銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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 夕暮れの街は、影と光が交わる場所。
 顔を覆い、誰にも知られぬ歩みが始まる。
 香り、灯り、湯気――
 ささやかな温もりが、ひとつの命を包み込む夜。

 その静けさの奥で、まだ語られぬ物語が、そっと息をし始める。



第三十五話 月の宿、影の名

 銀環商会の扉を静かに閉めたあと、アデルは一度だけ振り返った。

 看板の銀環が夕陽に照らされ、淡く輝いている。

 その光が、まるで何かを祝福するようで――彼女はそっと目を伏せた。

 

 そして、マントの端を持ち上げ、頭からすっぽりと被った。

 深い青の布が髪を覆い、顔の輪郭を影に沈める。

 通りを行き交う人々の視線が、彼女に届かぬように。

 

 ――見られたくない。

 それは羞恥でも、恐れでもない。

 ただ、その美貌が人目を引くことを、彼女はよく知っていた。

 盗賊に追われている今、目立つことは命取りになりかねない。

 街の誰かが、彼女の顔を覚えていれば――それだけで、居場所が知られる可能性がある。

 

 マントの内側は静かで、外の喧騒が遠くなる。

 その中で、アデルは自分の呼吸を確かめるように歩き出した。

 

 石畳の上に、マントの裾がさらりと揺れる。

 夕暮れの街は、金と影の織りなす絵画のようで――

 その中を、ひとりの旅人が音もなく通り過ぎていく。

 

 広場の北側へ向かうと、赤い屋根の建物が見えてきた。

 木造の二階建て、窓には花が飾られ、看板には月と羽根の絵。

 “月影亭”――その名にふさわしく、夕暮れの光が建物を柔らかく染めていた。

 

 扉を開けると、木の香りと温かな空気が迎えてくれた。

 中には数人の客が食事をしており、笑い声とスープの香りが漂っていた。

 壁には古い楽譜が飾られ、天井には小さなランプが吊るされている。

 その灯りが、まるで星のように空間を照らしていた。

 

 カウンターの奥には、ふくよかな女性が腕を組んで立っていた。

 髪は灰茶色で後ろに束ねられ、エプロンには小麦粉の跡。

 手には木べらが握られており、目は鋭くも優しい。

 

 「いらっしゃい。旅人かい?」

 

 「はい。銀環商会のレイナさんに紹介されて」

 

 「ほぉ、レイナの紹介なら間違いないね。あの女、口は悪いが目は確かだ」

 

 アデルは銀貨3枚を取り出し、宿泊の希望を伝えた。

 ルーシャは頷き、鍵を手渡す。

 

 「二階の奥、月の部屋だ。銀貨3枚で一泊、飯とゆあみ付き。湯船はないけど、湯桶と湯で身体は十分温まるよ。女の子には、花の香りもつけてあげる」

 

 「ありがとうございます」

 

 「礼なんていらないよ。旅人が腹を満たして、眠れる場所がある。それだけで、宿は意味があるんだ」

 

 アデルは食堂の隅に座り、食事を待った。

 窓の外では、街灯がひとつ、またひとつと灯っていく。

 その光が、まるで星座のように街を縫っていた。

 

 やがて、湯気の立つ皿が運ばれてきた。

 鶏の香草焼き――皮はパリッと焼かれ、肉は柔らかく、香草の香りが鼻をくすぐる。

 野菜のポタージュはとろりと濃厚で、じゃがいもと人参の甘みが溶け込んでいた。

 パンは外はカリッと、中はふわふわ。

 バターが添えられ、ほんのりとハーブの香りがした。

 

 アデルは、ひと口食べて目を見開いた。

 「……美味しい」

 

 食べ終えたあと、皿を下げに来たルーシャに、アデルは顔を上げて言った。

 

 「とても美味しかったです。香草の香りが、すごく心地よくて」

 

 ルーシャは一瞬手を止め、それからふっと笑った。

 「そうかい。そりゃよかった」

 

 その声は、どこか照れくさそうで、けれど誇らしげだった。

 まるで“当然だよ”とでも言いたげに、木べらを腰に差し直す。

 

 「うちの料理は、派手じゃないけど、腹に優しくて、心に残るようにしてるんだよ。旅人は、そういうのが一番沁みるからね」

 

 「……沁みました」

 

 アデルの言葉に、ルーシャは目を細めた。

 「なら、また明日も食べていきな。朝はパンと卵、昼はスープと野菜。夜は、気分で変えるけどね」

 

 「楽しみにしてます」

 

 ルーシャは皿を抱えながら、くるりと背を向けた。

 その背中には、宿を守る者の誇りと、誰かを迎える者の優しさが滲んでいた。

 

 食後、ルーシャに案内されて、裏庭の小さな湯場へ。

 木桶に湯が張られ、湯気が立ち上っている。

 ラベンダーの香りが漂い、夜風と混ざって心地よい。

 空には月が昇り始めていた。まだ細い三日月だが、澄んだ光を放っている。

 

 アデルは服を脱ぎ、湯桶で身体を清めた。

 湯船はないが、湯をかけるたびに疲れが溶けていく。

 肌が温まり、心もほぐれていく。

 

 魔術で身体を清めることはできる。

 指先ひとつで、汗も埃も消え、香りすら纏える。

 けれど、それはあくまで外側の話だ。

 湯の温もりが肌に触れ、蒸気が肺に満ちていくとき――

 魔術では届かない場所が、静かにほどけていく。

 

 「……生きてるって、こういうことかもしれない」

 

 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

 ただ、湯気の中に溶けていった。

 

 湯あみを終え、髪を乾かし、部屋へ戻る。

 二階の廊下は静かで、床板が優しく軋んだ。

 月の部屋――その扉を開けると、柔らかな灯りが彼女を迎えた。

 

 部屋は、木の床に月模様の絨毯が敷かれ、窓からは街の灯がちらちらと見えた。

 ベッドは小ぶりながらも清潔で、ふかふかの枕が置かれている。

 壁には、月と星の刺繍が飾られ、棚には小さなランプが灯っていた。

 

 机の上には、花瓶に一輪の白い花。

 その香りが、部屋の空気を柔らかくしていた。

 

 アデルは、荷物を置き、マントを脱いだ。

 鏡の前に立ち、自分の姿を見つめる。

 

 新しい服。

 新しい街。

 新しい自分。

 

 けれど、鏡の奥に映る瞳は、まだ過去を手放していない。

 盗賊の影は遠ざかったようで、まだ背後に潜んでいる気がする。

 あの夜の足音、あの声――

 思い出すたび、胸の奥が冷たくなる。

 

 彼女はマントの端を握りしめ、そっと目を閉じた。

 「……大丈夫。ここは安全。今は、眠っていい」

 

 窓の外では、街の灯がちらちらと揺れていた。

 遠くで誰かが歌っている。

 言葉は聞き取れないが、旋律は優しく、どこか懐かしい。

 

 アデルはベッドに腰を下ろし、靴を脱いだ。

 枕に頬を寄せると、ふわりと月の香りがした。

 それは、どこか母の匂いに似ていた。

 

 彼女は、そっと横になった。

 布団の重みが、身体を包み込む。

 魔術では得られない、確かな温もり。

 

 目を閉じると、湯気の中で呟いた言葉が、もう一度胸に響いた。

 ――生きてるって、こういうことかもしれない。

 

 その言葉に、少しだけ涙が滲んだ。

 けれど、それは悲しみではなかった。

 ただ、今ここにいるという実感が、静かに胸を満たしていた。

 

 外では、月が雲の隙間から顔を覗かせていた。

 その光が、窓辺の花を照らし、部屋の空気を銀色に染めていく。

 

 アデルは、眠りの中へと沈んでいった。

 夢の中で、誰かが手を差し伸べていた。

 その手は、暖かくて、懐かしくて――

 彼女は、迷わずその手を取った。





 追われる身の彼女は、顔を隠し、歩く。
 けれど、月影亭の灯りは違った。
 香草の皿、湯気、白い花――
 それらは、魔術では触れられない場所にそっと届く。

 その夜、アデルは誰にも追われず、誰にも見られず、
 ただ、夢の中で月の光に触れた。
 それは、ほんの一瞬の、静かな奇跡だった。
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