朝、ミレナに連れられ、アデルは屋敷の仕事を覚え始めた。
廊下の掃き掃除、窓拭き、客間の整頓、洗濯物の仕分け――
ミレナは一つひとつの作業を実演し、短く的確に指示を出す。
「こうやって、端から順に。力は要らない、丁寧にね」
アデルは真剣に見つめ、すぐに同じ動きを繰り返した。
「……あなた覚えるのが早いのね」
ミレナは感心し、口元にわずかな笑みを浮かべた。
後ろで控えていたエリスが静かに頷く。
「ええ、悪くないわ。祈るように、心を落ち着けてやると、もっと良くなるわ」
エリスの声は穏やかで、修道女だった頃の癖が滲んでいた。
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昼時、ミレナはアデルを伴い、厨房から男爵の昼食を運んだ。
磨き上げられた長いテーブルには、黄金色の焼き鳥、香草を散らした白身魚、湯気を立てるスープ、果物を飾ったパイ――見たこともない豪勢な料理が並んでいた。
アデルは思わず喉を鳴らし、ゴクリと唾を飲み込む。
「…視線を落として」
ミレナが小声で注意する。その声音は鋭さよりも、場を乱さぬための配慮だった。
やがてバルド男爵が現れ、椅子に腰を下ろす。
ミレナは料理を取り分け、エリスがワインを注ぐ。
男爵がグラスを空けると、エリスが再び瓶を手に取ったが、男爵はちらりとアデルを見た。
「……あの娘に注がせろ」
ミレナがアデルの背に手を添え、低く囁く。
「落ち着いて。瓶はこう持って、傾けすぎないように」
アデルは震える手で瓶を持ち、慎重にワインを注いだ。
その震えを、男爵はニヤニヤと眺める。
「昨日のお前の悲鳴は……今思い出しても良いものだ。今夜も聞けると思うと、楽しみで仕方ない」
アデルの背筋に冷たいものが走った。
それでも、ワインを注ぎ終えると、ミレナの合図で静かに下がった。
ミレナの視線は、哀れみを帯びてアデルを追っていた。
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食事が終わると、ミレナとエリスと共に食器やグラスを下げ、厨房へ運ぶ。
男爵の館では、下げられた料理は使用人たちの食事となる。
豪華な食事は男爵の権威の象徴であり、その余りを下位の者に与えることで、彼は自らの寛大さを誇示していた。
厨房の大きなテーブルに料理が並べられ、手の空いた者から好きなものを取っていく。
しかし、奴隷はその列に加わることはできない。
奴隷には奴隷用の食事が別に用意されていた。
ミレナがアデルを案内する。
棚の上には乾いたパンの入った籠、鍋には野菜くずの浮かぶ薄いスープ、皿には肉の切れ端と野菜の皮を炒めた色褪せた料理。
「ここから自分で取って、あそこの隅で食べなさい」
指差されたのは、厨房の片隅、床に直接座る場所だった。
村にいた頃、アデルは満足に食べられる日などほとんどなかった。
父と母の残した皿のパンくずを拾い集め、それすらない日は森へ行った。
木の実や野草を摘み、キノコを見つけては小枝で火を起こし、焦げる匂いを頼りに口へ運んだ。
時には、罠や素手で捕まえたネズミやカエルを焼いて食べたこともある。
それは生きるための術であり、飢えをしのぐ唯一の方法だった。
だからこそ、今目の前にある硬いパンも、薄いスープも、肉の切れ端も――アデルにとってはご馳走だった。
パンは硬かったが、噛むたびに小麦の香りが広がる。
スープは薄味だが、温かさが喉を通るたびに身体の奥まで染み渡る。
炒め物の焦げた肉の香ばしさは、ほんの一瞬だけ彼女を別世界へ連れていった。
そのとき、ミレナが焼きリンゴの一切れを差し出した。
アデルは驚いてミレナを見上げる。
ミレナはふっと微笑み、「食べなさい」とだけ言った。
アデルが恐る恐る口に運ぶと、蜂蜜の甘さが舌に広がり、頬がふわりと緩む。
その様子を、ミレナは微笑ましく見つめていた。
本来、使用人が奴隷に施しをすることは許されない。
だが、その瞬間だけは、誰も咎める者はいなかった。
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昼食後も、アデルは必死にミレナの仕事を手伝った。
一日中動き回り、夕食も昼と同じように与えられた。
満足げな表情で奴隷小屋に戻ると、リリィが駆け寄ってきた。
「アデルちゃん、どうだった?」
ふたりは小声で色々と話し、やがて眠りについた。
しかし、夜はまだ終わらない。
寝静まった頃、扉が開き、ミレナが小声で告げた。
「……アデル。男爵様が呼んでいるわ」
アデルは震える声で返事をし、立ち上がった。
その夜もまた、屋敷中に彼女の泣き叫ぶ声が響き渡った。
ミレナ・ロシュ