街は整っていた。
だが、風の向きは少しだけ変わっていた。
誰かが歩き、誰かが見つめ、誰かが眠っていた。
その交差に、物語の気配が静かに芽吹いていた。
ヴェルム・アルジェンタム――
その名にふさわしく、街は銀のように整然としていた。
石畳は磨かれ、建物は均整が取れ、行き交う人々の足取りは速く、目的に満ちていた。
騎士団の制服を着た者、商人風の服を纏った者、書類を抱えた官吏らしき人物――
誰もが、何かを運び、何かを目指していた。
だが、アデルにとってはすべてが新鮮だった。
初めて歩く街並み。
騎士団の訓練場から響く剣の音、鐘の音、商人の呼び声。
騒がしいのに、どこか心地よい。
彼女はマントを整えながら、ゆっくりと歩いた。
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だが、歩みを進めるにつれ、周囲の視線が少しずつ集まっていることに気づいた。
整った顔立ちに、右目の煌虹の瞳。
左目は黒い眼帯に覆われ、身に纏うのは粗野な盗賊の衣装。
その奇妙な組み合わせに、通りすがりの人々が思わず振り返る。
商人は声をかけかけて言葉を飲み込み、騎士団の若者は目を奪われたまま足を止めた。
子どもたちは好奇心に目を輝かせ、貴婦人たちは小声で何かを囁き合う。
アデルは、視線の意味を理解していた。
美しさへの驚き。
眼帯への警戒。
服装への違和感。
彼女は、静かにマントのフードを深く被った。
顔の半分が影に沈み、瞳の光も隠れる。
それでも、足取りは変わらなかった。
視線は前を向き、歩みは静かに、しかし確かに進んでいた。
彼女の存在は、街の整然とした空気に、ほんのわずかな揺らぎを与えていた。
それは、異物ではなく――予兆だった。
この都市に、何かが始まるという予感。
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やがて、街の中心に近づくにつれ、賑やかな市場に出た。
屋台が並び、香ばしい匂いが風に乗って鼻をくすぐる。
焼きたてのパン、果物、香草、そして――串焼き。
「お嬢ちゃん! 串焼きどうだい? サービスするよ!」
声をかけてきたのは、丸顔で髭を蓄えた屋台の店主。
手には、炭火で焼かれた肉の串が握られていた。
香ばしい匂いが、アデルの空腹を刺激する。
彼女は少し戸惑いながら、カバンから魔石を取り出した。
「……持ち合わせがなくて。これを、どこかで換金できませんか?」
店主は魔石の量を見て、目を見開いた。
「おいおい、嬢ちゃん! こんなもん、ここで出すもんじゃない! しまっときな!」
慌てて周囲を見回し、声を潜める。
「それだけの魔石は、そこらの店じゃ買い取れねぇ。大きな商会じゃないと無理だ。ええと……“銀環商会”がいい。ここから東の通りを抜けて、広場の奥にある白い建物だ。看板に銀の輪っかが描いてあるからすぐわかる」
アデルは深く感謝を伝え、魔石を一つ手渡した。
店主は驚きながらも、受け取る。
「……本当にいいのかい?」
「はい、教えていただいたお礼です」
店主は笑い、串焼きを十本ほど紙に包んで渡してくれた。
「嬢ちゃん、気をつけてな。銀環商会は信用できるが、街にはいろんな奴がいるからな」
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串焼きを食べながら、アデルは市場の通りを歩いていた。
香ばしい肉の香りが鼻をくすぐり、焼き目のついた串が手の中で温かかった。
そのとき、背後から声が飛んできた。
「なんだよそれ、いいもん食ってんな。女のくせに、やけにガラが悪いな」
振り返ると、七つか八つほどの男の子が立っていた。
髪はぼさぼさで、服は擦り切れている。
だが、目は鋭く、串焼きに釘付けだった。
アデルは、その子に声をかけた。
「……この串焼き、あげるから、商会の場所を案内してくれる?」
少年は眉をひそめた。
「は? 串焼きで案内頼むのかよ。……まあ、悪くないな」
アデルは少し笑った。
少年は、彼女の顔を見て、急に目を逸らした。
「オレはケビン。貧民街の端に住んでる。兄貴と二人で、毎日食うもん探してる」
「この通りは昼は賑やかだけど、夜はスリが出る。財布なんかぶら下げてたら一発でやられるぞ」
「銀環商会の前には、白い猫がいる。名前は“ミルク”。触ると引っかかれるけど、餌をやるとついてくる」
「騎士団の連中は堅物ばっかだが、団長のソフィア様だけは別。あの人は貧民街にも顔出してくれる。……良い人だよ」
アデルは、ケビンの話に耳を傾けながら、街の空気を吸い込んだ。
それは、屋敷では味わえなかった“生きた情報”だった。
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通りを抜けると、街の喧騒が少し落ち着き、空が広くなった。
そこに、ケビンの言葉通りの建物が現れた。
白石造りの三階建て。
その正面には、銀色の輪が交差する紋章が掲げられていた。
信頼と循環を象徴するその印は、王国公認の大商会――銀環商会の証だった。
その前には、確かに一匹の白猫が寝そべっていた。
「ほらな、言ったろ? あいつが“ミルク”。触ると怒るけど、餌をやると懐くんだ」
ケビンがそう言いかけた瞬間、ミルクがふいに立ち上がり、アデルの足元へとすり寄ってきた。
白い毛並みが彼女のマントに触れ、柔らかな鳴き声が響く。
「……え? なんで……」
ケビンが目を見開いた。
「いつもは誰にも寄ってかねぇのに……姉ちゃん、なんか変な匂いでもすんのか?」
アデルはしゃがみ込み、ミルクの背をそっと撫でた。
白い毛並みは絹のように滑らかで、指先にぬくもりが残る。
猫は目を細め、喉を鳴らしながら彼女の膝に頭を擦りつけてきた。
ケビンはぽかんと口を開けたまま、しばらく言葉が出なかった。
「……なんだよそれ。ミルクが懐くなんて、初めて見たぞ」
アデルは微笑みながら、猫の耳の後ろを優しく撫で続けた。
ミルクは満足げに丸くなり、彼女の足元に身を預ける。
「…よろしくね、ミルク」
アデルは優しくミルクに語りかける。
ケビンは腕を組み、少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「ふーん。……姉ちゃん、見た目は変だけど、けっこうすげぇな」
アデルは立ち上がり、ミルクにそっと別れを告げるように手を振った。
猫は一度だけ尻尾を揺らし、また石畳の上で丸くなった。
彼女は、持っていた串焼きをすべてケビンに渡した。
「お兄さんと分けて食べてね」
ケビンは目を丸くした。
「……こんなに? マジかよ。姉ちゃん、見た目よりずっと太っ腹じゃん」
そして、串焼きを抱えたまま走り出す。
「また会おうぜ! 案内料はこれでチャラだ! ……次は魚がいいな!」
アデルは、彼の背中を見送りながら、静かに微笑んだ。
市場の喧騒の中で、彼女の心には、確かな温もりが残っていた。
そして、銀環商会の扉の前で、彼女の旅は次の段階へと進もうとしていた。
ケビン・ロッシュ
都市の鼓動は速く、冷たく、整っていた。
だがその片隅で、泥の靴と白い毛並みが、旅人の歩みに寄り添った。
交わされた言葉は少なく、けれど確かに温かかった。
扉の前に立つその背に、街の気配が静かに重なる。
次に開かれる扉の向こうには、まだ誰も知らない物語が待っている。