銀糸の軌跡は、夜の帳に溶けていった。
名も知らぬ踊り子の舞は、誰かの心に灯りを残し、誰かの歩みに影を落とす。
その灯りを追う者がいた。
遠く離れても、時が過ぎても――舞は、胸の奥で揺れていた。
城塞都市ヴェルム・アルジェンタムの空は、いつも澄んでいた。
騎士団の訓練場に響く剣戟の音、宰相の居城に届く政務の声。
その中で、ソフィアは剣を磨き、言葉を選び、誰にも見せない想いを胸にしまっていた。
時折、思い出す。
あの夜、冬宴で見た、銀糸の衣装を纏った踊り子。
名も知らぬ少女が、奴隷の身分でありながら、誰よりも美しく舞っていた。
その所作は、誰かに見せるためのものではなく、彼女自身の“生きている証”だった。
慣れない社交界に戸惑いながらも、ただその踊り子に目を奪われていた。
それ以来、踊りに興味を持ち、クラリスや侍女たちに協力してもらいながら、舞を磨いた。
理由はひとつ――あの踊り子に、少しでも近づきたかったから。
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「クラリス、あの子の名前……調べてくれる?」
「またですか、ソフィア様。前回もお調べしましたが、記録には“アデル”としか……」
「それでもいい。何度でも、確かめたいの」
「……わかりました。ですが、あの領地は閉鎖的です。深入りは危険かと」
「危険でも、気になるのよ。あの舞は、ただの見世物じゃなかった」
クラリスは少しだけ眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
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宰相ヴィクトルは、奴隷制度そのものに反対していた。
王都ルミナス・グランディアでは、彼の主導で制度の見直しが進められていた。
もし法が変われば、アデルは自由になる。
けれど、それは淡い期待だった。何年かかるかも、誰が阻むかも分からない。
それでもソフィアは、社交界に積極的に顔を出すようになった。
もう一度、あの舞を見られるかもしれない――その想いだけで、足を運んだ。
だが、ナヴァルシュ地方の領主・バルド男爵は、執拗にアデルを誰とも合わせようとせず、誰にも奪われないように囲っていた。
ソフィアは宰相の娘として目立つ行動を避け、社交界で見るたびに手紙を書き、使用人に託した。
アデルも、時折届くその手紙を読み、感謝と喜びを胸に抱いていた。
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「クラリス、手紙は届いてると思う?」
「ええ、屋敷の侍女から報告がありました。彼女は、封を開ける前に必ず手を合わせて祈っているそうです」
「……そう。なら、よかった」
「ソフィア様、なぜそこまで……」
「わからない。ただ、あの子の舞を見たとき、胸が痛くなったの。何かを奪われたような、でも何かをもらったような……そんな気がしたの」
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やがて、ソフィアはバルド男爵の領地を調べ始めた。
奇跡が起きている――教会の噂だった。
怪我人や心を病んだ者を癒す「赫蒼の癒し手(かくそうのいやして)」という存在がいるという。
治癒魔術では説明できない現象が起きており、男爵はそれを利用して寄付を集めていた。
教会へ一部を納めているため、異端とはされず、咎めもなかった。
ソフィアは呆れた。
金を払えば奇跡を認め、払わなければ異端とする――教会も腐っている。
教会は「癒し手」との面会を求めたが、男爵は「信仰の掟により会わせられない」と言い、金を納めることで沈黙を買っていた。
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「赫蒼の癒し手……」
ソフィアは呟いた。
「クラリス、あの子の左目、覚えてる?」
「眼帯をしていましたね。怪我かと思いましたが……」
「違う。あれは、隠してる。何かを」
「まさか、“赫蒼ノ奈落”を……?」
「可能性はある。古の呪術、痛みを引き受ける瞳。あの子なら……」
クラリスは言葉を失い、ただ静かに頷いた。
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そうこうしているうちに、近隣諸国との緊張が高まり、ソフィアは数年領地を離れることとなった。
アデルのことが、心から離れなかった。
初めて見たとき、彼女は十五歳だった。
そして、国に戻った頃――ソフィアは十八歳になっていた。
その間に、何があったのか。
彼女は、今も舞っているのか。
左目の奥には、何を抱えているのか。
ソフィアは、まだ知らない。
けれど、灯りの向こうにいるその人を、忘れたことは一度もなかった。
舞は、度々行われた。
その都度、その軌跡は、誰かの心に灯りを残した。
名前も知らず、声も交わさず――それでも、忘れられなかった。
遠く離れても、時が過ぎても、
灯りの向こうにいるその人を、
誰かは、静かに追い続けている。