銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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 街は整っていた。
 だが、風の向きは少しだけ変わっていた。

 誰かが歩き、誰かが見つめ、誰かが眠っていた。
 その交差に、物語の気配が静かに芽吹いていた。



第三十一話 貧民街の少年と、猫と、旅人

 

 ヴェルム・アルジェンタム――

 その名にふさわしく、街は銀のように整然としていた。

 

 石畳は磨かれ、建物は均整が取れ、行き交う人々の足取りは速く、目的に満ちていた。

 騎士団の制服を着た者、商人風の服を纏った者、書類を抱えた官吏らしき人物――

 誰もが、何かを運び、何かを目指していた。

 

 だが、アデルにとってはすべてが新鮮だった。

 

 初めて歩く街並み。

 騎士団の訓練場から響く剣の音、鐘の音、商人の呼び声。

 騒がしいのに、どこか心地よい。

 彼女はマントを整えながら、ゆっくりと歩いた。

 

---

 

 だが、歩みを進めるにつれ、周囲の視線が少しずつ集まっていることに気づいた。

 

 整った顔立ちに、右目の煌虹の瞳。

 左目は黒い眼帯に覆われ、身に纏うのは粗野な盗賊の衣装。

 

 その奇妙な組み合わせに、通りすがりの人々が思わず振り返る。

 商人は声をかけかけて言葉を飲み込み、騎士団の若者は目を奪われたまま足を止めた。

 子どもたちは好奇心に目を輝かせ、貴婦人たちは小声で何かを囁き合う。

 

 アデルは、視線の意味を理解していた。

 美しさへの驚き。

 眼帯への警戒。

 服装への違和感。

 

 彼女は、静かにマントのフードを深く被った。

 顔の半分が影に沈み、瞳の光も隠れる。

 それでも、足取りは変わらなかった。

 

 視線は前を向き、歩みは静かに、しかし確かに進んでいた。

 彼女の存在は、街の整然とした空気に、ほんのわずかな揺らぎを与えていた。

 それは、異物ではなく――予兆だった。

 この都市に、何かが始まるという予感。

 

---

 

 やがて、街の中心に近づくにつれ、賑やかな市場に出た。

 屋台が並び、香ばしい匂いが風に乗って鼻をくすぐる。

 焼きたてのパン、果物、香草、そして――串焼き。

 

 「お嬢ちゃん! 串焼きどうだい? サービスするよ!」

 

 声をかけてきたのは、丸顔で髭を蓄えた屋台の店主。

 手には、炭火で焼かれた肉の串が握られていた。

 香ばしい匂いが、アデルの空腹を刺激する。

 

 彼女は少し戸惑いながら、カバンから魔石を取り出した。

「……持ち合わせがなくて。これを、どこかで換金できませんか?」

 

 店主は魔石の量を見て、目を見開いた。

「おいおい、嬢ちゃん! こんなもん、ここで出すもんじゃない! しまっときな!」

 

 慌てて周囲を見回し、声を潜める。

「それだけの魔石は、そこらの店じゃ買い取れねぇ。大きな商会じゃないと無理だ。ええと……“銀環商会”がいい。ここから東の通りを抜けて、広場の奥にある白い建物だ。看板に銀の輪っかが描いてあるからすぐわかる」

 

 アデルは深く感謝を伝え、魔石を一つ手渡した。

 店主は驚きながらも、受け取る。

 

「……本当にいいのかい?」

「はい、教えていただいたお礼です」

 

 店主は笑い、串焼きを十本ほど紙に包んで渡してくれた。

「嬢ちゃん、気をつけてな。銀環商会は信用できるが、街にはいろんな奴がいるからな」

 

---

 

 串焼きを食べながら、アデルは市場の通りを歩いていた。

 香ばしい肉の香りが鼻をくすぐり、焼き目のついた串が手の中で温かかった。

 そのとき、背後から声が飛んできた。

 

「なんだよそれ、いいもん食ってんな。女のくせに、やけにガラが悪いな」

 

 振り返ると、七つか八つほどの男の子が立っていた。

 髪はぼさぼさで、服は擦り切れている。

 だが、目は鋭く、串焼きに釘付けだった。

 

 アデルは、その子に声をかけた。

「……この串焼き、あげるから、商会の場所を案内してくれる?」

 

 少年は眉をひそめた。

「は? 串焼きで案内頼むのかよ。……まあ、悪くないな」

 

 アデルは少し笑った。

 少年は、彼女の顔を見て、急に目を逸らした。

 

「オレはケビン。貧民街の端に住んでる。兄貴と二人で、毎日食うもん探してる」

「この通りは昼は賑やかだけど、夜はスリが出る。財布なんかぶら下げてたら一発でやられるぞ」

「銀環商会の前には、白い猫がいる。名前は“ミルク”。触ると引っかかれるけど、餌をやるとついてくる」

「騎士団の連中は堅物ばっかだが、団長のソフィア様だけは別。あの人は貧民街にも顔出してくれる。……良い人だよ」

 

 アデルは、ケビンの話に耳を傾けながら、街の空気を吸い込んだ。

 それは、屋敷では味わえなかった“生きた情報”だった。

 

---

 

 通りを抜けると、街の喧騒が少し落ち着き、空が広くなった。

 そこに、ケビンの言葉通りの建物が現れた。

 

 白石造りの三階建て。

 その正面には、銀色の輪が交差する紋章が掲げられていた。

 信頼と循環を象徴するその印は、王国公認の大商会――銀環商会の証だった。

 

 その前には、確かに一匹の白猫が寝そべっていた。

 

「ほらな、言ったろ? あいつが“ミルク”。触ると怒るけど、餌をやると懐くんだ」

 

 ケビンがそう言いかけた瞬間、ミルクがふいに立ち上がり、アデルの足元へとすり寄ってきた。

 白い毛並みが彼女のマントに触れ、柔らかな鳴き声が響く。

 

「……え? なんで……」

 

 ケビンが目を見開いた。

「いつもは誰にも寄ってかねぇのに……姉ちゃん、なんか変な匂いでもすんのか?」

 

 アデルはしゃがみ込み、ミルクの背をそっと撫でた。

 白い毛並みは絹のように滑らかで、指先にぬくもりが残る。

 猫は目を細め、喉を鳴らしながら彼女の膝に頭を擦りつけてきた。

 

 ケビンはぽかんと口を開けたまま、しばらく言葉が出なかった。

「……なんだよそれ。ミルクが懐くなんて、初めて見たぞ」

 

 アデルは微笑みながら、猫の耳の後ろを優しく撫で続けた。

 ミルクは満足げに丸くなり、彼女の足元に身を預ける。

 

「…よろしくね、ミルク」

 

 アデルは優しくミルクに語りかける。

 ケビンは腕を組み、少し照れくさそうに鼻を鳴らした。

「ふーん。……姉ちゃん、見た目は変だけど、けっこうすげぇな」

 

 アデルは立ち上がり、ミルクにそっと別れを告げるように手を振った。

 猫は一度だけ尻尾を揺らし、また石畳の上で丸くなった。

 

 彼女は、持っていた串焼きをすべてケビンに渡した。

「お兄さんと分けて食べてね」

 

 ケビンは目を丸くした。

「……こんなに? マジかよ。姉ちゃん、見た目よりずっと太っ腹じゃん」

 

 そして、串焼きを抱えたまま走り出す。

「また会おうぜ! 案内料はこれでチャラだ! ……次は魚がいいな!」

 

 アデルは、彼の背中を見送りながら、静かに微笑んだ。

 市場の喧騒の中で、彼女の心には、確かな温もりが残っていた。

 

 そして、銀環商会の扉の前で、彼女の旅は次の段階へと進もうとしていた。

 

 

【挿絵表示】

 

ケビン・ロッシュ





 都市の鼓動は速く、冷たく、整っていた。
 だがその片隅で、泥の靴と白い毛並みが、旅人の歩みに寄り添った。

 交わされた言葉は少なく、けれど確かに温かかった。
 扉の前に立つその背に、街の気配が静かに重なる。

 次に開かれる扉の向こうには、まだ誰も知らない物語が待っている。
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