銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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霧深き森に、静かな終わりが落ちる。
壊れた箱、消えた名、残された祈り。
誰かが奪われ、誰かが探す。
その舞はまだ、誰にも届いていない。



第三十三話 壊れた鍵と、閉じられた声

 城塞都市ヴェルム・アルジェンタムへ向かう街道から外れた森の奥。

 朝靄が枝葉を包み、湿った空気が騎士たちの鎧に静かにまとわりついていた。

 数人の騎士が、荒らされた馬車の周囲で黙々と現場検証を行っている。

 馬車は横倒しになり、車輪は砕け、積荷は荒らされていた。

 その中心に、ひときわ異様な存在感を放つ遺体が横たわっていた。

 

 「……バルド男爵の遺体、確認済みです。顔は……一部、荒らされています。獣か、カラスか……」

 

 その場に集まった騎士たちは、皆沈黙していた。

 死者への敬意と、状況の異常さが空気を重くしていた。

 

 そこへ、蹄音が近づく。

 騎士団長――イレアナ・ソフィア・ドゥ・アルジェントが、二騎を従えて現れた。

 

 彼女が受けていた報告は、「貴族の馬車が襲撃された」という簡素なもの。

 盗賊か、事故か、あるいは政治的な陰謀か――詳細は現地での確認に委ねられていた。

 

 数年前まで続いていた周辺諸国との緊張がようやく収まり、彼女は正式に騎士団長の任を受けたばかりだった。

 だが、宰相の娘という立場ゆえに、貴族や大臣、教会の一部からは「七光り」と揶揄されることもあった。

 それでも彼女はめげなかった。

 実力で騎士たちの信頼を勝ち取り、今や騎士団内では誰もが彼女に忠誠を誓っている。

 そのカリスマ性は、確かに父譲りだった。

 

 馬を降りたソフィアに、現場の指揮を執っていた騎士が駆け寄る。

 「団長、お待ちしておりました。馬車の主は……バルド・エルゼリオ・ヴァン・グレイシュ男爵です」

 

 その名を聞いた瞬間、ソフィアの瞳がわずかに揺れた。

 ――アデル。

 あの夜、冬宴で舞っていた少女。

 煌虹色の瞳と眼帯。

 その舞は、誰よりも美しく、誰よりも孤独だった。

 彼女を囲っていたのが、まさにこの男爵だった。

 

 ソフィアは無言で歩き、馬車の傍らに横たわる遺体の前に膝をついた。

 肥満体型の男。泥にまみれた絹の服。濁った灰色の瞳。

 顔の皮膚は一部裂け、頬の肉が浅く削がれている。

 指輪のあったはずの指は赤黒く腫れ、爪が剥がれかけていた。

 獣か、あるいはカラスか――死後に何かがついばんだ痕跡が、静かに残っていた。

 

 その顔を見て、ソフィアは静かに呟いた。

 「……間違いない。バルド男爵だ」

 

 「報告を」

 ソフィアの声は静かで、よく通った。

 

 「はい。馬車は完全に荒らされており、積荷はすべて失われています。襲撃は社交界の夜の帰路と思われます。普段は男爵直属の護衛がついていますが、今回は日雇いの使用人を雇っていたようです。偶然か、狙われたのかは不明です」

 

 彼女の胸に、冷たい確信が落ちた。

 バルド男爵――王国北西部ナヴァルシュ地方の領主。

 奇物収集と社交に明け暮れ、奴隷制度を私的に運用し、教会の儀式を模倣する異端行為まで行っていた。

 「癒しの儀」と称し、仮面をつけた少女に力を使わせ、領民の前で“奇跡”を演出した。

 教会からは異端の疑いをかけられ、貴族の間でも嫌われていた。

 なるべくしてなった――ソフィアはそう思った。

 

 そのとき、彼女の脳裏に浮かんだのは、あの夜の舞。

 ――月光の舞姫。アデル。

 

 「社交界に、バルド男爵の踊り子はいたか?」

 ソフィアが問うと、一人の騎士が前に出た。

 

 「はい。私が警備に入っておりました。踊り子が一人、虹色の瞳で……“月光の舞姫”と呼ばれていました」

 「舞は見事で、場の空気が変わるほどでした。左目には眼帯をしていて……それがまた、神秘的な印象を……」

 言いかけて、騎士はハッとし、頭を下げた。

 「……申し訳ありません。余計なことを。」

ソフィアは短く言った。

 「謝罪は不要。その舞姫はどこだ?」

 

 騎士は一瞬言葉を探し、静かに答えた。

 「……遺体は見つかっておりません。周囲を捜索しましたが、痕跡はなく……逃げた可能性もありますが」

 彼は地面に残る複数の足跡と蹄の痕を指差す。

 「この人数で襲撃されたなら、攫われた可能性が高いかと」

 

 ソフィアは無言でうなずいた。

 その言葉に、一瞬だけ胸が緩んだ。

 死体がない――それだけで、ほんのわずかに息がしやすくなった気がした。

 だが、その安堵はすぐに別の痛みに変わる。

 その瞳には、すでに別の憂いが宿っていた。

 

 ソフィアは荷馬車の残骸へと歩み寄る。

 砕けた木片の中に、鍵ごと壊された大きな木箱があった。

 箱は人一人が座れるほどの広さ。蓋は砕けており、金具は歪んでいた。

 

 彼女は箱の縁に手を添え、静かに中を覗き込んだ。

 その瞬間、クラリスの報告がよみがえる。

 ――アデルは、こうした箱に入れられて運ばれていた。

 舞姫としてではなく、所有物として。

 鍵をかけられ、誰にも見られず、誰にも知られず、ただ運ばれていた。

 

 だが、今目の前にある箱は違っていた。

 蓋は砕け、蝶番は引きちぎられたように歪んでいる。

 中にいた者が自力で脱出したとは思えない。

 ――誰かが、力任せに引きずり出したのだ。

 

 ソフィアの胸に、冷たい想像が広がる。

 アデルが、何の言葉もなく、何の説明もなく、ただ乱暴に攫われたのではないか。

 箱の中で膝を抱えていた少女が、突然腕を掴まれ、光の中に引きずり出され、声を上げる間もなく連れて行かれた――

 その光景が、まるで現実のように脳裏に浮かんだ。

 

 箱の隅には、小さな水の小瓶と、乾いたパンくずが散らばっていた。

 水は、ほんの一口分。パンくずは、指先ほどの大きさで、すでに硬くなっていた。

 それは、最低限の命を繋ぐためのものだった。

 

 「……こんな箱に、閉じ込められていたなんて……それでも、あの夜、あの舞を見せてくれた」

 その言葉は、誰にも聞かれないほど小さく、深く沈んでいた。

 

 だが、遺体はない。

 アデルの姿は、どこにもなかった。

 

 おそらく、盗賊に連れ去られたのだろう――ソフィアはそう考えた。

 事実は違う。

 彼女が剣術も魔術も学んでいることを、屋敷の外の人間は誰も知らない。

 だからこそ、ソフィアの胸には、どうしようもない悔しさと悲しみが広がっていた。

 

 その表情に気づいた騎士が、そっと声をかける。

 「団長……どうかされましたか?」

 

 ソフィアは我に返り、静かに立ち上がった。

 「……いいえ。問題ないわ」

 そして、周囲を見渡しながら声を張る。

 「まず、男爵以外の遺体がない。社交界の夜に同行していた使用人たちを探し出して」

 「盗賊の捜索も並行して行うように。馬の蹄跡と足跡を追って、森の外縁まで確認を」

 「男爵が死んだことは、まだ伏せておいて。私が直々に上へ報告する」

 「遺体は丁重に扱って。バルド男爵は独り者だった。後継もいない。領地の処遇は、国に委ねることになる」

 

 騎士たちは一斉に敬礼し、それぞれの任務へと散っていった。

 誰もが迷いなく動き、ソフィアの言葉に疑念を挟む者はいない。

 彼女が「宰相の娘」だからではない。

 この場にいる者たちは、彼女が剣を振るう姿も、命令を下す姿も、何度も見てきた。

 だからこそ、彼女の指示には重みがある。

 

 ソフィアは馬の手綱を握り、最後にもう一度、壊れた箱へと視線を向けた。

 その木片の裂け目に、少女の爪が引っかかった痕があるような気がした。

 それは錯覚かもしれない。だが、彼女にはそう見えた。

 

 「……攫われたのではない。奪われたのだ」

 誰にも聞かれないほどの声で、ソフィアは呟いた。

 

 馬に跨がると、二人の騎士が左右に並ぶ。

 空はまだ曇りがちで、森の奥には霧が残っていた。

 だが、進むべき道は決まっている。

 

 「城塞都市へ向かう。急ごう」

 ソフィアの声に、騎士たちは頷いた。

 

 蹄音が再び森を叩き、三騎は霧の中へと消えていく。

 その背に、風が巻き上がる。

 ソフィアの瞳は前を見据えていたが、心の奥ではただ一人の少女の無事を祈っていた。

 

 ――アデル。どうか、生きていて。

 どうか、誰にも壊されていないで。

 

 

【挿絵表示】

 

イレアナ・ソフィア・ドゥ・アルジェント 18歳





壊れた箱の中に、少女の声は残っていた。
それは叫びではなく、舞の余韻。
誰かが奪い、誰かが探し、誰かが祈る。
その祈りは、まだ届いていない。
けれど、風は知っている。
彼女がまだ、壊れていないことを。
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