銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

27 / 45

静けさの中に、音がある。
音の中に、祈りがある。
祈りの奥に、誰にも知られぬ決意がある。月光が差す夜、舞は始まり、終わり、そして――何かが変わる。名を持たぬ者が、名を囁かれ。
名を誇る者が、名にすがる。これは、ひとつの境界を越える物語。
その瞬間を、誰も知らない。
ただ、風がそれを記憶している。



第二十七話 箱の中の静寂、箱の外の咆哮

アデルの生活は、変わらず忙しく、静かに充実していた。

 屋敷では稽古と業務、夜は学び。癒し手として領民を癒し、社交界では舞を披露する。

 その日も、舞のために馬車に乗る準備が整えられていた。

 

 ただ、いつもと少し違っていた。

 セリウスは休暇に入っており、ガレンは稽古中に負傷、エリスが体調を崩し、療養に入ったため、屋敷の管理はミレナが任されることになった。

 そのため彼女は同行できず、アデルと男爵、そして日雇いの使用人だけでの出席となった。

 

 出発前、ミレナは玄関先でアデルに声をかけた。

 

「ほんとに行くのね、あの男爵と二人で」

「はい。護衛の使用人の方々もおりますし、馬車も問題なく整っています」

「セリウス様は休暇中、ガインは怪我で屋敷警備。エリスさんも体調崩しちゃったから私も行けない。何かあったらすぐ逃げなさいよ」

「はい、ミカさんに教わった逃げ方も、忘れてないです」

「……あんた、ほんと冷静ね。怖いと思うのも大事よ」

「何かあったら怖いと思うけど…でも、舞を踊るのは楽しみです」

「……そう。なら、せめて、帰ってきたら、ちゃんとご飯食べなさい。冷たいスープは嫌でしょう?」

「はい、ありがとうございます」

 

 アデルは微笑んで一礼し木箱に向かった。膝を抱える角度を調整しながら、鼻歌を歌う。

 どんな踊りをしようか。どんな旋律が、今日の空気に合うだろうか。

 箱の中は暗く、狭く、静かだったが、彼女の心は軽やかだった。

 

 

 

 社交界の広間は、いつも通り賑やかだった。

 金糸のカーテンが揺れ、香水の香りが空気を満たす。

 貴族たちは笑い、囁き、駆け引きを交わしながら、余興の数々に目を向けていた。

 

 

 

 バルド男爵の屋敷からの出席者は、男爵本人とアデルのみ。

 男爵は文句を言いながら、日雇いの使用人を数人雇って今日の社交界に臨んだ。

 広間では、楽団の演奏、幻影魔術師による小劇、鳥を使った曲芸、香水師による香の競演など、次々と余興が披露されていた。

 

 

 

 舞台袖では、アデルが静かに順番を待っていた。

 銀糸の衣装を整えながら、余興のひとつひとつに目を向ける。

 鳥が輪をくぐるたびに、貴族たちが歓声を上げる。香水師が香を焚くと、甘く華やかな香りが舞台袖まで届いた。

 アデルはそっと目を細め、小さく拍手を送った。幻影魔術師の演目では、空に浮かぶ蝶の幻が舞い、彼女は静かに微笑んだ。

 

 

 

 その姿を、舞台袖の後方に控えていた者たちが見ていた。

 次の演目に備えて待機していた踊り手や楽師たちは、アデルの横顔に目を奪われていた。

 銀糸の衣装が月光を受けて淡く輝き、微笑む唇は静かな余韻を宿していた。

 

 

 

「……“月光の舞姫”って、あの子のことだろ?」

「そう。以前の舞がきっかけでそう呼ばれるようになったらしいよ」

「月明かりの下で踊ったって?」

「うん。広間の灯が落ちて、月だけが差してた。あの銀糸が光って、まるで幻か月の妖精みたいだったって」

「今日も踊るんだろ? 早く見たいな」

 

 

 

 囁きは小さく、誰も彼女に声をかけようとはしなかった。

 ただ、見惚れていた。舞台袖の暗がりにいても、彼女の存在は光を帯びていた。

 アデルは、気づいていないふりをしていた。けれど、心の奥では――少しだけ、くすぐったかった。

 

 

 

 やがて、楽団の音が変わる。

 司会役の貴族が名を告げることなく、ただ「次の舞を」と手を振った。

 アデルは静かに舞台へと歩み出る。

 

 

 

 広間の灯が少し落とされ、月光が差し込む。

 銀糸の裾が揺れ、彼女の足元に淡い光が集まる。

 音楽が始まる。

 アデルは、舞った。

 

 

 

 指先が空を描き、足運びが風を誘う。

 彼女の動きは、静かで、鋭く、柔らかかった。

 舞というより、祈りに近い。

 誰かの痛みを抱き、誰かの願いを運ぶような、そんな舞だった。

 

 

 

 広間は静まり返っていた。

 誰もが息を呑み、目を離せなかった。

 銀糸が月光を裂き、彼女の影が床に咲いた。

 

 

 

 最後の一歩を踏み終えたとき、音楽が止まる。

 拍手は、すぐには起きなかった。

 それは、余韻が深すぎたからだった。

 

 

 

 そして、静かに、広間が揺れた。

 拍手が起きて金貨や宝石のようなものが投げ込まれる。

 皆、"月光の舞姫"と呼ばれるその存在に、心を奪われていた。

 

 

 

 社交界は終わり、日雇いの使用人たちは、荷物と酔いつぶれた男爵を馬車に乗せ、屋敷へ向かう準備を整えた。

 アデルは、いつものように木箱に入る。

 ただ今回はミレナが同行していない為、着替えなどは屋敷に帰ってからする事となり、ドレスのまま入った。

 狭いながらも、彼女は鼻歌を歌いながら、今日の舞を思い返していた。

 箱の隙間から見える月は、静かに彼女を照らしていた。

 

 馬車は静かに走り出し、夜の街道を進んでいく。

 車輪の音が規則正しく響き、月光が窓の縁をなぞっていた。

 

 

 だが、ふと――妙な気配を感じた。

 鼻歌を止め、耳を澄ます。馬車が急に止まり、馬が騒ぎ始める。外から、喧騒が聞こえる。

 

 

 

 盗賊だ。

 

 

 馬車の中では、酔いつぶれていたはずのバルド男爵が怒鳴り声を上げていた。

 声は濁っていたが、恐怖ではなかった。

 それは、地位に裏打ちされた傲慢さ――いや、地位しか持たない者の虚勢だった。

 

 

 

「貴様ら、何をしている! この馬車はグレイシュ家のものだぞ!」

「私に触れるな! 私は男爵だ! 貴族だぞ!」

「この私に手を出して、どうなるか分かっているのか? 貴様らのような無名の盗賊が、私に――」

 

 馬車の壁を拳で叩きながら、なおも叫び続ける。

 その声は、夜の静寂に不釣り合いなほど大きく、滑稽だった。

 

 

 

「私に触れるなと言っている! 貴族に逆らうなど、身の程を知れ!」

 

 

 その瞬間、何かが叩きつけられる音が響いた。

 肉が潰れるような鈍い衝撃音。

 そして、沈黙。

 

 

 箱の中でアデルは冷静に、自分のおかれている状況を考える。

 木箱の中。鍵は外から。魔力は使える。肉体強化も、十分に蓄えてある。

 彼女は、深く息を吸った。

 骨の軋みが、内側から鳴った。

 

 

 馬車の荷台に、盗賊の一人がよじ登ってきた。

 木箱の隙間からでは暗くて、顔は見えなかった。

 月光は遮られ、輪郭すら曖昧だった。

 ただ、革の擦れる音と、金属の鈍い響きだけが耳に届いた。

 

 

 

「おいおい、なんやこの箱……でっけぇなぁ……」

 箱の表面をぺたぺたと触りながら、仲間に向かって叫ぶ。

「おい、見ろや! これ、なんか入っとるぞ! 宝か? 金か? でっかい酒樽かもなぁ、へへっ」

 

 

 

「バカ言え、酒樽がこんな丁寧に鍵かけられてるかよ」

 後ろから、年配の盗賊がぼやく。

「それにしても、妙にでかいな……人でも入ってんじゃねぇのか?」

 

 

 

「人ぉ? こんな箱に? まさかよ……」

 若い盗賊は笑いながら鍵穴に手を伸ばした。

 

 

 

 その瞬間――アデルは、動いた。

 

 

 

 魔力を脚部に集中させ、筋肉を強化する。

 関節が軋み、骨が鳴る。

 箱の内側から、全力で蹴り上げた。

 

 

 

 箱が、爆ぜた。

 

 

 

 木板が四方に飛び散り、盗賊の一人は吹き飛ばされた。

 彼の身体は荷台の柵に叩きつけられ、呻き声すら出せず崩れ落ちた。

 破片が月光に煌めき、夜の空気が一瞬、凍りついた。

 

 

 

 その中心から、銀糸の裾を翻し、アデルが飛び出した。

 彼女は、吹き飛ばされた盗賊の身体に飛びつき、腰に吊るされた剣を引き抜いた。

 刃は鈍く、手入れもされていなかったが、殺すには十分だった。

 

 

 

 盗賊が驚いた顔をしていると、アデルはその喉元に刃を滑らせた。

 血が噴き出し、彼の身体は痙攣しながら沈んだ。

 彼女は、構えた。

 

 

 

 銀糸の衣装は月光を受けて淡く輝き、返り血を浴びないほど素早く動いた。

 瞳は鋭く、呼吸は静かだった。

 彼女の中には、何もなかった。

 ただ、殺すべき対象があるだけだった。

 

 

 

「な、なんやあいつ……!」

「箱から飛び出してきたぞ……!」

 

 

 

 盗賊たちは、目の前の少女を見て言葉を失っていた。

 沈黙を破ったのは、盗賊団のリーダーらしき男だった。

 大柄で、肩に獣の毛皮を巻き、片目に傷が走っている。

 その男は、アデルを見て口元を歪めた。

 

 

 

「……お前らボケっとしてんじゃねえ!!あいつを捕まえろ!」

 

 

 

 号令と同時に、盗賊たちが一斉に動いた。

 剣を抜く者、縄を構える者、馬に飛び乗る者――

 そのすべてが、アデルに向かって殺到した。

 

 

 

 アデルは、瞬時に層の薄いところを見出した。

 動きの遅い者、足場の悪い者、武器の構えが甘い者――

 彼女の瞳は、すべてを見抜いていた。

 

 

 

 一歩、踏み込む。

 二歩、かわす。

 三歩目で、剣を振るう盗賊の腕を蹴り上げ、武器を弾く。

 そのまま踏み込み、喉元に刃を滑らせた。

 

 

 

 血が飛ぶ。

 だが、彼女の表情は変わらない。

 銀糸の裾が、夜風に揺れる。

 

 

 

 横目に、バルド男爵の姿が見えた。

 馬車の脇に倒れていた。

 顔は地面に押しつけられ、片腕は不自然に曲がっている。

 腹部には深々と剣が刺さっていた。

 血はすでに乾きかけており、目は開いたまま動かなかった。

 

 

 

 口元には、何かを言いかけたような形が残っていた。

 だが、声は聞こえてこない。

 

 

 アデルは、振り返らなかった。

 彼女は、ただ前を見ていた。

 

 

 

 闇の中へ、アデルは走った。

 森が、彼女を包み込む。

 盗賊たちも走り、馬に乗って探しに来る者もいた。

 

 

 

 だが、アデルは恐れていなかった。

 ミカから教わった知識が、彼女の中にあった。

 夜の森の歩き方。音を立てずに進む方法。風の向き、枝の折れ方、獣の気配。

 

 

 

 彼女は、闇の中を生き抜く術を知っていた。

 

 

 

 月は高く、風は冷たい。

 だが、アデルの瞳は揺るがなかった。

 彼女は、箱の中から飛び出した。

 それは、ただの脱出ではない。

 それは、彼女自身の境界の突破だった。





静寂は、いつも箱の中にある。
そこには祈りがあり、夢があり、誰にも知られぬ決意がある。だが、世界は静寂を許さない。
箱の外には、咆哮があり、欲があり、名ばかりの威厳がある。その境界を越えるとき、舞姫はただの踊り手ではいられない。
彼女の足取りは、風を誘い、影を裂き、夜を染める。そして、誰も知らないまま、彼女は次の夜へと歩き出す。
静かに、確かに、名も告げずに。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。