ひとつの報せが、ひとつの沈黙を破る。
そして、沈黙の奥にあるもの――それは、誰かを想うということ。
祈りのように静かで、記憶のように重く、
それでも、風のように優しい。
執事セリウスの部屋の書類の山は、今日も崩れないままだった。
机の上に積まれた報告書、領収記録、商人との契約書――
どれも、男爵の印がなければ処理できないものばかりだった。
ほんの数日前、バルド男爵は社交界へ向かった。
私は珍しく休暇を取っていた。
護衛も、メイドも、誰一人として付き添わなかった。
代わりに、日雇いの護衛と使用人を連れて、男爵は出発した。
――アデルを連れて。
それ以来、屋敷は静かだった。
不自然なほどに。
まるで、誰かが息を潜めているような沈黙が、壁の隙間にまで染み込んでいた。
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アデルがこの屋敷に来たのは、九歳の頃だった。
奴隷として買われた子供。
だが、その瞳に宿る聡明さと、言葉の端々に滲む礼節に、
屋敷の者たちは次第に惹かれていった。
私は、彼女に礼儀作法を教えた。
この国の歴史、貴族の系譜、書簡の扱い方、舞踏の所作――
奴隷に教えるべきことではなかった。
だが、彼女は“奴隷”ではなかった。
少なくとも、この屋敷では。
彼女は左目に呪いを宿していた。
男爵が施した赫蒼の刻印。
癒しの儀式で、領民の痛みを引き受けるための“器”として。
苦しみながらも、彼女はそれを受け入れ、乗り越えてきた。
社交界では、見事な舞を披露した。
今や“月光の舞姫”と呼ばれるほどに。
その舞は、誰よりも美しく、誰よりも孤独だった。
健気に、懸命に生きる彼女に、屋敷の者たちは皆、心を寄せていた。
彼女がいれば、空気が柔らかくなる。
彼女が笑えば、誰もが少しだけ優しくなれた。
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男爵が戻らないことは、正直、覚悟していた。
事故ではない。
あの方は、あまりにも多くの者から恨みを買っていた。
奇物収集、異端儀式、奴隷制度の私的運用――
私は何度も助言した。
だが、聞く耳を持たなかった。
いつかは、こうなる。
そう思っていた。
それでも、実際にその日が来ると、胸の奥が冷たく沈んでいく。
そして、何よりも――アデルが戻ってこないことが、痛かった。
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そのとき、扉が荒々しく叩かれた。
メイドのミレナが、顔を紅潮させて駆け込んできた。
「城塞都市ヴェルム・アルジェンタムより、騎士団長のイレアナ・ソフィア・ドゥ・アルジェント様が、騎士を数人お連れして……お越しです!」
私は立ち上がり、身なりを整えた。
ついに来たか――
彼女が来る理由は、ひとつしかない。
そして、それは私が最も聞きたくない報せでもあった。
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玄関へ向かうと、鎧を纏った騎士たちが並び、
その先頭に、若き騎士団長が立っていた。
白銀の鎧に身を包み、凛とした瞳で私を見つめていた。
私は一礼し、静かに言った。
「ようこそお越しくださいました」
ソフィアは頷き、懐から一通の文書を取り出した。
それは、王家の印章が押された勅令書だった。
彼女はそれを私の手に渡しながら、静かに告げた。
「……バルド・エルゼリオ・ヴァン・グレイシュ男爵が、街道外れの森で何者かに襲撃され、遺体となって発見されました。
遺体は確認済み。積荷は荒らされ、護衛は不在。
領地は王家の管理下に置かれ、明朝、兵士と役人が正式に引き継ぎに参ります」
私は目を伏せ、静かに息を吐いた。
その報せは、予感していたものだった。
だが、実際に聞くと、胸の奥に冷たいものが落ちていく。
「……そうですか。ついに、あの方も」
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ソフィアは一歩踏み出し、声を低めた。
「同時に男爵に同行していた奴隷――アデルの姿が、現場には見つかっていませんでした。
鍵の壊れた箱があり、蹄の痕と足跡が複数。逃げた形跡はなく、連れ去られた可能性が高いです」
その言葉に、私は一瞬だけ目を閉じた。
生きている――その事実に、安堵した。
だが、捕らわれている――その可能性に、胸が沈んだ。
彼女は十五歳。
十五歳とは思えぬ美貌を持っていた。
そんな人間が、どこかで捕らわれている。
想像するだけで、胸が痛んだ。
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「男爵が戻らないことは……正直、覚悟しておりました」
「ですが、アデルが……彼女が戻らないことは、どうにも胸が痛みます」
私は、言葉を選びながら続けた。
「彼女は九歳の頃、この屋敷に来て懸命に働き続けていました。
奴隷ではありましたが、彼女のひたむきさ、聡明さに屋敷の皆は励まされ、生きてきました。
そんな彼女が居なくなると……失礼、余計なことを」
目に涙が滲んだ。
近くにいたメイドのエレナは、肩を震わせ、止まらない涙を何度も拭っていた。
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ソフィアは、静かに言った。
「心中、お察しします……」
彼女は驚いていた。
月光の舞姫――その姿しか知らなかった。
だが、ここでは彼女は“人”として生きていた。
奴隷が執事に名を呼ばれ、メイドが涙を流す。
この国では、ありえないことだった。
ソフィアは続けて言った。
「男爵を襲った者の捜索と共に、アデルの捜索も続けています。
もし見つかれば、ここまで連れてこようと約束します」
私は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。心より、感謝いたします」
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「男爵が亡くなったことについては、明日、役人から領民たちに伝えることとなっています。
屋敷内の者には、あなた方から伝えてください」
私は頷き、ミレナとともに一礼した。
ソフィアは騎士たちに目配せをし、静かに屋敷を後にする。
白銀の鎧が夕光を受けて鈍く輝き、蹄の音が石畳に響いた。
その背を見送りながら、私は胸の奥に沈んだ言葉を飲み込んだ。
――アデル。君は、どこにいる。
ミレナが隣で、そっと袖を握った。
その手は震えていた。
彼女は、アデルの髪を編み、ドレスを整え、舞の前にそっと背を押していた。
その手が、今は何も触れられずに、空を掴んでいた。
「……セリウス様。アデルは、きっと……」
言いかけて、言葉が途切れる。
私は静かに頷いた。
「ええ。きっと、どこかで生きている。
あの子は、簡単には折れない。
あの瞳は、何度も夜を越えてきた」
ミレナは涙を拭いながら、微かに笑った。
その笑みは、祈りのように儚く、確かなものだった。
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夜。
私は書斎に戻り、机の上の書類を見つめた。
男爵の印がないまま、積み重なった紙の山。
その隙間に、いつかアデルが書き残した小さなメモが挟まっていた。
「セリウス様へ。舞の所作、もう一度見ていただけますか?
次は、もっと静かな風のように踊りたいのです」
その文字は、丁寧で、少しだけ揺れていた。
私はその紙を手に取り、胸元にそっと押し当てた。
「……アデル。どうか、自由でいてくれ。
この館の沈黙に、君の声が吸い込まれてしまわぬように」
外では、風が枝を揺らしていた。
その音は、彼女が聞いていた風の音と、同じだった気がした。
沈黙は、誰かを忘れるためのものではない。
それは、誰かを想い続けるための器だ。
少女が消えた夜、
残された者は、風の音に耳を澄ませる。
その音に、彼女の声が混じっている気がして――
誰もが、そっと祈る。
どうか、自由でいてくれ。
この館の沈黙に、君の声が吸い込まれてしまわぬように。