風が街を撫でるとき、物語は目を覚ます。
石畳の隙間に小鳥の声が流れ、窓辺の光が誰かの瞼をそっと撫でる。
剣の音と果物の香りが交差する朝。
仮面の魔術師が通りを歩き、少女の瞳がその背を追う。
都市の光と影が、静かに彼女の心に触れていく。
これは目覚めの章。
けれど、ただの朝ではない。
風が問いかけ、彼女は歩き出す。
まだ名を持たぬ祈りが、そっとその背に寄り添っていた。
朝の街は、静かに目を覚ます。
小鳥の囀りが、石畳の隙間を縫い、
窓辺の光が、眠る者の瞼をそっと撫でる。
誰かが剣を振り、誰かが果物を並べる。
その交差の中で、ひとつの瞳が、世界を見つめ始める。
月影亭の二階。
アデルは、ふかふかの枕に頬を寄せたまま、目を開けた。
窓の外からは、小鳥の声と、遠くの剣の音。
都市の朝は、森とは違う。騒がしいのに、どこか整っていて、優しい。
彼女はゆっくりと身体を起こし、窓辺へと歩み寄った。
カーテンを少しだけ開けると、朝の光が差し込んだ。
騎士たちが剣を振るい、商人たちが店先に木箱を並べている。
香草の束、果物の山、布地の端――
すべてが、今日という日を迎える準備をしていた。
その中に、仮面をつけた魔術師の姿があった。
黒いローブに身を包み、静かに通りを歩いていく。
その背に、魔術師ギルドの尖塔がそびえていた。
アデルは、窓辺に手を添えながら、ふと屋敷のことを思い出す。
――みんな、どうしてるかな。
バルド男爵がいなくなった今、領地は国のものになるはず。
ドードが教えてくれた法律では、後継のいない貴族の領地は王家に吸収される。
あの男爵ほどの悪人は、そうはいない。だから、きっと大丈夫。
でも、自分がいないことで、ミレナやセリウスが心配してるかもしれない。
リリィは泣いてないだろうか。
会いたい。けれど、手にした自由は、簡単には手放せない。
「……いつか、会えたらいいな」
その言葉は、窓の外の風に溶けていった。
通りを歩く仮面の魔術師に、再び目が留まる。
アルゲンタイトも、仮面をしていた。
なぜ魔術師は顔を隠すのか――昔、彼に聞いたことがある。
この世界の魔術師たちは、魔力の流れが集中する“顔”を晒すことを極端に嫌う。
特に瞳は、魔力の核。魂の輪郭を外界に晒す危険な部位。
煌虹色の瞳を持つ者は、魔力の共鳴を引き起こしやすく、
周囲の感情や術式に干渉される可能性が高い。
だからこそ、高位の術者ほど仮面をつける。
それは、魔力の遮断・拡散・封印を兼ねた術具。
“個”としての感情や美貌を封じ、“術そのもの”として振る舞うための象徴。
アデルは、マントで顔を隠している。
けれど、仮面をつければ――もっと自然に、もっと堂々と都市の中を歩けるかもしれない。
ギルドに所属する必要はない。
仮面さえあれば、身を守る術になる。
「……仮面、探してみようかな」
階段を降りると、食堂には香ばしい匂いが漂っていた。
木の床は朝の光を受けて柔らかく輝き、窓辺のテーブルにはまだ誰も座っていない。
天井のランプは、昨夜と同じように優しく灯っていた。
カウンターの奥では、ルーシャが鍋をかき混ぜていた。
エプロンには小麦粉の跡。髪は灰茶色で後ろに束ねられ、
手には木べら。目は鋭くも、どこか優しい。
「おはようございます」
アデルが声をかけると、ルーシャは振り返った。
「お、ちゃんと起きてきたね。えらいえらい」
「今ちょうど朝飯出すところだよ。食べるだろ?」
アデルは頷いた。
「はい。いただきます」
「じゃあ、そこ座ってな。すぐ持ってくるから」
アデルは窓辺の席に腰を下ろした。
椅子の脚が床板を優しく軋ませる。
窓の外では、街灯がひとつ、またひとつと消えていく。
朝の光が、街の輪郭を鮮やかに描き始めていた。
ルーシャは鍋の火を落とし、奥の棚から皿を取り出した。
「はいよ、お待ちどうさん。朝からちゃんと起きてくる子には、おまけつけといたよ」
木のトレイに並べられた料理は、どれも温かく、丁寧だった。
鶏の香草焼き――皮はパリッと焼かれ、肉はしっとり。ローズマリーとタイムが香る。
野菜のポタージュ――じゃがいも、人参、セロリがとろけるように煮込まれ、塩とバターが優しく調和。
焼きたてのパン――外はカリッと、中はふわふわ。ハーブ入りのバターが添えられている。
果物のコンポート――リンゴとベリーを煮詰めた甘酸っぱい一品。朝の目覚めにぴったり。
アデルは、ひと口食べて目を見開いた。
「……美味しい」
その声に、ルーシャが目を細める。
「だろ? うちの朝飯は、派手じゃないけど、腹に優しくて、心に残るようにしてるんだよ」
「旅人は、そういうのが一番沁みるからね」
アデルは、パンをちぎって口に運びながら、静かに頷いた。
「……沁みました」
その言葉に、ルーシャはふっと笑った。
まるで“当然だよ”とでも言いたげに、木べらを腰に差し直す。
「昼も用意するから、戻っておいで。今日は、豆と野菜の煮込みに、麦のパン。
スープはトマトと玉ねぎ、ちょっとだけチーズを溶かしてある。
あんたみたいな子には、ハーブのサラダもつけてやるよ」
「……楽しみにしてます」
食後、アデルは果実茶を飲み干し、トレイの上を静かに見つめた。
皿の上には、パンの欠片と果物の蜜が残っている。
その余韻が、朝の静けさと混ざり合って、心を穏やかにしていた。
彼女は席を立ち、トレイを丁寧に揃えてから、カウンターへと歩いた。
「……ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
ルーシャは木べらを腰に差し直しながら、ふっと笑った。
「そりゃよかった。昼になったら、また腹空かせておいで」
アデルはカウンターに手を添え、そっと言った。
「しばらく、ここに泊まらせていただけますか?」
その言葉と同時に、金貨を一枚、静かに置いた。
ルーシャは目を丸くし、それから笑った。
「まいどあり! こんだけもらえりゃ、1ヶ月は泊まれるよ」
「よろしくお願いします」
「任せときな。あんたみたいな子がいてくれるなら、宿も少し華やぐよ」
アデルはマントの端を整えた。
深い青の布が髪を覆い、顔の輪郭を影に沈める。
扉を開けると、朝の光が彼女の足元に差し込んだ。
石畳の通りは、すでに賑わい始めていた。
果物を並べる商人、布を広げる職人、香草を束ねる少女。
そのすべてが、都市の朝を形づくっていた。
銀環商会の前に差しかかると、白い毛並みの猫が店先の石段で丸くなっていた。
ミルク――昨日、ここで出会った猫。
アデルの足音に気づくと、ミルクはゆっくりと立ち上がり、
尻尾を立てて、まっすぐにアデルの足元へと歩いてきた。
そして、何のためらいもなく、身体をアデルの足に擦りつける。
柔らかな毛並みがマントの裾をくすぐり、
その仕草は、まるで「また来たね」とでも言いたげだった。
アデルはしゃがみ込み、ミルクの背をそっと撫でた。
毛並みは温かく、心地よい重みが指先に伝わる。
「……元気だった?」
ミルクは喉を鳴らしながら、アデルの膝に頭を押しつけた。
その仕草に、アデルの胸の奥が、少しだけほどけていく。
そのとき、蹄音が響いた。
騎士団が通りを進んでいく。
槍を掲げ、鎧をきらめかせながら、整然とした列を保っていた。
先頭には、赤い髪の女性騎士。
その姿に、アデルは一瞬だけ目を留める。
――どこかで見たような気がする。
けれど、気のせいかもしれない。
彼女は、銀環商会の扉へと歩み出す。
騎士団の先頭にいたのは、騎士団長のソフィアだった。
馬上から通りを見渡しながら、ふと眉をひそめる。
「……怪しげな奴だな」
マントを深く被った旅人の後ろ姿。
その歩みは静かで、どこか影を纏っていた。
だが、特に気にすることなく、馬を進める。
彼女の目的は、バルド男爵の領地へ向かい、死を伝えること。
そして、盗賊の捜索を続ける騎士団が――
――あの舞姫を見つけてくれるように。
ソフィアは、祈っていた。
その祈りは、まだ届かない。
けれど、都市の空気の中で、確かに息づいていた。
アデルは、銀環商会の看板を見上げた。
銀の輪が交差する紋章が、朝の光に淡く輝いている。
その光が、まるで何かを祝福するようで――
彼女はそっと目を伏せた。
そして、扉へと手を伸ばす。
都市の朝は、誰かの祈りを抱いて始まる。
マントの影に隠れた瞳は、まだ名を持たない。
けれど、歩みは確かに前を向いていた。
その背に、風と毛並みが、そっと寄り添っていた。
朝の都市は、まだ夢の名残を纏っていた。
その静けさの中で、アデルは仮面という象徴に触れた。
それは隠すための器ではなく、
魂の輪郭を描くための、もうひとつの顔。
ルーシャの言葉は、都市の優しさを編み、
ミルクの毛並みは、昨日の記憶をそっと繋いだ。
すれ違うソフィアの瞳は、まだ彼女を知らない。
けれど風は、確かにふたりの間を通り抜けていた。
仮面を探す旅は、始まったばかり。
祈りはまだ名を持たず、
ただ静かに、彼女の背に寄り添っていた。