」
アデルは驚いて目を丸くする。
ミレナが笑いながら声をかけた。
「…グランさん、こんな時間に厨房に?」
グランは眉をひそめることもなく、当然のように答えた。
「なんで驚く? 帰ってくる者に飯があるのは、当然だろう」
テーブルには、温かなたまごの入ったスープと、焼きたてのパンに挟まれたチーズとハム。
そして、添えられた小さなアップルパイ。
材料は質素だが、手の込んだ料理だった。
「……すごい……」
アデルは思わず声を漏らした。
普段は厨房の隅の床に座って食べる。
けれど今夜は違った。ミレナが椅子を引き、グランが無言でもう一脚を差し出す。
「今日は特別だ。テーブルで食え」
その言葉に、アデルは一瞬戸惑いながらも、そっと椅子に腰を下ろした。
「……ありがとうございます。すごく嬉しいです」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、ただ心からの感謝だった。
ミレナも隣に座り、グランは三人分を取り分ける。
三人は、温かな食事を囲みながら、静かに夜を分け合った。
「……グラン様、これは失敗作ですか?」
アデルがアップルパイを見て、からかうように言うと、グランは高らかに笑った。
「わしはアップルパイ作りに失敗したことなどないぞ!」
その声は、厨房の天井まで響いた。
ミレナも笑い、アデルも笑った。
笑い声が、夜の静けさに溶けていく。
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奴隷小屋に戻ると、リリィがぱっと駆け寄ってきた。
「アデルちゃん! どうだった? どんな人がいた? 踊ったの? ねえ、踊って!」
目を輝かせて懇願するリリィに、アデルは照れながらも頷いた。
藁の床の上で、そっと立ち上がる。
そして、静かに踊り始めた。
歌も添えて、声は小さく、でも確かに響いた。
その舞は、広間の絢爛とは違う。
もっと素朴で、もっと温かくて、もっと近い。
ノームも、カイラも、リリィも、息を呑んで見つめていた。
踊り終えると、アデルは深くお辞儀をした。
三人は、小さく、でも心からの拍手を送った。
「アデルちゃん、すっごく素敵!」
リリィが満面の笑みでそう言うと、アデルは少し照れながらも、微笑み返した。
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外では、夜風が静かに吹いていた。
その風は、舞台の余韻を運びながら、藁の隙間に優しく触れていた。
そして、アデルの胸の奥には、ひとつの灯がともっていた。
それは、誰かに見てもらえた喜び。
それは、誰かと分かち合えた温もり。
それは、踊ることの意味。
穏やかな夜が、静かに流れていった。
舞台の外にも、灯りはある。
それは、誰かの声。誰かの笑い。誰かと囲む食卓。
夜が深まるほど、心は少しずつほどけていく。