陽が傾き、城門が静かに影を落とす。
誰かの帰還を待つ街、誰かの声が風に溶ける。
剣より重いものを背負う者が、今日も歩みを止めない。
沈黙の奥で、まだ名もなき祈りが息づいている。
城塞都市ヴェルム・アルジェンタムの門が、夕陽を受けて鈍く輝いていた。
騎士団長イレアナ・ソフィア・ドゥ・アルジェントは、馬を駆ってその門へと到着する。
門前では商人たちが荷を下ろし、門番と談笑していたが、彼女の姿を認めるや否や空気が一変した。
「変わったことは?」
馬上からの問いに、門番は一瞬言葉を詰まらせる。
――先日、怪しげな女から受け取った魔石。あれはどう見ても賄賂だ。
だが、それを口にすれば罰せられる。
門番は内心の動揺を押し隠し、笑顔を作って答えた。
「いえ、特に問題はございません!」
ソフィアは軽く頷き、馬を進める。
その背を見送った門番は、隣の同僚に小声で漏らした。
「危なかった……言いかけたよ」
「でもさ、あの若さで騎士団長ってすごいよな。十八歳だぜ? ヴィクトル宰相の娘ってだけでも重圧だろうに」
「しかもあの美貌だ。婚約者がいないってのが不思議なくらいだ」
「気は強そうだけど、あれほどの器量と顔立ちなら、そりゃ羨ましいぜ」
「で、今夜はどうする?」
「魔石…まだ換金してないだろ?それを換金してお前の奢りで酒だな」
「……やれやれ、仕方ない」
街道を進むソフィアの姿に、住人たちが歓声を上げる。
「ソフィア様のお帰りだ!」
花束を差し出す者、果物を手渡す者。ソフィアは笑顔で一人ひとりに応じる。
騎士の一人が住人たちを制しようと声を荒げるが、ソフィアはそれを制し、「いいではないか」と穏やかに微笑む。
「ただ、馬上の人間に近づくのは危険だ。報告もあるので急いでいる」
住人たちは理解を示しつつも、騎士への不満をヒソヒソと漏らす。騎士は苛立つが、ソフィアはその様子にくすりと笑った。
やがて人通りが減り、アルジェント公爵邸が見えてくる。
門番に軽く挨拶をし、馬と贈り物を預ける。騎士たちは邸宅の周囲にある詰所や訓練場へと戻っていった。
屋敷に入ると、メイドのクラリスが駆け寄ってきた。
「お帰りなさいませ、ソフィア様」
「クラリス……バルド男爵が、盗賊に襲われて亡くなった」
クラリスは言葉を失い、目を見開く。
「ヴィクトル宰相に伝えなければ。今、どこに?」
「自室にいらっしゃいます」
ソフィアは深く息を吸い、執務室の扉を叩いた。
「ソフィアです」
「入れ」
重厚な扉の向こうから返事があり、彼女はゆっくりと扉を開ける。
部屋の中では、ヴィクトル宰相が執事と共に大量の書類に目を通していた。
「……バルド男爵が、亡くなりました。街道から外れた森の奥で、馬車が襲撃されていました。積荷は荒らされ、護衛は不在。遺体は……顔の一部が損傷していましたが、遺体は丁重に扱うよう回収の指示を出しております。」
ヴィクトル宰相は手を止め、眉をひそめる。
「とうとうか……彼は多くの者に恨まれていた。奇物収集、異端儀式、奴隷制度の私的運用……犯人候補が多すぎて、特定は難しいな」
ソフィアは一歩前に出る。
「……馬車に同行していた月光の舞姫と呼ばれる踊り子が、見つかっていません。鍵の壊れた箱がありました。中には水の小瓶と乾いたパンくず。彼女が閉じ込められていた可能性が高いです。蹄の痕と足跡が複数。連れ去られた可能性が高いです」
ヴィクトル宰相は目を細め、しばし沈黙した。
「その月光の舞姫の噂は、私も聞いている。社交界で話題になっていたようだな。だが……彼女は奴隷登録されているとも聞いている………奴隷が攫われたという理由で、騎士団を動かすわけにはいかん」
ソフィアの眉がわずかに動いた。
「……彼女は人です。登録の有無で命の価値が変わるとは思いません」
「それに、彼女が攫われた先で何をされるか……想像するだけで、放ってはおけません」
ヴィクトル宰相は困ったように目を伏せ、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言葉を紡ぐ。
「……わかった。何か方法を考えよう。だが、ソフィア。私も、お前も、立場を弁えねばならない」
「お前は騎士団長であり、ヴィクトル宰相の娘だ。感情だけで動いてはならない。正義を貫くには、時に冷静さが必要だ」
ソフィアは目を伏せ、拳を握った。
「……承知しています。ですが、見過ごすことはできません」
ヴィクトル宰相は娘の姿を見つめ、静かに頷いた。
「お前がそう言うなら、私も動こう。だが、正式な命令としては出せない。……私的な調査として、動ける範囲で動くのだ」
「ありがとうございます、父上」
「さて、領地の処遇だが……バルド男爵は独身で後継もいない。領地は王家の管理下に置かれることになる」
「今日中に勅令書を発行する。明日には出発だ。お前が直接、兵士と役人たちに伝えよ。いかなる反発も許すな」
その言葉に、ソフィアは姿勢を正し、深く頷いた。
「承知しました。明朝、騎士団と共に出立します」
ヴィクトル宰相はペンを取り、勅令書の草案に目を走らせながら、ふと手を止める。
「……あの舞姫の件だが、私の方でも情報を探ってみよう。奴隷登録の記録が本当にあるのか、誰が管理していたのか。表に出せない話も多いだろうが、裏からなら探れる」
「ありがとうございます。助かります」
ソフィアの声には、わずかに安堵が滲んでいた。
「だが、ソフィア」
ヴィクトル宰相は立ち上がりソフィアの前に立ち見つめる。
「お前は、私の誇りだ。だが同時に、王国の秩序を守る者でもある。……その両方を背負うには、覚悟が要る」
ソフィアは静かに頷いた。
「覚悟は、とうにできています」
ヴィクトル宰相は微笑み、娘の頭に手を置いた。
その仕草は、騎士団長ではなく、ただの娘に向けたものだった。
「……立派になったな。だが、私にとってはいつまでも子供だ」
ソフィアは目をそらしながら、頬を赤らめた。
ソフィアは一礼し、執務室を後にした。
扉が静かに閉まり、廊下に出た瞬間、彼女は小さく呟いた。
「……父はまったく! いつまでも子供扱いするんだから」
その言葉に、廊下で待っていたクラリスがくすっと笑う。
「でも、ソフィア様のことを本当に大切に思っていらっしゃるんですね」
「……ええ。わかってる。だからこそ、ちゃんと応えたいの」
ソフィアは軽く息を吐き、表情を引き締めた。
「街へ行ってくるわ。預けていた贈り物、用意してくれる?」
「はい、すぐに」
ソフィアが執務室を出て扉が静かに閉まると、ヴィクトル宰相はしばらくその扉を見つめていた。
娘の足音が遠ざかるにつれ、彼の表情はわずかに緩み、静かに呟く。
「……あの子は、立派になった。騎士団長としても、王国の柱としても、申し分ない」
「だが、私にとってはいつまで経っても、大事な一人娘だ。危険な騎士団に、いつまでも置いておきたくはないな」
執事が控えめに口を開く。
「では、縁談を進めましょうか。すでに多くの申し出が届いておりますが……」
ヴィクトル宰相は眉をひそめ、深く息を吐いた。
「……嫁にはまだやりたくない。だが、それも進めねばならんか」
「まったく、親というのは損な役回りだな」
彼は椅子に腰を下ろし、机上の書類に目を落とす。
ふと、バルド男爵の名が脳裏に浮かぶ。
「……バルド男爵…彼を恨んでいる者は多い。奇物収集、異端儀式、奴隷制度の私的運用。貴族の中でも、教会の中でも、敵は多かった」
「だが、たまたま野盗に襲われた可能性もある。ソフィアの話では、月光の舞姫が攫われた可能性があるとも……」
ヴィクトル宰相は静かに目を閉じた。
「真相は、わからん。だが、領民への報告は慎重にせねばならない」
執事が頷く。
「旅先での盗賊による不幸な事故として処理いたしましょう。国王陛下への報告も、同様の内容で」
「うむ。……それでよい」
ヴィクトル宰相はペンを取り、勅令書の草案に目を走らせる。
「領地の管理権は王家へ移譲。反発があれば、騎士団が即時鎮圧。ソフィアが直接赴き、兵士と役人に伝える」
「本日中に勅令書を仕上げます」
執事は深々と頭を下げ、机の端に用意された文書用紙を手に取った。
部屋の中には、再び紙とインクの匂いが満ちていく。
父としての想いと、宰相としての責務。その狭間で揺れる男の背に、太陽の光が静かに差し込んでいた。
屋敷を出たソフィアは、クラリスの手配で預けていた贈り物を受け取り、馬の背に籠をくくりつけた。
果物、乾いたパン、布地、香草――それらは街の人々から寄せられた善意の品々だった。
彼女はそれを、再び街へと持ち出す。
向かう先は、城塞都市の外縁に広がる貧民街。
石畳が土に変わり、建物の壁はひび割れ、窓には布が垂れている。
だが、そこに暮らす人々の目は、ソフィアの姿を見つけると一斉に輝いた。
「ソフィア様だ!」
「団長様が来たぞ!」
子供たちが駆け寄り、歓声を上げる。
ソフィアは馬から降り、笑顔で一人ひとりに挨拶を返す。
挨拶ができない子には、膝をついて優しく教える。
「挨拶しないと、ご褒美はないぞ」
その言葉に、子供たちは慌てて姿勢を正し、元気よく声を揃えた。
「団長様、こんにちは!」
「こんにちは!」
「こんにちは、ソフィア様!」
「よくできました」
ソフィアは籠を開け、果物を一つずつ手渡していく。
「順番を守ってね。みんなに行き渡るように」
その列の中に、ケビンの姿があった。
彼は果物を受け取ると、満面の笑みで胸を張った。
「最近、運がいいんだ! この間、道案内しただけで串焼きいっぱいもらったんだぜ!」
「まあ、それは良かったわね」
「しかもさ、その人もなかなか美人だったんだよ。ソフィア様も美人だけど、あの人も負けてなかったな」
ケビンは得意げに笑う。
ソフィアはふっと笑った。
「そう。これからも人には優しくしなさい。いいことがあるかもしれないわよ」
「うん! 美人は特別扱いする!」
ケビンは即答し、ソフィアは目を丸くする。
その言葉に、周囲の子供たちがざわざわと反応する。
「俺も美人には優しくする!」
「美人って誰だよ!」
「ソフィア様に決まってるだろ!」
「ちょっと待って」
ソフィアは苦笑しながら手を振った。
「…美人だけじゃなくて、みんなに優しくするのよ。それが一番大事」
「でもさぁ、ソフィア様みたいな美人には、もっと優しくしたいじゃん」
ケビンが照れくさそうに言うと、他の子供たちも「それな!」と笑い合う。
ソフィアは困ったように眉を下げながらも、どこか嬉しそうだった。
「もう……仕方ない子たちね」
その後も、ケビンは果物を受け取った後、他の子供たちに自慢げに見せびらかしていた。
「見ろよ、団長様から直接もらったんだぜ!」
「俺ももらったし!」
「でも俺のは一番大きい!」
ソフィアはその様子を見ながら、静かに笑みを浮かべた。
この街の子供たちの笑顔が、彼女にとって何よりの報酬だった。
果物を配り終えると、彼女はボロ家を巡り、動けない老人たちに果物を手渡す。
膝をつき、手を握り、言葉をかける。
「また来ますね。あまり頻繁には来られないけれど……」
その姿に、住人たちは目を潤ませる。
「宰相の娘で騎士団長なのに、偉そうにせず、ああして家をまわって施しまでしてくれるなんて……」
「この街に、あの方がいてくれるだけで、安心できる」
ソフィアの訪問は、治安維持にもつながっていた。
彼女が来る日は、盗みも喧嘩も減る。
子供たちは騎士団の制服に憧れ、老人たちは彼女の言葉に希望を見出す。
夕暮れ。
最後の家を訪れたソフィアは、果物を手渡しながら微笑んだ。
「また来ますね。次は、もう少し早い時間に」
「ありがとうよ、団長様……ほんとに、ありがとう」
馬に乗り、屋敷へ戻る道すがら、ソフィアは空を見上げた。
西の空に、薄く月が浮かんでいる。
その光を見て、彼女はふと、森に残された箱の中の舞姫を思い出す。
――あの子は、今どこにいるのだろう。
誰かに守られているのか、それとも……。
ソフィアは手綱を握り直し、表情を引き締めた。
「必ず、見つける。どんな形でも、必ず」
屋敷に戻ると、クラリスが玄関で待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。……少し、風が冷たくなってきたわね」
「お茶を淹れておきますね」
「ありがとう。少しだけ、休ませてもらうわ」
その背に、クラリスは静かに頭を下げた。
ソフィアの歩みは、誰よりも重く、誰よりも優しい。
門が沈黙を纏い、空は夢と現の境を曖昧にする。
果実を手渡す掌に、誰かを救いたいという祈りが宿る。
子供たちの笑顔は、光の粒のように舞い上がり、
その奥で、箱の中の舞姫が、まだ名もなき月に抱かれている。
勅令は静かに紙に刻まれ、
運命は音もなく、次の頁をめくる。
優しさの仮面を纏った決意が、
夜の底で、そっと息をし始めた。