霧深き森に、静かな終わりが落ちる。
壊れた箱、消えた名、残された祈り。
誰かが奪われ、誰かが探す。
その舞はまだ、誰にも届いていない。
城塞都市ヴェルム・アルジェンタムへ向かう街道から外れた森の奥。
朝靄が枝葉を包み、湿った空気が騎士たちの鎧に静かにまとわりついていた。
数人の騎士が、荒らされた馬車の周囲で黙々と現場検証を行っている。
馬車は横倒しになり、車輪は砕け、積荷は荒らされていた。
その中心に、ひときわ異様な存在感を放つ遺体が横たわっていた。
「……バルド男爵の遺体、確認済みです。顔は……一部、荒らされています。獣か、カラスか……」
その場に集まった騎士たちは、皆沈黙していた。
死者への敬意と、状況の異常さが空気を重くしていた。
そこへ、蹄音が近づく。
騎士団長――イレアナ・ソフィア・ドゥ・アルジェントが、二騎を従えて現れた。
彼女が受けていた報告は、「貴族の馬車が襲撃された」という簡素なもの。
盗賊か、事故か、あるいは政治的な陰謀か――詳細は現地での確認に委ねられていた。
数年前まで続いていた周辺諸国との緊張がようやく収まり、彼女は正式に騎士団長の任を受けたばかりだった。
だが、宰相の娘という立場ゆえに、貴族や大臣、教会の一部からは「七光り」と揶揄されることもあった。
それでも彼女はめげなかった。
実力で騎士たちの信頼を勝ち取り、今や騎士団内では誰もが彼女に忠誠を誓っている。
そのカリスマ性は、確かに父譲りだった。
馬を降りたソフィアに、現場の指揮を執っていた騎士が駆け寄る。
「団長、お待ちしておりました。馬車の主は……バルド・エルゼリオ・ヴァン・グレイシュ男爵です」
その名を聞いた瞬間、ソフィアの瞳がわずかに揺れた。
――アデル。
あの夜、冬宴で舞っていた少女。
煌虹色の瞳と眼帯。
その舞は、誰よりも美しく、誰よりも孤独だった。
彼女を囲っていたのが、まさにこの男爵だった。
ソフィアは無言で歩き、馬車の傍らに横たわる遺体の前に膝をついた。
肥満体型の男。泥にまみれた絹の服。濁った灰色の瞳。
顔の皮膚は一部裂け、頬の肉が浅く削がれている。
指輪のあったはずの指は赤黒く腫れ、爪が剥がれかけていた。
獣か、あるいはカラスか――死後に何かがついばんだ痕跡が、静かに残っていた。
その顔を見て、ソフィアは静かに呟いた。
「……間違いない。バルド男爵だ」
「報告を」
ソフィアの声は静かで、よく通った。
「はい。馬車は完全に荒らされており、積荷はすべて失われています。襲撃は社交界の夜の帰路と思われます。普段は男爵直属の護衛がついていますが、今回は日雇いの使用人を雇っていたようです。偶然か、狙われたのかは不明です」
彼女の胸に、冷たい確信が落ちた。
バルド男爵――王国北西部ナヴァルシュ地方の領主。
奇物収集と社交に明け暮れ、奴隷制度を私的に運用し、教会の儀式を模倣する異端行為まで行っていた。
「癒しの儀」と称し、仮面をつけた少女に力を使わせ、領民の前で“奇跡”を演出した。
教会からは異端の疑いをかけられ、貴族の間でも嫌われていた。
なるべくしてなった――ソフィアはそう思った。
そのとき、彼女の脳裏に浮かんだのは、あの夜の舞。
――月光の舞姫。アデル。
「社交界に、バルド男爵の踊り子はいたか?」
ソフィアが問うと、一人の騎士が前に出た。
「はい。私が警備に入っておりました。踊り子が一人、虹色の瞳で……“月光の舞姫”と呼ばれていました」
「舞は見事で、場の空気が変わるほどでした。左目には眼帯をしていて……それがまた、神秘的な印象を……」
言いかけて、騎士はハッとし、頭を下げた。
「……申し訳ありません。余計なことを。」
ソフィアは短く言った。
「謝罪は不要。その舞姫はどこだ?」
騎士は一瞬言葉を探し、静かに答えた。
「……遺体は見つかっておりません。周囲を捜索しましたが、痕跡はなく……逃げた可能性もありますが」
彼は地面に残る複数の足跡と蹄の痕を指差す。
「この人数で襲撃されたなら、攫われた可能性が高いかと」
ソフィアは無言でうなずいた。
その言葉に、一瞬だけ胸が緩んだ。
死体がない――それだけで、ほんのわずかに息がしやすくなった気がした。
だが、その安堵はすぐに別の痛みに変わる。
その瞳には、すでに別の憂いが宿っていた。
ソフィアは荷馬車の残骸へと歩み寄る。
砕けた木片の中に、鍵ごと壊された大きな木箱があった。
箱は人一人が座れるほどの広さ。蓋は砕けており、金具は歪んでいた。
彼女は箱の縁に手を添え、静かに中を覗き込んだ。
その瞬間、クラリスの報告がよみがえる。
――アデルは、こうした箱に入れられて運ばれていた。
舞姫としてではなく、所有物として。
鍵をかけられ、誰にも見られず、誰にも知られず、ただ運ばれていた。
だが、今目の前にある箱は違っていた。
蓋は砕け、蝶番は引きちぎられたように歪んでいる。
中にいた者が自力で脱出したとは思えない。
――誰かが、力任せに引きずり出したのだ。
ソフィアの胸に、冷たい想像が広がる。
アデルが、何の言葉もなく、何の説明もなく、ただ乱暴に攫われたのではないか。
箱の中で膝を抱えていた少女が、突然腕を掴まれ、光の中に引きずり出され、声を上げる間もなく連れて行かれた――
その光景が、まるで現実のように脳裏に浮かんだ。
箱の隅には、小さな水の小瓶と、乾いたパンくずが散らばっていた。
水は、ほんの一口分。パンくずは、指先ほどの大きさで、すでに硬くなっていた。
それは、最低限の命を繋ぐためのものだった。
「……こんな箱に、閉じ込められていたなんて……それでも、あの夜、あの舞を見せてくれた」
その言葉は、誰にも聞かれないほど小さく、深く沈んでいた。
だが、遺体はない。
アデルの姿は、どこにもなかった。
おそらく、盗賊に連れ去られたのだろう――ソフィアはそう考えた。
事実は違う。
彼女が剣術も魔術も学んでいることを、屋敷の外の人間は誰も知らない。
だからこそ、ソフィアの胸には、どうしようもない悔しさと悲しみが広がっていた。
その表情に気づいた騎士が、そっと声をかける。
「団長……どうかされましたか?」
ソフィアは我に返り、静かに立ち上がった。
「……いいえ。問題ないわ」
そして、周囲を見渡しながら声を張る。
「まず、男爵以外の遺体がない。社交界の夜に同行していた使用人たちを探し出して」
「盗賊の捜索も並行して行うように。馬の蹄跡と足跡を追って、森の外縁まで確認を」
「男爵が死んだことは、まだ伏せておいて。私が直々に上へ報告する」
「遺体は丁重に扱って。バルド男爵は独り者だった。後継もいない。領地の処遇は、国に委ねることになる」
騎士たちは一斉に敬礼し、それぞれの任務へと散っていった。
誰もが迷いなく動き、ソフィアの言葉に疑念を挟む者はいない。
彼女が「宰相の娘」だからではない。
この場にいる者たちは、彼女が剣を振るう姿も、命令を下す姿も、何度も見てきた。
だからこそ、彼女の指示には重みがある。
ソフィアは馬の手綱を握り、最後にもう一度、壊れた箱へと視線を向けた。
その木片の裂け目に、少女の爪が引っかかった痕があるような気がした。
それは錯覚かもしれない。だが、彼女にはそう見えた。
「……攫われたのではない。奪われたのだ」
誰にも聞かれないほどの声で、ソフィアは呟いた。
馬に跨がると、二人の騎士が左右に並ぶ。
空はまだ曇りがちで、森の奥には霧が残っていた。
だが、進むべき道は決まっている。
「城塞都市へ向かう。急ごう」
ソフィアの声に、騎士たちは頷いた。
蹄音が再び森を叩き、三騎は霧の中へと消えていく。
その背に、風が巻き上がる。
ソフィアの瞳は前を見据えていたが、心の奥ではただ一人の少女の無事を祈っていた。
――アデル。どうか、生きていて。
どうか、誰にも壊されていないで。
イレアナ・ソフィア・ドゥ・アルジェント 18歳
壊れた箱の中に、少女の声は残っていた。
それは叫びではなく、舞の余韻。
誰かが奪い、誰かが探し、誰かが祈る。
その祈りは、まだ届いていない。
けれど、風は知っている。
彼女がまだ、壊れていないことを。