銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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 陽が傾き、城門が静かに影を落とす。
 誰かの帰還を待つ街、誰かの声が風に溶ける。
 剣より重いものを背負う者が、今日も歩みを止めない。
 沈黙の奥で、まだ名もなき祈りが息づいている。



第三十四話 影を抱いて、光を配る

 

 城塞都市ヴェルム・アルジェンタムの門が、夕陽を受けて鈍く輝いていた。

 騎士団長イレアナ・ソフィア・ドゥ・アルジェントは、馬を駆ってその門へと到着する。

 門前では商人たちが荷を下ろし、門番と談笑していたが、彼女の姿を認めるや否や空気が一変した。

 

 「変わったことは?」

 馬上からの問いに、門番は一瞬言葉を詰まらせる。

 ――先日、怪しげな女から受け取った魔石。あれはどう見ても賄賂だ。

 だが、それを口にすれば罰せられる。

 門番は内心の動揺を押し隠し、笑顔を作って答えた。

 「いえ、特に問題はございません!」

 

 ソフィアは軽く頷き、馬を進める。

 その背を見送った門番は、隣の同僚に小声で漏らした。

 「危なかった……言いかけたよ」

 「でもさ、あの若さで騎士団長ってすごいよな。十八歳だぜ? ヴィクトル宰相の娘ってだけでも重圧だろうに」

 「しかもあの美貌だ。婚約者がいないってのが不思議なくらいだ」

 「気は強そうだけど、あれほどの器量と顔立ちなら、そりゃ羨ましいぜ」

 「で、今夜はどうする?」

 「魔石…まだ換金してないだろ?それを換金してお前の奢りで酒だな」

 「……やれやれ、仕方ない」

 

 

 街道を進むソフィアの姿に、住人たちが歓声を上げる。

 「ソフィア様のお帰りだ!」

 花束を差し出す者、果物を手渡す者。ソフィアは笑顔で一人ひとりに応じる。

 

 騎士の一人が住人たちを制しようと声を荒げるが、ソフィアはそれを制し、「いいではないか」と穏やかに微笑む。

 「ただ、馬上の人間に近づくのは危険だ。報告もあるので急いでいる」

 住人たちは理解を示しつつも、騎士への不満をヒソヒソと漏らす。騎士は苛立つが、ソフィアはその様子にくすりと笑った。

 

 やがて人通りが減り、アルジェント公爵邸が見えてくる。

 門番に軽く挨拶をし、馬と贈り物を預ける。騎士たちは邸宅の周囲にある詰所や訓練場へと戻っていった。

 

 屋敷に入ると、メイドのクラリスが駆け寄ってきた。

 「お帰りなさいませ、ソフィア様」

 「クラリス……バルド男爵が、盗賊に襲われて亡くなった」

 クラリスは言葉を失い、目を見開く。

 「ヴィクトル宰相に伝えなければ。今、どこに?」

 「自室にいらっしゃいます」

 

 ソフィアは深く息を吸い、執務室の扉を叩いた。

 「ソフィアです」

 「入れ」

 重厚な扉の向こうから返事があり、彼女はゆっくりと扉を開ける。

 

 部屋の中では、ヴィクトル宰相が執事と共に大量の書類に目を通していた。

 

 「……バルド男爵が、亡くなりました。街道から外れた森の奥で、馬車が襲撃されていました。積荷は荒らされ、護衛は不在。遺体は……顔の一部が損傷していましたが、遺体は丁重に扱うよう回収の指示を出しております。」

 

 ヴィクトル宰相は手を止め、眉をひそめる。

 「とうとうか……彼は多くの者に恨まれていた。奇物収集、異端儀式、奴隷制度の私的運用……犯人候補が多すぎて、特定は難しいな」

 

 ソフィアは一歩前に出る。

 「……馬車に同行していた月光の舞姫と呼ばれる踊り子が、見つかっていません。鍵の壊れた箱がありました。中には水の小瓶と乾いたパンくず。彼女が閉じ込められていた可能性が高いです。蹄の痕と足跡が複数。連れ去られた可能性が高いです」

 

 ヴィクトル宰相は目を細め、しばし沈黙した。

 「その月光の舞姫の噂は、私も聞いている。社交界で話題になっていたようだな。だが……彼女は奴隷登録されているとも聞いている………奴隷が攫われたという理由で、騎士団を動かすわけにはいかん」

 

 ソフィアの眉がわずかに動いた。

 「……彼女は人です。登録の有無で命の価値が変わるとは思いません」

 「それに、彼女が攫われた先で何をされるか……想像するだけで、放ってはおけません」

 

 ヴィクトル宰相は困ったように目を伏せ、しばらく黙っていた。

 やがて、静かに言葉を紡ぐ。

 「……わかった。何か方法を考えよう。だが、ソフィア。私も、お前も、立場を弁えねばならない」

 「お前は騎士団長であり、ヴィクトル宰相の娘だ。感情だけで動いてはならない。正義を貫くには、時に冷静さが必要だ」

 

 ソフィアは目を伏せ、拳を握った。

 「……承知しています。ですが、見過ごすことはできません」

 

 ヴィクトル宰相は娘の姿を見つめ、静かに頷いた。

 「お前がそう言うなら、私も動こう。だが、正式な命令としては出せない。……私的な調査として、動ける範囲で動くのだ」

 

 「ありがとうございます、父上」

 

 

 「さて、領地の処遇だが……バルド男爵は独身で後継もいない。領地は王家の管理下に置かれることになる」

 「今日中に勅令書を発行する。明日には出発だ。お前が直接、兵士と役人たちに伝えよ。いかなる反発も許すな」

 

 その言葉に、ソフィアは姿勢を正し、深く頷いた。

 「承知しました。明朝、騎士団と共に出立します」

 

 ヴィクトル宰相はペンを取り、勅令書の草案に目を走らせながら、ふと手を止める。

 「……あの舞姫の件だが、私の方でも情報を探ってみよう。奴隷登録の記録が本当にあるのか、誰が管理していたのか。表に出せない話も多いだろうが、裏からなら探れる」

 

 「ありがとうございます。助かります」

 ソフィアの声には、わずかに安堵が滲んでいた。

 

 「だが、ソフィア」

 ヴィクトル宰相は立ち上がりソフィアの前に立ち見つめる。

 「お前は、私の誇りだ。だが同時に、王国の秩序を守る者でもある。……その両方を背負うには、覚悟が要る」

 

 ソフィアは静かに頷いた。

 「覚悟は、とうにできています」

 

 ヴィクトル宰相は微笑み、娘の頭に手を置いた。

 その仕草は、騎士団長ではなく、ただの娘に向けたものだった。

 「……立派になったな。だが、私にとってはいつまでも子供だ」

 

 ソフィアは目をそらしながら、頬を赤らめた。

 

 ソフィアは一礼し、執務室を後にした。

 扉が静かに閉まり、廊下に出た瞬間、彼女は小さく呟いた。

 

 「……父はまったく! いつまでも子供扱いするんだから」

 

 その言葉に、廊下で待っていたクラリスがくすっと笑う。

 「でも、ソフィア様のことを本当に大切に思っていらっしゃるんですね」

 「……ええ。わかってる。だからこそ、ちゃんと応えたいの」

 

 ソフィアは軽く息を吐き、表情を引き締めた。

 「街へ行ってくるわ。預けていた贈り物、用意してくれる?」

 「はい、すぐに」

 

 

 ソフィアが執務室を出て扉が静かに閉まると、ヴィクトル宰相はしばらくその扉を見つめていた。

 娘の足音が遠ざかるにつれ、彼の表情はわずかに緩み、静かに呟く。

 

 「……あの子は、立派になった。騎士団長としても、王国の柱としても、申し分ない」

 「だが、私にとってはいつまで経っても、大事な一人娘だ。危険な騎士団に、いつまでも置いておきたくはないな」

 

 執事が控えめに口を開く。

 「では、縁談を進めましょうか。すでに多くの申し出が届いておりますが……」

 

 ヴィクトル宰相は眉をひそめ、深く息を吐いた。

 「……嫁にはまだやりたくない。だが、それも進めねばならんか」

 「まったく、親というのは損な役回りだな」

 

 彼は椅子に腰を下ろし、机上の書類に目を落とす。

 ふと、バルド男爵の名が脳裏に浮かぶ。

 

 「……バルド男爵…彼を恨んでいる者は多い。奇物収集、異端儀式、奴隷制度の私的運用。貴族の中でも、教会の中でも、敵は多かった」

 「だが、たまたま野盗に襲われた可能性もある。ソフィアの話では、月光の舞姫が攫われた可能性があるとも……」

 

 ヴィクトル宰相は静かに目を閉じた。

 「真相は、わからん。だが、領民への報告は慎重にせねばならない」

 

 執事が頷く。

 「旅先での盗賊による不幸な事故として処理いたしましょう。国王陛下への報告も、同様の内容で」

 

 「うむ。……それでよい」

 ヴィクトル宰相はペンを取り、勅令書の草案に目を走らせる。

 「領地の管理権は王家へ移譲。反発があれば、騎士団が即時鎮圧。ソフィアが直接赴き、兵士と役人に伝える」

 

 「本日中に勅令書を仕上げます」

 執事は深々と頭を下げ、机の端に用意された文書用紙を手に取った。

 

 部屋の中には、再び紙とインクの匂いが満ちていく。

 父としての想いと、宰相としての責務。その狭間で揺れる男の背に、太陽の光が静かに差し込んでいた。

 

 

 屋敷を出たソフィアは、クラリスの手配で預けていた贈り物を受け取り、馬の背に籠をくくりつけた。

 果物、乾いたパン、布地、香草――それらは街の人々から寄せられた善意の品々だった。

 彼女はそれを、再び街へと持ち出す。

 

 向かう先は、城塞都市の外縁に広がる貧民街。

 石畳が土に変わり、建物の壁はひび割れ、窓には布が垂れている。

 だが、そこに暮らす人々の目は、ソフィアの姿を見つけると一斉に輝いた。

 

 「ソフィア様だ!」

 「団長様が来たぞ!」

 子供たちが駆け寄り、歓声を上げる。

 

 ソフィアは馬から降り、笑顔で一人ひとりに挨拶を返す。

 挨拶ができない子には、膝をついて優しく教える。

 「挨拶しないと、ご褒美はないぞ」

 その言葉に、子供たちは慌てて姿勢を正し、元気よく声を揃えた。

 

 「団長様、こんにちは!」

 「こんにちは!」

 「こんにちは、ソフィア様!」

 

 「よくできました」

 ソフィアは籠を開け、果物を一つずつ手渡していく。

 「順番を守ってね。みんなに行き渡るように」

 

 その列の中に、ケビンの姿があった。

 彼は果物を受け取ると、満面の笑みで胸を張った。

 

 「最近、運がいいんだ! この間、道案内しただけで串焼きいっぱいもらったんだぜ!」

 「まあ、それは良かったわね」

 「しかもさ、その人もなかなか美人だったんだよ。ソフィア様も美人だけど、あの人も負けてなかったな」

 ケビンは得意げに笑う。

 

 ソフィアはふっと笑った。

 「そう。これからも人には優しくしなさい。いいことがあるかもしれないわよ」

 

 「うん! 美人は特別扱いする!」

 ケビンは即答し、ソフィアは目を丸くする。

 

 その言葉に、周囲の子供たちがざわざわと反応する。

 「俺も美人には優しくする!」

 「美人って誰だよ!」

 「ソフィア様に決まってるだろ!」

 

 「ちょっと待って」

 ソフィアは苦笑しながら手を振った。

 「…美人だけじゃなくて、みんなに優しくするのよ。それが一番大事」

 

 「でもさぁ、ソフィア様みたいな美人には、もっと優しくしたいじゃん」

 ケビンが照れくさそうに言うと、他の子供たちも「それな!」と笑い合う。

 

 ソフィアは困ったように眉を下げながらも、どこか嬉しそうだった。

 「もう……仕方ない子たちね」

 

 その後も、ケビンは果物を受け取った後、他の子供たちに自慢げに見せびらかしていた。

 「見ろよ、団長様から直接もらったんだぜ!」

 「俺ももらったし!」

 「でも俺のは一番大きい!」

 

 ソフィアはその様子を見ながら、静かに笑みを浮かべた。

 この街の子供たちの笑顔が、彼女にとって何よりの報酬だった。

 

 果物を配り終えると、彼女はボロ家を巡り、動けない老人たちに果物を手渡す。

 膝をつき、手を握り、言葉をかける。

 「また来ますね。あまり頻繁には来られないけれど……」

 

 その姿に、住人たちは目を潤ませる。

 「宰相の娘で騎士団長なのに、偉そうにせず、ああして家をまわって施しまでしてくれるなんて……」

 「この街に、あの方がいてくれるだけで、安心できる」

 

 ソフィアの訪問は、治安維持にもつながっていた。

 彼女が来る日は、盗みも喧嘩も減る。

 子供たちは騎士団の制服に憧れ、老人たちは彼女の言葉に希望を見出す。

 

 夕暮れ。

 最後の家を訪れたソフィアは、果物を手渡しながら微笑んだ。

 「また来ますね。次は、もう少し早い時間に」

 「ありがとうよ、団長様……ほんとに、ありがとう」

 

 馬に乗り、屋敷へ戻る道すがら、ソフィアは空を見上げた。

 西の空に、薄く月が浮かんでいる。

 その光を見て、彼女はふと、森に残された箱の中の舞姫を思い出す。

 

 ――あの子は、今どこにいるのだろう。

 誰かに守られているのか、それとも……。

 

 ソフィアは手綱を握り直し、表情を引き締めた。

 「必ず、見つける。どんな形でも、必ず」

 

 屋敷に戻ると、クラリスが玄関で待っていた。

 「お帰りなさいませ」

 「ただいま。……少し、風が冷たくなってきたわね」

 

 「お茶を淹れておきますね」

 「ありがとう。少しだけ、休ませてもらうわ」

 

 その背に、クラリスは静かに頭を下げた。

 ソフィアの歩みは、誰よりも重く、誰よりも優しい。





 門が沈黙を纏い、空は夢と現の境を曖昧にする。
 果実を手渡す掌に、誰かを救いたいという祈りが宿る。
 子供たちの笑顔は、光の粒のように舞い上がり、
 その奥で、箱の中の舞姫が、まだ名もなき月に抱かれている。

 勅令は静かに紙に刻まれ、
 運命は音もなく、次の頁をめくる。
 優しさの仮面を纏った決意が、
 夜の底で、そっと息をし始めた。
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