銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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森は、すべてを飲み込む。
音も、匂いも、命の気配さえも。その中を、ひとつの影が駆ける。
それは逃走ではなく、選択だった。名を持たぬ者が、名を囁かれ。
光を纏った者が、闇に潜る。これは、ひとつの夜を越える物語。
その足音は、風よりも静かだった。




第二十九話 自由への涙

 

 小鳥の囀りが、森の静寂を優しく揺らした。

 アデルは、目を覚ました。

 

 まぶたの裏に残る夢は、もう遠く、現実の冷気が肌を撫でていた。

 マントの中で丸くなっていた身体をゆっくりと伸ばし、彼女は息を吐いた。

 

 朝は少し寒かった。

 だが、空気は澄んでいて、風は穏やかだった。

 木々の間から差し込む光は、天からの祝福のように肩を撫で、地面の朝露は宝石のように輝いていた。

 今が冬でなくて良かった――その事実に、彼女は小さく安堵した。

 

 指先に魔力を込め、火の魔法を使って暖を取る。

 小さな炎が掌から生まれ、枯れ枝に移る。

 ぱちぱちと音を立てて燃える火は、まるで彼女の心の灯のようだった。

 

 遠くで鹿の足音が一瞬だけ響き、すぐに静寂に溶けていった。

 森は生きていた。だが、その命は、彼女を脅かすものではなく、包み込むものだった。

 

 周囲を見渡すと、木々が生い茂っていた。

 葉の間から差し込む光が、地面に模様を描いている。

 その中に、きのこや木の実が見えた。

 

 アデルは、ミカの教えを思い出した。

 毒のあるものと、食べられるものの見分け方。

 セリウスから見せてもらった図鑑の挿絵が、記憶の中で鮮やかに蘇る。

 

 彼女は慎重に選び、きのこを枝に刺して火にかざした。

 焼ける香りが鼻をくすぐる。

 木の実は、皮を剥いて口に運ぶ。

 甘みは少ないが、確かな栄養が身体に染み渡った。

 

 携帯食も残っていたが、それは“いざという時”のために取っておく。

 今は、森の恵みで十分だった。

 

 食事を終えると、アデルは火を見つめながら考えた。

 これから、どうするべきか。

 

 男爵は――死んでいた。

 あの夜、剣が身体に刺さり、血が地面に広がっていた。

 彼の怒鳴り声は、最後には静かになった。

 

 自分は、狙われている。

 盗賊たちは、ただの野盗ではなかった。

 誰かが、彼女を“奪う”ために依頼した。

 それは、彼女が“価値あるもの”として見られている証だった。

 

 屋敷に帰れば、どうなるのか。

 男爵の後に入る領主の奴隷になるのか?

 それは――嫌だった。

 

 だが、屋敷のみんなには会いたかった。

 9歳の頃から屋敷にいて、皆が優しく、家族のような人たちだった。

 

 彼らの顔を思い浮かべると、胸が締め付けられた。

 

 だが、ふと思った。

 いままでで、一番自由を得たのは――今ではないか?

 

 誰にも命令されず、誰にも縛られず、誰にも見張られていない。

 自分の足で歩き、自分の手で食べ、自分の意志で眠る。

 それは、今まで全く想像していなかった感覚だった。

 

 事故ではあった。

 逃げるつもりもなかった。

 だが、結果として――彼女は自由をつかんだ。

 

 その事実に気づいた瞬間、アデルは涙した。

 静かに、ぽろぽろと、頬を伝う涙。

 誰にも見られていないからこそ、素直に流せた涙だった。

 

「……私は、自由になったんだ」

 

 その言葉は、誰にも聞かれなかった。

 だが、森の風がそれを受け止めたように、葉が揺れた。

 

 アデルは、少し歩いた。

 森の奥から、ひらけた場所へと出る。

 そこには、広い空があった。

 

 空は青く澄んでいた。

 雲は遠く、太陽は高く、光は眩しかった。

 風が髪を揺らし、太陽の光が瞳に宿る。

 

 彼女は、左目の眼帯をそっとさすった。

 その下には、赫蒼ノ奈落の呪いが眠っている。

 だが、右目の煌虹の瞳は、太陽の光を受けて輝いていた。

 

 手で太陽を防ぎながら、空を見上げる。

 その青さは、どこまでも続いていた。

 

「……どこまでも、行ける気がする」

 

 その言葉は、風に溶けていった。

 だが、彼女の心には、確かに刻まれた。





誰にも見られない涙は、
命令のない世界で初めて流れる。

それは、悲しみではなく、
選ばれた孤独の証。

風はそれを奪わず、
空はそれを拒まない。

そして彼女は、
自分の足で歩き始めた。
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