銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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 ひとつの報せが、ひとつの沈黙を破る。
 そして、沈黙の奥にあるもの――それは、誰かを想うということ。
 祈りのように静かで、記憶のように重く、
 それでも、風のように優しい。



第四十ニ話 沈黙の館、祈りの名

 

 執事セリウスの部屋の書類の山は、今日も崩れないままだった。

 机の上に積まれた報告書、領収記録、商人との契約書――

 どれも、男爵の印がなければ処理できないものばかりだった。

 

 

 

 

 ほんの数日前、バルド男爵は社交界へ向かった。

 私は珍しく休暇を取っていた。

 護衛も、メイドも、誰一人として付き添わなかった。

 代わりに、日雇いの護衛と使用人を連れて、男爵は出発した。

 ――アデルを連れて。

 

 それ以来、屋敷は静かだった。

 不自然なほどに。

 まるで、誰かが息を潜めているような沈黙が、壁の隙間にまで染み込んでいた。

 

---

 

 アデルがこの屋敷に来たのは、九歳の頃だった。

 奴隷として買われた子供。

 だが、その瞳に宿る聡明さと、言葉の端々に滲む礼節に、

 屋敷の者たちは次第に惹かれていった。

 

 私は、彼女に礼儀作法を教えた。

 この国の歴史、貴族の系譜、書簡の扱い方、舞踏の所作――

 奴隷に教えるべきことではなかった。

 だが、彼女は“奴隷”ではなかった。

 少なくとも、この屋敷では。

 

 彼女は左目に呪いを宿していた。

 男爵が施した赫蒼の刻印。

 癒しの儀式で、領民の痛みを引き受けるための“器”として。

 苦しみながらも、彼女はそれを受け入れ、乗り越えてきた。

 

 社交界では、見事な舞を披露した。

 今や“月光の舞姫”と呼ばれるほどに。

 その舞は、誰よりも美しく、誰よりも孤独だった。

 

 健気に、懸命に生きる彼女に、屋敷の者たちは皆、心を寄せていた。

 彼女がいれば、空気が柔らかくなる。

 彼女が笑えば、誰もが少しだけ優しくなれた。

 

---

 

 男爵が戻らないことは、正直、覚悟していた。

 事故ではない。

 あの方は、あまりにも多くの者から恨みを買っていた。

 奇物収集、異端儀式、奴隷制度の私的運用――

 私は何度も助言した。

 だが、聞く耳を持たなかった。

 

 いつかは、こうなる。

 そう思っていた。

 それでも、実際にその日が来ると、胸の奥が冷たく沈んでいく。

 

 そして、何よりも――アデルが戻ってこないことが、痛かった。

 

---

 

 そのとき、扉が荒々しく叩かれた。

 メイドのミレナが、顔を紅潮させて駆け込んできた。

 

 「城塞都市ヴェルム・アルジェンタムより、騎士団長のイレアナ・ソフィア・ドゥ・アルジェント様が、騎士を数人お連れして……お越しです!」

 

 私は立ち上がり、身なりを整えた。

 ついに来たか――

 彼女が来る理由は、ひとつしかない。

 そして、それは私が最も聞きたくない報せでもあった。

 

---

 

 玄関へ向かうと、鎧を纏った騎士たちが並び、

 その先頭に、若き騎士団長が立っていた。

 白銀の鎧に身を包み、凛とした瞳で私を見つめていた。

 

 私は一礼し、静かに言った。

 

 「ようこそお越しくださいました」

 

 ソフィアは頷き、懐から一通の文書を取り出した。

 それは、王家の印章が押された勅令書だった。

 彼女はそれを私の手に渡しながら、静かに告げた。

 

 「……バルド・エルゼリオ・ヴァン・グレイシュ男爵が、街道外れの森で何者かに襲撃され、遺体となって発見されました。

  遺体は確認済み。積荷は荒らされ、護衛は不在。

  領地は王家の管理下に置かれ、明朝、兵士と役人が正式に引き継ぎに参ります」

 

 私は目を伏せ、静かに息を吐いた。

 その報せは、予感していたものだった。

 だが、実際に聞くと、胸の奥に冷たいものが落ちていく。

 

 「……そうですか。ついに、あの方も」

 

---

 

 ソフィアは一歩踏み出し、声を低めた。

 

 「同時に男爵に同行していた奴隷――アデルの姿が、現場には見つかっていませんでした。

  鍵の壊れた箱があり、蹄の痕と足跡が複数。逃げた形跡はなく、連れ去られた可能性が高いです」

 

 その言葉に、私は一瞬だけ目を閉じた。

 生きている――その事実に、安堵した。

 だが、捕らわれている――その可能性に、胸が沈んだ。

 

 彼女は十五歳。

 十五歳とは思えぬ美貌を持っていた。

 そんな人間が、どこかで捕らわれている。

 想像するだけで、胸が痛んだ。

 

---

 

 「男爵が戻らないことは……正直、覚悟しておりました」

 「ですが、アデルが……彼女が戻らないことは、どうにも胸が痛みます」

 

 私は、言葉を選びながら続けた。

 

 「彼女は九歳の頃、この屋敷に来て懸命に働き続けていました。

  奴隷ではありましたが、彼女のひたむきさ、聡明さに屋敷の皆は励まされ、生きてきました。

  そんな彼女が居なくなると……失礼、余計なことを」

 

 目に涙が滲んだ。

 近くにいたメイドのエレナは、肩を震わせ、止まらない涙を何度も拭っていた。

 

---

 

 ソフィアは、静かに言った。

 

 「心中、お察しします……」

 

 彼女は驚いていた。

 月光の舞姫――その姿しか知らなかった。

 だが、ここでは彼女は“人”として生きていた。

 奴隷が執事に名を呼ばれ、メイドが涙を流す。

 この国では、ありえないことだった。

 

 ソフィアは続けて言った。

 

 「男爵を襲った者の捜索と共に、アデルの捜索も続けています。

  もし見つかれば、ここまで連れてこようと約束します」

 

 私は深く頭を下げた。

 

 「……ありがとうございます。心より、感謝いたします」

 

---

 

 「男爵が亡くなったことについては、明日、役人から領民たちに伝えることとなっています。

  屋敷内の者には、あなた方から伝えてください」

 

 私は頷き、ミレナとともに一礼した。

 ソフィアは騎士たちに目配せをし、静かに屋敷を後にする。

 白銀の鎧が夕光を受けて鈍く輝き、蹄の音が石畳に響いた。

 その背を見送りながら、私は胸の奥に沈んだ言葉を飲み込んだ。

 

 ――アデル。君は、どこにいる。

 

 ミレナが隣で、そっと袖を握った。

 その手は震えていた。

 彼女は、アデルの髪を編み、ドレスを整え、舞の前にそっと背を押していた。

 その手が、今は何も触れられずに、空を掴んでいた。

 

 「……セリウス様。アデルは、きっと……」

 言いかけて、言葉が途切れる。

 私は静かに頷いた。

 

 「ええ。きっと、どこかで生きている。

  あの子は、簡単には折れない。

  あの瞳は、何度も夜を越えてきた」

 

 ミレナは涙を拭いながら、微かに笑った。

 その笑みは、祈りのように儚く、確かなものだった。

 

---

 

 夜。

 私は書斎に戻り、机の上の書類を見つめた。

 男爵の印がないまま、積み重なった紙の山。

 その隙間に、いつかアデルが書き残した小さなメモが挟まっていた。

 

 「セリウス様へ。舞の所作、もう一度見ていただけますか?

  次は、もっと静かな風のように踊りたいのです」

 

 その文字は、丁寧で、少しだけ揺れていた。

 私はその紙を手に取り、胸元にそっと押し当てた。

 

 「……アデル。どうか、自由でいてくれ。

  この館の沈黙に、君の声が吸い込まれてしまわぬように」

 

 外では、風が枝を揺らしていた。

 その音は、彼女が聞いていた風の音と、同じだった気がした。





沈黙は、誰かを忘れるためのものではない。
それは、誰かを想い続けるための器だ。

少女が消えた夜、
残された者は、風の音に耳を澄ませる。
その音に、彼女の声が混じっている気がして――
誰もが、そっと祈る。

どうか、自由でいてくれ。
この館の沈黙に、君の声が吸い込まれてしまわぬように。
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