午後の都市は、仮面の影を受け入れる。
石畳の上を歩む足音は、誰にも気づかれず、けれど確かに記憶に触れていく。
声はまだ名を持たず、風のようにすり抜ける。
沈黙は、問いかけよりも深く、誰かの心に揺らぎを残す。
そして、ざわめきの中に、ひとつの輪郭が静かに浮かび上がる。
それは、物語が都市に触れた瞬間だった。
石畳の道を踏みしめながら、アデルは宵闇の牙の面々と並んで歩いていた。
午後の陽は傾き、都市の影が長く伸びていた。
リカルドは、道すがら世間話を織り交ぜながら、アデルの素性を探ろうとしていた。
「魔術はどこで学んですか? それとも誰か師匠がいたとか?」
「この街はいつ来られました? それとも……」
けれどアデルは、巧みに言葉をぼやかし、微笑みの奥に沈黙を忍ばせた。
「風のように、流れてきただけです」
「師匠というより……影のような存在でした」
その答えは、真実の輪郭を曖昧にしながらも、嘘ではなかった。
リカルドは内心、手を焼いていた。
この少女は、仮面だけでなく、言葉にも霧を纏っている。
やがて、彼らは目的地へと辿り着いた。
王都ルミナス・グラディアの裏路地に佇む、古びた酒場――「剣と盾亭」。
その地下に、冒険者ギルド「自由の翼」の本部がある。
魔術師ギルド「アストラ・ノヴァ」が知と秩序を重んじるのに対し、
このギルドは、力と挑戦を信条とする者たちの集う場所だった。
王国の法を守りつつも、独自の掟を持ち、
魔物討伐、危険な調査、護衛、そして裏社会の依頼までを仲介する。
互いを助け合う「剣と盾の誓い」が義務とされる。
扉を開けると、酒場の空気が一気に流れ込んできた。
クエストを受注する者、報告に来る者、クレームを叫ぶ者、
昼間から酒を煽る者、食事を楽しむ者――混沌とした熱が渦巻いていた。
扉の音に反応し、視線が一斉に向けられる。
「……なんだ宵闇の牙か」
つまらなそうに呟かれ、また皆は元の喧騒へと戻っていった。
リカルドは気にする様子もなく、受付へと向かう。
「ここで登録しておこう。順番を待つ間に手続きができる」
アデルは頷き、静かに列の後ろに並んだ。
そのとき、酒の匂いを纏った巨漢が近づいてきた。
「おいリカルド、新入りか? 前の魔術師は男だったよな」
リカルドは丁寧に答える。
「今回は女性だ。実力は確かだ」
男は、ゴールド級冒険者チーム「黒鉄の咆哮」の一員――名をガルド・ベアファング。
ゴードンよりも一回り大きく、筋肉の塊のような体躯を持つ。
ガルドはアデルに近づき、仮面越しに品定めするような目を向けた。
透き通る肌、美しい銀髪、そして仮面の奥に潜む静かな気配。
「……いい女だな。魔術師ってより、飾りにしたいくらいだ」
そして、にやりと笑う。
「お嬢ちゃん、俺たちのチームに入らないか? 魔術師ならいつでも歓迎だぜ」
その言葉には、力への期待ではなく、欲望の色が滲んでいた。
リカルドが一歩前に出て、静かに制止する。
「彼女は我々の仲間だ。誘いは断る」
ガルドは眉をひそめ、
「なんだ、文句あるってのか?」
ゴードンも割って入り、マールは慌てて仲裁に入る。
「けんかはやめましょう。ここはギルドです」
ガルドは鼻で笑い、アデルに向き直る。
「お嬢ちゃんに聞いてみればいい。俺たちは金級だ。報酬も桁違いだぜ」
アデルは静かに答えた。
「先に宵闇の牙に誘われました。ご縁があれば、またいつか」
その言葉に、ガルドの顔色が少し変わる。
リカルドとゴードンを睨みつけ、
「……ふん、まぁいい…」言って立ち去ろうとしたが、立ち止まった。
「顔が気になるな。仮面、取らせてもらうぜ!」
と言って突然アデルの仮面に手を伸ばした。
その手が仮面に触れる寸前、アデルの身体が滑るように動いた。
ガインに教わった格闘術が、無意識に発動する。
ガルドの腕をいなし、重心を崩し、
その巨体を投げ飛ばす――
酒場の床に、鈍い音が響いた。
ガルドは転がり、壁に叩きつけられた。
場が静まり返る。
リカルドたちは呆然とし、他の冒険者たちも目を見開いた。
ガルドはよろめきながら立ち上がり、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「てめえ! 俺を金級冒険者だとわかってんのか!!」
再び襲いかかるその瞬間、アデルは肉体強化魔術を発動した。
その速さに、マールが息を呑む。
「……詠唱なしで、あの精度と速さ……凄い」
アデルは誘導するように避け続け、ガルドを酒場の外へと導いた。
「ちょこまかと動きやがって……もう許さねえ!」
ガルドは腰の剣を抜いた。
リカルド、ゴードン、マールが駆けつけるが、間に合わない。
その瞬間――重い音が響いた。
ガルドは鳩尾を打たれ、膝をつき、嘔吐した。
アデルは無表情のまま、ため息をひとつ。
「正拳突きです。酔っていたので、余計に効いたでしょう。
手加減はしましたが、しばらくは立てないと思います」
リカルドたちは呆然とし、やがて顔を見合わせて笑った。
酒場に戻ると、冒険者たちが口々に言った。
「ガルドを投げ飛ばしたぞ!」
「スカッとしたな、あの女魔術師!」
アデルは特に意に介さず、また列に戻る。
酒場の空気は、先ほどまでの緊張を忘れたように、ざわめきと笑いに満ちていた。
「見たか、あの動き」
「ガルドがあんな吹っ飛ぶなんて!」
「あの仮面の魔術師、格闘術も出来るのはすげえな!」
誰もが口々に称賛を送り、アデルの名はまだ知られていないにもかかわらず、
その“気配”だけが、都市の記憶に刻まれていった。
リカルドが肩をすくめながら受付へ向かう。
「……さて、騒ぎは騒ぎとして。登録を済ませよう」
受付の奥に立っていたのは、分厚い書類を抱えた女性――エステル・フレイア。
大きな丸眼鏡の奥にある瞳は冷静で、けれどその奥に柔らかな光を宿していた。
「騒ぎを起こさないようにお願いします」
エステルは事務的な口調で言ったが、
その視線はアデルの仮面の奥を、静かに見つめていた。
「これ以上騒ぐと、ギルド長が出てきますよ」
リカルドは苦笑しながら手を挙げる。
「それだけは勘弁してくれ。あの人が出てくると、みんなお仕置きされるんだ。
長い説教の後で辛い訓練が待ってるからな……」
アデルも軽く頭を下げる。
「すみません。絡まれていたので、つい……」
エステルはため息をつきながらも、微笑んだ。
「…まぁ今回は仕方ないですね。ただ、中で投げ飛ばすのは控えてください」
アデルは真面目な顔で答える。
「次からは関節技で制圧します」
その言葉に、エステルもリカルドも思わず笑った。
「では、登録の手続きを始めましょう」
エステルは書類を広げ、アデルに問いかける。
「年齢、名前、職業をお願いします」
アデルは少しだけ迷いながらも、静かに答えた。
「十五歳。名前はエルダ。職業は……魔術師です」
エステルはその言葉を記録しながら、首を傾げる。
「その強さで新人登録? 他の街で登録していませんか?」
アデルは仮面の奥で微笑み、
「……風のように、流れてきただけです。記録には残っていないと思います」
その言葉に、エステルはしばらく沈黙した後、頷いた。
「……わかりました。では、こちらを」
彼女が差し出したのは、木で作られた首飾りのようなもの。
中央には、ギルドの紋章――翼を広げた剣と盾――が刻まれており裏面にはエルダと記載されていた。
「これが、冒険者としての登録証になります。
ランクによって材質が変わりますので、昇格の際は必ずここへ来てください、まずはこちらルーキークラスからのスタートとなります。」
アデルはそれを受け取り、静かに頷いた。
その瞬間、都市の空気が少しだけ変わったような気がした。
仮面の奥にある瞳が、都市の風景を見つめる。
そして、まだ語られていない物語が、静かに動き始めていた。
魔術師エルダ……
その名が、都市の記録に刻まれた瞬間だった。
仮面は沈黙を守る器ではなく、都市に溶ける輪郭だった。
声は魔術ではなく、心に触れる力――その響きが、騒ぎを鎮め、名を刻んだ。
挑発は儀式のように、力を示す場となり、
アデルは仮面の奥で静かにそれを受け入れた。
木の首飾りが渡された瞬間、
風のような魔術師は、都市の記録に初めて触れた。
物語は、静かに芽吹いている。
次なる夜の扉を、もう叩き始めていた。