石畳に陽が差し、風が猫の毛並みを揺らす。
名も知らぬ旅人が扉を叩き、都市の午後にひとつの会話が生まれる。
誰かが眠り、誰かが歩き出す――銀環の店主は、それを見ていた。
32話
銀環商会――
白石造りの三階建て。広場の奥に、陽光を受けて静かに佇むその建物は、ヴェルム・アルジェンタムの経済の心臓部だった。
壁面には銀の輪が交差する紋章が掲げられ、扉の前には衛兵が二人、槍を持って直立している。
石畳は磨かれ、扉の取っ手には細工が施されていた。
その場に立つだけで、都市の秩序と重みが肌に伝わってくる。
アデルはマントのフードを深く被り、静かに歩み寄った。
だが、衛兵の一人がすぐに前に出る。
「おい、そこの嬢ちゃん。ここは遊び場じゃねぇぞ。用件は?」
アデルは、カバンから魔石の束を取り出し、そっと見せた。
光を受けて、魔石が淡く輝く。
「これを、売りたいんです。銀環商会なら、買い取ってくれると聞きました」
衛兵は目を見開き、思わず一歩下がった。
「……ちょ、ちょっと待て。おい、店主を呼んでこい!」
もう一人の衛兵が慌てて扉の奥へ走っていく。
その様子を、扉の脇で丸くなっていた白猫が、のんびりと見ていた。
首輪には、細い銀糸で「ミルク」と刺繍されている。
アデルは猫に目をやり、そっと微笑んだ。
ミルクはふにゃっと鳴いて、尻尾をゆるやかに揺らした。
風が通り抜け、毛並みがわずかに波打つ。
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扉の奥から、足音が響いた。
現れたのは、肩までの赤髪を後ろで束ねた、背の高い女性。
革のエプロンに、袖をまくったシャツ。
鋭い目つきと、豪快な笑みが印象的だった。
「魔石だって? どれくらいだ?」
アデルは、カバンを開けて見せた。
魔石がぎっしりと詰まっていた。
店主――レイナ・グリットは、目を見張った。
「……こりゃあ……久々に見る量だな。魔物狩りは一苦労だってのに、よくこんだけ集めたもんだ」
アデルは、落ち着いた声で話した。
「盗賊に襲われて、なんとか逃げ切ってここまで来ました。銀環商会なら、正当な価格で買い取ってくれると聞いて」
レイナは腕を組み、頷いた。
「なるほどね。よし、個室で話そう。おい、ノエル!」
奥から現れたのは、金髪で細身の青年。
制服の袖をきちんと折り、手には帳簿と羽ペン。
「はい、レイナさん。個室の準備、整ってます」
「よし……お嬢ちゃん、こっちだ」
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アデルは、レイナとノエルに連れられて、奥の個室へと入った。
木製のテーブルと椅子。棚には魔石の鑑定道具が並び、窓からは柔らかな光が差し込んでいた。
空気は静かで、外の喧騒が遠く感じられる。
アデルは、カバンから魔石を取り出した。
レイナは一つひとつを手に取り、光にかざし、魔力の流れを確認する。
「……こりゃあ、見事だ。魔物の種類も多いし、質もいい。最近じゃ、これだけまとまった魔石を見ることもなかったよ」
「少し計算に時間がかかると思いますが、よろしいですか?」
「もちろん。ノエル、頼んだよ。……これだけの量だ、お嬢ちゃん、ちょっとくらい時間かかってもいいだろ?」
「はい、構いません」
ノエルが帳簿を開き、魔石の大きさ、重さ、質を一つずつ丁寧に記録していく。
羽ペンの音が、静かな部屋に心地よく響いた。
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その間に、アデルはそっと言った。
「服も欲しいんです。女ですが、動きやすくて、冒険者のような服。マント付きで」
レイナは目を細めた。
「いい趣味してるね。よし、ノエル、後で在庫から選ばせてやれ」
アデルは、ようやくマントを脱いだ。
その瞬間、部屋の空気が止まった。
煌虹の瞳、整った顔立ち、静かな気品。
レイナもノエルも、言葉を失った。
「……あんた、どこぞの貴族か?」
「……いえ、ただの旅人です」
「……いかんいかん、魔石の計算が先だ」
レイナは頭を振って、帳簿に目を戻した。
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しばらくして、ノエルが顔を上げた。
「店主、計算終わりました。金貨9枚と銀貨15枚です」
アデルは、ドードから聞いていた魔石の相場を思い出す。
――金貨8〜10枚。予想通りだった。
「ありがとうございます。満足です」
レイナは金貨と銀貨を袋に入れて手渡した。
その後、服と靴を選び、着替えを済ませた。
「……古い服と靴、処分してもらえますか。もう、必要ないので」
レイナは笑顔で頷いた。
「構わんよ。うちじゃ、そういうのも引き取ってる。新しい一歩ってやつだろ?」
アデルは小さく笑みを返した。
その背中に、ほんの少しだけ、過去を手放す感覚が残った。
金額を尋ねると、レイナは笑って言ってきた。
「サービスだよ。あんた、いい目してる」
アデルは少し驚き、深く頭を下げた。
そして、ほんの一瞬だけ迷い――口を開いた。
「……ありがとうございます。申し遅れました、エルダといいます」
その名は、咄嗟に選んだものだった。
“アデル”の響きを反転させるように、記憶に残りすぎず、それでいて自分に馴染む名。
逃げる者としての慎重さと、まだ捨てきれない自分の輪郭を、ぎりぎりで繋ぎとめる仮の名。
レイナは目を細め、頷いた。
「エルダ、ね。いい名前だ。私はレイナ・グリット。銀環商会の店主さ」
「うちの商会は、顔と名前で付き合う主義だ。エルダ、あんたのことは覚えとくよ」
「……しばらく、この街に滞在しようと思ってます。まだ、次に進む先を決めかねていて」
レイナは腕を組み、口元を緩めた。
「そうかい。なら、焦らなくていい。ここはでかい街だ。見て回るだけでも、いろんなもんが見えてくるさ」
「宿はまだ決めてなくて……おすすめはありますか?」
レイナは指を立てて言った。
「それなら“月影亭”がいい。広場の北側、赤い屋根が目印。飯も風呂も文句なし。女将のルーシャは口は悪いが腕はいい」
「ありがとうございます。また魔石が手に入ったら、来てもいいですか?」
レイナは豪快に笑った。
「もちろんさ、アデル。いつでも頼ってきな! 銀環商会は、誠実が売りだ!」
アデルはその言葉に、静かに微笑んだ。
新しいマントの裾を整え、袋をしっかりと抱え直す。
「ありがとうございます。……では、行ってきます」
レイナは軽く手を振った。
「気をつけてな。月影亭の女将は口が悪いが、飯は絶品だよ」
アデルは一礼し、扉を開けて外へ出た。
広場の光が差し込み、石畳が柔らかく輝いていた。
扉の脇では、白猫のミルクが丸くなって眠っていた。
その尻尾が、夕風に揺れていた。
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扉が閉まり、静けさが戻る。
レイナは棚の帳簿を整えながら、ふっと息をついた。
ノエルが窓の外をちらりと見て、ぽつりと呟いた。
「……不思議な人ですね。綺麗だけど、眼帯にあの服装……ちょっと怪しいというか」
レイナは笑った。
「人生、見た目じゃ測れないよ。あの子も何か抱えてるんだろうさ」
ノエルは頷きながら、帳簿を閉じた。
「…でも、悪い子じゃなさそうでした」
レイナは椅子に腰を下ろし、腕を組んで天井を見上げた。
「そうだね。あたしの勘だけど、あの子は真っ直ぐだよ。少なくとも、嘘のつき方が下手そうだった」
ノエルは少し笑って、ペンをペン立てに戻した。
「また来ますかね」
レイナは肩をすくめて、にやりと笑った。
「来るさ。あたしたちは儲かればそれでいい。誠実に、しっかり稼ぐ。それが銀環商会のやり方だ」
窓の外では、ミルクが丸くなって眠っていた。
その尻尾が、静かに揺れていた。
古い靴を脱ぎ、名を告げ、新しい装いを得た。
銀環商会の扉を出たその背に、誠実な取引とひとつの笑みが残る。
猫は眠り、旅人は歩き出す――午後の都市は、静かにそれを見送った。