銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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森は、すべてを飲み込む。
音も、匂いも、命の気配さえも。その中を、ひとつの影が駆ける。
それは逃走ではなく、選択だった。名を持たぬ者が、名を囁かれ。
光を纏った者が、闇に潜る。これは、ひとつの夜を越える物語。
その足音は、風よりも静かだった。




第二十八話 ごめんなさいの刃

 

 森を裂くように、アデルは走っていた。

 肉体強化の魔法を全身に巡らせ、筋肉と骨格を限界まで研ぎ澄ます。

 足音は地を滑り、風を切る。

 この森の中では馬でも追いつけない速さ――それはもはや、人の域を超えていた。

 

 

 

 背後では、盗賊たちの怒声と蹄の音が遠ざかっていく。

 だが、油断はできない。

 彼女の命を狙う者たちは、ただの野盗ではない。

 その目は、金ではなく「彼女自身」を見ていた。

 名も、衣も、瞳も――彼女という存在そのものを。

 

 

 

 森の奥深く、アデルはふと足を止めた。

 目の前に、苔むした巨木が立っていた。

 樹齢は百年を超えているだろう。

 幹には、大人ひとりが入れるほどの洞(むろ)が開いていた。

 

 

 

 アデルは、むろの中で一晩を過ごすことに決めた。

 盗賊から奪った剣を抱え、膝を抱えて座る。

 心臓の鼓動が、ようやく静まり始める。

 

 

 

 このむろの中は、不思議なほど静かだった。

 風の音も、獣の気配も、遠くに消えていた。

 彼女は、剣を胸に抱いたまま、眠りに落ちた。

 

 

 

 翌朝、微かな光がむろの奥に差し込んだ。

 アデルは目を覚ます。

 耳を澄ませると、外から声が聞こえた。

 

 

 

 盗賊だ。

 人数は二人。

 夜通し、彼女を探していたようだった。

 

 

 

「……あの箱の中のやつ、どこ行ったんだよ」

「依頼主がうるせぇんだよ。逃がしたら金にならねぇ」

「ほんとに、あの娘で合ってんのか?」

「間違いねぇ。あの貴族が言ってた。銀糸のドレス、眼帯、虹色の瞳――あれは、間違いない」

 

 

 

 アデルは、むろの奥で息を潜めた。

 獣のように、静かに、冷たく。

 心臓の鼓動を抑え、呼吸を細くする。

 

 

 

 足音が近づく。

 むろの前に、一人の盗賊が現れた。

 アデルは、やるしかない。

 剣を握りしめる。

 ガインに教わった一撃――首を狙い、迷わず振り抜く。

 

 

 

 剣が肉を裂き、盗賊は声を上げる間もなく崩れ落ちた。

 血が、苔の床に広がる。

 その匂いが、むろの静寂を染めた。

 

 

 

 アデルは、息を落ち着け、小さな声で呟いた。

「……ごめんなさい」

 

 

 

 物音に気づいたもう一人の盗賊が近づいてくる。

 アデルは、気配を殺して茂みに身を潜めた。

 音もなく背後へ回り込み、剣を突き刺す。

 刃が心臓を突き、二人目も地に伏した。

 

 

 

 彼女は、剣を下ろし膝をついた。

 やらなければ、やられていた。

 それは、ただの事実だった。

 

 

 

 だが、心は揺れていた。

 彼女は祈った。

 死を見つめ、静かに涙を流した。

 そして、前を向いた。

 生きるために。

 

 

 

 アデルは、盗賊の持ち物をあさった。

 水筒、干し肉、地図。

 それらが入ったカバンを手に取る。

 

 

 

 盗賊の衣類ももらうことにした。

 元々着ていた銀糸のドレスと装飾品は、何かの役に立つかもしれない。

 彼女は、それらを丁寧に畳み、カバンにしまった。

 

 

 

 アデルの体格では少し大きい盗賊の衣装を身にまとい、マントを深く被る。

 血の匂いは、鼻を刺したが、我慢した。

 

 

 

 追手が来る――その予感があった。

 彼女は、森をさらに奥へと進んだ。

 肉体強化の魔法を使いながら、地を滑るように駆け抜ける。

 

 

 

 道中、魔物や獣に出会った。

 だが、アデルの速さに、誰も追いつけなかった。

 彼女は、風のように森を抜けた。

 

 

 

 やがて、暗くなり、かなりの距離を走り抜けた。

 ミカの知識を思い出す。

 水辺の探し方――風の流れ、植物の密度、地形の傾斜。

 

 

 

 その通りに進むと、やがて水の音が聞こえた。

 小さな川だった。

 彼女は、心の中でミカに感謝しながら、水を飲んだ。

 

 

 

 乾いた喉に、冷たい水が染み渡る。

 それは、命の味だった。

 

 

 

 昨日のような都合のいいむろは、もうなかった。

 だが、彼女は魔法で周囲に簡単な結界を貼った。

 誰かが近づけば、すぐにわかるように。

 アルゲンタイトとの魔術訓練を思い出しながら、慎重に術式を組む。

 

 

 

 アデルは、枯れ枝を集め、苔の少ない地面を選び、指先に魔力こめて慎重に火を起こす。

 火花が散り、やがて小さな炎が揺れた。

 

 

 

 盗賊の荷物の中から干し肉を取り出し、焚き火の上で炙る。

 肉の表面がじりじりと焼け、香ばしい匂いが夜の空気に溶けていく。

 アデルは、少し冷めた頃合いを見て、それを口に運んだ。

 固く、塩気の強い味だったが、温もりが喉を通ると、身体の芯に灯がともるようだった。

 水筒に川の水を入れ、喉を潤す。

 

 

 

 マントにくるまり、地面に横たわる。

 焚き火の音が、森の静寂に溶けていく。

 温もりはわずかだったが、確かだった。

 

 

 

 その炎は、彼女の瞳に映り、虹色の光を揺らした。

 彼女は、そっと目を閉じた。

 その胸には、誰にも知られぬ祈りが宿っていた。

 





生きるとは、選ぶこと。
何を捨て、何を抱き、何に祈るか。銀糸の裾は泥にまみれ、瞳は炎を映す。
それでも、彼女は前を向く。森は冷たい。
だが、焚き火の灯は確かだった。その灯は、誰にも奪えない。
それは、彼女の中にある。
まだ名もない、強さのかたち。

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