朝、アデルは薄明かりの中で目を覚ました。
まだ外は冷え込み、吐く息が白い。
程なくして、奴隷小屋の扉が軋み、エレナが姿を見せた。
「今日は別の仕事を覚えてもらうわ。エリスについて」
短く告げられ、アデルは頷いた。
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エリスは落ち着いた物腰で、アデルを迎えた。
「まずは業務を覚えること。そして、心を整えること」
彼女は掃除や洗濯、客間の整頓などを教える合間に、祈りの大切さを語った。
「祈りは、心を澄ませるためのもの。誰かに見せるためじゃないの」
その声は柔らかく、修道女だった頃の静けさを帯びていた。
アデルは真剣に耳を傾け、与えられた仕事を黙々とこなした。
その覚えの早さと手際の良さに、エリスは驚き、静かに微笑んだ。
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昼食時。
アデルは厨房の隅で、奴隷用の食事を前に座っていた。
すると、料理番のグランが近づき、手のひらに小さなアップルパイを乗せた。
「失敗作だ。処理してくれ」
それはアデルの手のひらに収まるほどの大きさで、端が少し焦げて黒くなっていた。
だが、まだほんのり温かく、表面の焼き色は黄金色に輝き、ところどころに溶けた砂糖が飴色の斑点を作っている。
近づけると、甘く煮詰めたリンゴの香りと、バターの豊かな匂いがふわりと鼻をくすぐった。
アデルは恐る恐るひと口かじった。
薄く層を重ねた生地が、サクッと小気味よい音を立てて崩れ、舌の上でほろりと溶けていく。
中から現れたリンゴは柔らかく煮込まれ、果汁がじゅわっと広がった。
甘さの中にほんの少し酸味があり、焦げ目の香ばしさがそれを引き締める。
温もりが口いっぱいに広がり、胸の奥まで染み込んでいくようだった。
思わず、アデルの頬がふわりと緩む。
グランはその表情を見て、口の端を上げた。
「また失敗したら頼むぞ」
とニヤリと笑う。
アデルはその意味を理解し、小さな声で「…ありがとうございます」と微笑んだ。
「明日は俺の手伝いをさせるから覚悟しろよ!」
脅すように言われ、アデルはたじろいだが、すぐにグランは大笑いし、
「冗談だ」
と肩を叩いた。
午後、男爵が外出し、そのまま外泊すると聞いた。
アデルは胸の奥から安堵が広がるのを感じた。
周りの使用人たちも、彼女を見てほっとした表情を浮かべていた。
夜。
男爵が不在のため、食事は残り物がなく、アデルは何も期待していなかった。
だが、グランがこっそり小さな器を差し出した。
中には湯気を立てる肉の入ったビーフシチュー。
アデルは恐る恐る口に運び、その濃厚な旨味と柔らかな肉に目を見開いた。
もじもじとしながら、アデルは尋ねた。
「……どうして、こんなに優しくしてくれるんですか」
グランは豪快に笑った。
「奴隷用の粗末な飯をあんなに美味そうに食べられたらな、もっと美味いもん食わせたくなるだろ!でもこれはここだけの秘密だぞ」
アデルは胸の奥が温かくなるのを感じ、深く頭を下げた。
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食事を終え、奴隷小屋に戻ると、リリィが迎えてくれた。
「アデルちゃん、一緒に身体洗いに行こ!」
ふたりは誰もいないいつもの厨房の隅で、桶の湯を使って背中を洗い合った。
リリィの背中にも、アデルと同じ奴隷の刻印と、鞭で打たれたような古傷があった。
アデルの背には、まだ治りきらない生々しい傷跡。
「…早く治るといいね」
リリィは優しく言い、傷に湯が染みないよう、ボロ布でそっと洗った。
互いの背中を洗いながら、他愛のない会話をしてふたりは笑い合った。
リリィは自分が戦争孤児で、奴隷として売られ、ここに来たことを話した。
アデルも少しずつ、自分のことを語った。
その夜は男爵がいない。
ふたりは手を握り合い、温もりを分け合いながら眠りについた。
暗闇の中、小さな灯火が、確かに心にともっていた。
エリス・ヴァンデル