銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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第三話 甘さと苦さのあわい

 朝、ミレナに連れられ、アデルは屋敷の仕事を覚え始めた。

 廊下の掃き掃除、窓拭き、客間の整頓、洗濯物の仕分け――

 ミレナは一つひとつの作業を実演し、短く的確に指示を出す。

 「こうやって、端から順に。力は要らない、丁寧にね」

 アデルは真剣に見つめ、すぐに同じ動きを繰り返した。

 

 「……あなた覚えるのが早いのね」

 ミレナは感心し、口元にわずかな笑みを浮かべた。

 後ろで控えていたエリスが静かに頷く。

 「ええ、悪くないわ。祈るように、心を落ち着けてやると、もっと良くなるわ」

 エリスの声は穏やかで、修道女だった頃の癖が滲んでいた。

 

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 昼時、ミレナはアデルを伴い、厨房から男爵の昼食を運んだ。

 磨き上げられた長いテーブルには、黄金色の焼き鳥、香草を散らした白身魚、湯気を立てるスープ、果物を飾ったパイ――見たこともない豪勢な料理が並んでいた。

 

 アデルは思わず喉を鳴らし、ゴクリと唾を飲み込む。

 「…視線を落として」

 ミレナが小声で注意する。その声音は鋭さよりも、場を乱さぬための配慮だった。

 

 やがてバルド男爵が現れ、椅子に腰を下ろす。

 ミレナは料理を取り分け、エリスがワインを注ぐ。

 男爵がグラスを空けると、エリスが再び瓶を手に取ったが、男爵はちらりとアデルを見た。

 

 「……あの娘に注がせろ」

 

 ミレナがアデルの背に手を添え、低く囁く。

 「落ち着いて。瓶はこう持って、傾けすぎないように」

 アデルは震える手で瓶を持ち、慎重にワインを注いだ。

 その震えを、男爵はニヤニヤと眺める。

 

 「昨日のお前の悲鳴は……今思い出しても良いものだ。今夜も聞けると思うと、楽しみで仕方ない」

 

 アデルの背筋に冷たいものが走った。

 それでも、ワインを注ぎ終えると、ミレナの合図で静かに下がった。

 ミレナの視線は、哀れみを帯びてアデルを追っていた。

 

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 食事が終わると、ミレナとエリスと共に食器やグラスを下げ、厨房へ運ぶ。

 男爵の館では、下げられた料理は使用人たちの食事となる。

 豪華な食事は男爵の権威の象徴であり、その余りを下位の者に与えることで、彼は自らの寛大さを誇示していた。

 

 厨房の大きなテーブルに料理が並べられ、手の空いた者から好きなものを取っていく。

 しかし、奴隷はその列に加わることはできない。

 奴隷には奴隷用の食事が別に用意されていた。

 

 ミレナがアデルを案内する。

 棚の上には乾いたパンの入った籠、鍋には野菜くずの浮かぶ薄いスープ、皿には肉の切れ端と野菜の皮を炒めた色褪せた料理。

 「ここから自分で取って、あそこの隅で食べなさい」

 指差されたのは、厨房の片隅、床に直接座る場所だった。

 

 村にいた頃、アデルは満足に食べられる日などほとんどなかった。

 父と母の残した皿のパンくずを拾い集め、それすらない日は森へ行った。

 木の実や野草を摘み、キノコを見つけては小枝で火を起こし、焦げる匂いを頼りに口へ運んだ。

 時には、罠や素手で捕まえたネズミやカエルを焼いて食べたこともある。

 それは生きるための術であり、飢えをしのぐ唯一の方法だった。

 

 だからこそ、今目の前にある硬いパンも、薄いスープも、肉の切れ端も――アデルにとってはご馳走だった。

 

 パンは硬かったが、噛むたびに小麦の香りが広がる。

 スープは薄味だが、温かさが喉を通るたびに身体の奥まで染み渡る。

 炒め物の焦げた肉の香ばしさは、ほんの一瞬だけ彼女を別世界へ連れていった。

 

 そのとき、ミレナが焼きリンゴの一切れを差し出した。

 アデルは驚いてミレナを見上げる。

 ミレナはふっと微笑み、「食べなさい」とだけ言った。

 アデルが恐る恐る口に運ぶと、蜂蜜の甘さが舌に広がり、頬がふわりと緩む。

 その様子を、ミレナは微笑ましく見つめていた。

 

 本来、使用人が奴隷に施しをすることは許されない。

 だが、その瞬間だけは、誰も咎める者はいなかった。

 

---

 

 昼食後も、アデルは必死にミレナの仕事を手伝った。

 一日中動き回り、夕食も昼と同じように与えられた。

 満足げな表情で奴隷小屋に戻ると、リリィが駆け寄ってきた。

 「アデルちゃん、どうだった?」

 ふたりは小声で色々と話し、やがて眠りについた。

 

 しかし、夜はまだ終わらない。

 寝静まった頃、扉が開き、ミレナが小声で告げた。

 

 「……アデル。男爵様が呼んでいるわ」

 

 アデルは震える声で返事をし、立ち上がった。

 その夜もまた、屋敷中に彼女の泣き叫ぶ声が響き渡った。

 

 

【挿絵表示】

 

ミレナ・ロシュ

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