銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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風が街を撫でるとき、物語は目を覚ます。

 石畳の隙間に小鳥の声が流れ、窓辺の光が誰かの瞼をそっと撫でる。
 剣の音と果物の香りが交差する朝。

 仮面の魔術師が通りを歩き、少女の瞳がその背を追う。
 都市の光と影が、静かに彼女の心に触れていく。

 これは目覚めの章。
 けれど、ただの朝ではない。
 風が問いかけ、彼女は歩き出す。

 まだ名を持たぬ祈りが、そっとその背に寄り添っていた。




第三十六話 窓から見た景色

 

 朝の街は、静かに目を覚ます。

 小鳥の囀りが、石畳の隙間を縫い、

 窓辺の光が、眠る者の瞼をそっと撫でる。

 

 誰かが剣を振り、誰かが果物を並べる。

 その交差の中で、ひとつの瞳が、世界を見つめ始める。

 

 

 

 月影亭の二階。

 アデルは、ふかふかの枕に頬を寄せたまま、目を開けた。

 窓の外からは、小鳥の声と、遠くの剣の音。

 都市の朝は、森とは違う。騒がしいのに、どこか整っていて、優しい。

 

 彼女はゆっくりと身体を起こし、窓辺へと歩み寄った。

 カーテンを少しだけ開けると、朝の光が差し込んだ。

 騎士たちが剣を振るい、商人たちが店先に木箱を並べている。

 香草の束、果物の山、布地の端――

 すべてが、今日という日を迎える準備をしていた。

 

 その中に、仮面をつけた魔術師の姿があった。

 黒いローブに身を包み、静かに通りを歩いていく。

 その背に、魔術師ギルドの尖塔がそびえていた。

 

 

 

 アデルは、窓辺に手を添えながら、ふと屋敷のことを思い出す。

 

 ――みんな、どうしてるかな。

 

 バルド男爵がいなくなった今、領地は国のものになるはず。

 ドードが教えてくれた法律では、後継のいない貴族の領地は王家に吸収される。

 あの男爵ほどの悪人は、そうはいない。だから、きっと大丈夫。

 

 でも、自分がいないことで、ミレナやセリウスが心配してるかもしれない。

 リリィは泣いてないだろうか。

 

 会いたい。けれど、手にした自由は、簡単には手放せない。

 

 「……いつか、会えたらいいな」

 

 その言葉は、窓の外の風に溶けていった。

 

 

 

 通りを歩く仮面の魔術師に、再び目が留まる。

 アルゲンタイトも、仮面をしていた。

 なぜ魔術師は顔を隠すのか――昔、彼に聞いたことがある。

 

 

 

 この世界の魔術師たちは、魔力の流れが集中する“顔”を晒すことを極端に嫌う。

 特に瞳は、魔力の核。魂の輪郭を外界に晒す危険な部位。

 煌虹色の瞳を持つ者は、魔力の共鳴を引き起こしやすく、

 周囲の感情や術式に干渉される可能性が高い。

 

 だからこそ、高位の術者ほど仮面をつける。

 それは、魔力の遮断・拡散・封印を兼ねた術具。

 “個”としての感情や美貌を封じ、“術そのもの”として振る舞うための象徴。

 

 

 

 アデルは、マントで顔を隠している。

 けれど、仮面をつければ――もっと自然に、もっと堂々と都市の中を歩けるかもしれない。

 ギルドに所属する必要はない。

 仮面さえあれば、身を守る術になる。

 

 「……仮面、探してみようかな」

 

 

 

 階段を降りると、食堂には香ばしい匂いが漂っていた。

 木の床は朝の光を受けて柔らかく輝き、窓辺のテーブルにはまだ誰も座っていない。

 天井のランプは、昨夜と同じように優しく灯っていた。

 

 カウンターの奥では、ルーシャが鍋をかき混ぜていた。

 エプロンには小麦粉の跡。髪は灰茶色で後ろに束ねられ、

 手には木べら。目は鋭くも、どこか優しい。

 

 

 

 「おはようございます」

 

 アデルが声をかけると、ルーシャは振り返った。

 

 「お、ちゃんと起きてきたね。えらいえらい」

 「今ちょうど朝飯出すところだよ。食べるだろ?」

 

 アデルは頷いた。

 「はい。いただきます」

 

 「じゃあ、そこ座ってな。すぐ持ってくるから」

 

 

 

 アデルは窓辺の席に腰を下ろした。

 椅子の脚が床板を優しく軋ませる。

 窓の外では、街灯がひとつ、またひとつと消えていく。

 朝の光が、街の輪郭を鮮やかに描き始めていた。

 

 

 

 ルーシャは鍋の火を落とし、奥の棚から皿を取り出した。

 「はいよ、お待ちどうさん。朝からちゃんと起きてくる子には、おまけつけといたよ」

 

 木のトレイに並べられた料理は、どれも温かく、丁寧だった。

 

 鶏の香草焼き――皮はパリッと焼かれ、肉はしっとり。ローズマリーとタイムが香る。

 野菜のポタージュ――じゃがいも、人参、セロリがとろけるように煮込まれ、塩とバターが優しく調和。

 焼きたてのパン――外はカリッと、中はふわふわ。ハーブ入りのバターが添えられている。

 果物のコンポート――リンゴとベリーを煮詰めた甘酸っぱい一品。朝の目覚めにぴったり。

 

 

 

 アデルは、ひと口食べて目を見開いた。

 「……美味しい」

 

 その声に、ルーシャが目を細める。

 「だろ? うちの朝飯は、派手じゃないけど、腹に優しくて、心に残るようにしてるんだよ」

 「旅人は、そういうのが一番沁みるからね」

 

 アデルは、パンをちぎって口に運びながら、静かに頷いた。

 「……沁みました」

 

 その言葉に、ルーシャはふっと笑った。

 まるで“当然だよ”とでも言いたげに、木べらを腰に差し直す。

 

 「昼も用意するから、戻っておいで。今日は、豆と野菜の煮込みに、麦のパン。

  スープはトマトと玉ねぎ、ちょっとだけチーズを溶かしてある。

  あんたみたいな子には、ハーブのサラダもつけてやるよ」

 

 「……楽しみにしてます」

 

 

 

 食後、アデルは果実茶を飲み干し、トレイの上を静かに見つめた。

 皿の上には、パンの欠片と果物の蜜が残っている。

 その余韻が、朝の静けさと混ざり合って、心を穏やかにしていた。

 

 彼女は席を立ち、トレイを丁寧に揃えてから、カウンターへと歩いた。

 

 「……ごちそうさまでした。とても美味しかったです」

 

 ルーシャは木べらを腰に差し直しながら、ふっと笑った。

 「そりゃよかった。昼になったら、また腹空かせておいで」

 

 

 

 アデルはカウンターに手を添え、そっと言った。

 「しばらく、ここに泊まらせていただけますか?」

 

 その言葉と同時に、金貨を一枚、静かに置いた。

 

 ルーシャは目を丸くし、それから笑った。

 「まいどあり! こんだけもらえりゃ、1ヶ月は泊まれるよ」

 

 「よろしくお願いします」

 

 「任せときな。あんたみたいな子がいてくれるなら、宿も少し華やぐよ」

 

 

 

 アデルはマントの端を整えた。

 深い青の布が髪を覆い、顔の輪郭を影に沈める。

 扉を開けると、朝の光が彼女の足元に差し込んだ。

 

 石畳の通りは、すでに賑わい始めていた。

 果物を並べる商人、布を広げる職人、香草を束ねる少女。

 そのすべてが、都市の朝を形づくっていた。

 

 

 

 銀環商会の前に差しかかると、白い毛並みの猫が店先の石段で丸くなっていた。

 ミルク――昨日、ここで出会った猫。

 

 アデルの足音に気づくと、ミルクはゆっくりと立ち上がり、

 尻尾を立てて、まっすぐにアデルの足元へと歩いてきた。

 

 そして、何のためらいもなく、身体をアデルの足に擦りつける。

 柔らかな毛並みがマントの裾をくすぐり、

 その仕草は、まるで「また来たね」とでも言いたげだった。

 

 アデルはしゃがみ込み、ミルクの背をそっと撫でた。

 毛並みは温かく、心地よい重みが指先に伝わる。

 

 「……元気だった?」

 

 ミルクは喉を鳴らしながら、アデルの膝に頭を押しつけた。

 その仕草に、アデルの胸の奥が、少しだけほどけていく。

 

 

 

 そのとき、蹄音が響いた。

 騎士団が通りを進んでいく。

 槍を掲げ、鎧をきらめかせながら、整然とした列を保っていた。

 

 先頭には、赤い髪の女性騎士。

 その姿に、アデルは一瞬だけ目を留める。

 

 ――どこかで見たような気がする。

 

 けれど、気のせいかもしれない。

 彼女は、銀環商会の扉へと歩み出す。

 

 

 

 騎士団の先頭にいたのは、騎士団長のソフィアだった。

 馬上から通りを見渡しながら、ふと眉をひそめる。

 

 「……怪しげな奴だな」

 

 マントを深く被った旅人の後ろ姿。

 その歩みは静かで、どこか影を纏っていた。

 

 だが、特に気にすることなく、馬を進める。

 彼女の目的は、バルド男爵の領地へ向かい、死を伝えること。

 そして、盗賊の捜索を続ける騎士団が――

 

 ――あの舞姫を見つけてくれるように。

 

 ソフィアは、祈っていた。

 その祈りは、まだ届かない。

 けれど、都市の空気の中で、確かに息づいていた。

 

 

 

 アデルは、銀環商会の看板を見上げた。

 銀の輪が交差する紋章が、朝の光に淡く輝いている。

 その光が、まるで何かを祝福するようで――

 彼女はそっと目を伏せた。

 

 そして、扉へと手を伸ばす。

 




 都市の朝は、誰かの祈りを抱いて始まる。
 マントの影に隠れた瞳は、まだ名を持たない。
 けれど、歩みは確かに前を向いていた。

 その背に、風と毛並みが、そっと寄り添っていた。



 朝の都市は、まだ夢の名残を纏っていた。
 その静けさの中で、アデルは仮面という象徴に触れた。

 それは隠すための器ではなく、
 魂の輪郭を描くための、もうひとつの顔。

 ルーシャの言葉は、都市の優しさを編み、
 ミルクの毛並みは、昨日の記憶をそっと繋いだ。

 すれ違うソフィアの瞳は、まだ彼女を知らない。
 けれど風は、確かにふたりの間を通り抜けていた。

 仮面を探す旅は、始まったばかり。
 祈りはまだ名を持たず、
 ただ静かに、彼女の背に寄り添っていた。
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