城塞都市ヴェルム・アルジェンタムの朝が、石壁の向こうから静かに始まった。
一室の窓辺で目を覚ました少女は、ゆっくりと立ち上がり、窓を開ける。
朝日が頬を撫でる。
その光に、彼女は小さく背伸びをして、衣服を整え、仮面を手に取った。
彼女の名は――エルダ。
かつて“アデル”と呼ばれていたその少女は、今や仮面の魔術師として生きている。
この都市では、誰も彼女の過去を知らない。
彼女自身も、名乗ることはなかった。
だから、ここでは“エルダ”として物語が紡がれていく。
鏡の前に立ち、仮面をつける。
そこに映るのは、まだ“仮面になりきれない”自分。
少しだけ笑って、呟いた。
「……やっぱり、へんなの」
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部屋を出ると、ちょうどマールが隣室から出てきた。
鉢合わせた瞬間、マールが明るく声をかける。
「おはよう、エルダ」
エルダは礼儀正しく頭を下げた。
「おはようございます」
二人は並んで食堂へ向かう。
まだ誰もいない静かな空間。
厨房ではルーシャが慌ただしく鍋をかき回していた。
「おはようございます、ルーシャさん」
「おお、エルダか。朝飯はもうちょい待っとくれ!」
威勢の良い返事に、エルダは微笑みながら食堂で待つことを伝え、マールと昨夜使ったテーブルに腰を下ろした。
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しばらくして、マールが口を開いた。
「エルダ……あなたのこと、もっと知りたい。言える範囲でいいから、教えてほしい」
エルダは少しだけ首を傾けた。
「何が気になりますか?」
マールは、言葉を選びながら答えた。
「あなた、魔力を抑えてるでしょう? 普通、魔術師は誇示するものなのに。
抑えるのって、すごく労力がいるはず。どうして?」
そして、視線を仮面のあたりに向ける。
「それに……目の周りに、ちょっと不思議な魔力を感じるの」
エルダは、仮面の縁に指を添えた。
そして、冗談めかして言った。
「これは……魔術師の秘密、ということで。
仮面の下には、いろいろ詰まってるんです。夢とか、記憶とか、ちょっとした呪文とか」
マールはくすっと笑った。
「それ、ずるいよ。……ごめん、言いたくないこともあるよね。もっと仲良くなったら教えてね」
エルダはまた軽く誤魔化し、マールは笑った。
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そうこうしているうちに、リーダーのリカルドと、眠そうなゴードンがやって来た。
リカルドが颯爽と口を開きかけたところで、ゴードンがぼそりと言う。
「朝っぱらから勘弁してくれ。せめて飯食ってから話しようぜ」
リカルドはそれもそうだと笑い、マールとエルダもつられて笑った。
「できたよ、お待たせ!」
ルーシャが皿に盛られた料理を両手いっぱいに持ち現れ、テーブルに料理を並べる。
香草を練り込んだ卵焼き、根菜のスープ、焼きたての黒パンに、干し肉のハーブ炒め。
素朴ながら滋味深い香りが立ち上り、食堂に温かさが満ちていく。
エルダはまたも美味しそうに食べ、マールたちはそれを見てくすりと笑った。
「本当に美味しそうに食べるね」
エルダは照れ笑いしながら、パンを口に運んだ。
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食堂の灯はまだ揺れていた。
皿の音が止み、空気には戦の前の静けさが漂っていた。
リカルドは椅子の背にもたれ、腕を組んだまま仲間たちを見渡す。
「さて、食事も終わったことだし……今回のクエストの作戦を話そうか」
マール、ゴードンが無言で頷く。
エルダは仮面の奥で目を細め、黙って耳を傾けていた。
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「影狼――シャドウウルフ。霧のように物理攻撃をすり抜け、咆哮で精神を乱す魔物だ。
魔術でしか実体を捉えられず、群れで行動することもある。
咆哮は、魔物を狂わせるだけじゃない。人間を狙って放たれる。
精神を裂くような音だ。だから、今夜、月光の下で仕留める。
月が出ていれば、奴らの気配が見える、これはみんな知っているな…」
リカルドはテーブルに地図を広げ、指先で森の外縁をなぞった。
「俺とゴードンが囮になる。マールに加護の祈りをかけてもらいながら、咆哮で精神攻撃を食らった場合はマールが都度癒す。
そして、隙を見てエルダが魔術で仕留める。
無理ならすぐに引く。誰かが倒れたら、即撤退。……これが基本線だ。何か質問や提案はあるか?」
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沈黙が落ちた。
それは、誰もが“命を賭ける”という言葉を飲み込んだ瞬間だった。
エルダは、冷静な声で言った。
「囮になるということは、咆哮の標的になるということです。
シャドウウルフは、霧の中から人の心の揺らぎを嗅ぎ分けて咆哮を放ちます。
その瞬間、精神の防壁が揺らげば、幻覚や錯乱が生じる可能性がある。
それは、戦闘不能と同義です」
リカルドは眉をひそめた。
「……なるほど。どうすべきだと思う?」
エルダは、仮面の縁に指を添えた。
その仕草は、まるで思考をなぞるようだった。
「囮を使うのではなく、誘導しましょう。
月光を媒介にした“誘導陣”を展開します。
魔物の感覚を撹乱し、特定の方向へ誘導する。
咆哮の標的を分散させ、個体ごとに仕留める。
マールさんの加護の祈りは、陣の中心に据えてください。
ただし、祈りの灯が強すぎれば、逆に狙われます。光を狙う性質があるからです」
マールは驚いたように顔を上げた。
「光を……狙う?」
「揺らぎを探すんです。霧の中で、光、音、魔力の波――
それらに反応して咆哮を放つ。
だから、祈りの灯は“揺らがない光”でなければならない。
それができるのは、僧侶であるマールさんだけです」
マールは、少しだけ目を伏せた。
そして、静かに言った。
「……やってみる。揺らがない光。祈りの芯を、深く据える」
ゴードンが腕を組み、低く言った。
「俺は、誘導陣の外縁で待機する。
魔物が陣を越えようとしたら、盾となる。
物理攻撃は通らなくても、位置を固定することはできる」
リカルドも頷いた。
「俺は、月光の角度と雲の流れを監視する。
月が隠れたら、即撤退。
エルダ、お前の魔術に賭ける。マールの祈りに守られながらな」
エルダは仮面の奥で静かに目を閉じた。
そして、言葉を紡ぐ。
「……昨日の戦い、覚えていますか? ゴブリンの群れに対して、私は三つの魔術を使いました。
音響魔術で空間の反響を狂わせ、光の刃で剣を強化し、肉体強化で動きを加速させた。
シャドウウルフに対しても、同様の戦い方をします。
音と光――それが弱点です。
本来ゴブリン相手なら、肉体強化だけで十分でしたが、昨日説明した通り今回の想定を踏まえて過剰に魔術を使いました」
リカルドは目を細めた。
「つまり、音響で咆哮を乱し、光で実体を捉え、強化で仕留める。
……それが、エルダの戦術か」
エルダは頷いた。
「はい。ただし、月光がなければ誘導陣は展開できません。
雲が流れれば、作戦は崩れます。
その判断は、リカルドさんに委ねます」
ゴードンが低く笑った。
「ずいぶん頼りにされてるな、リーダー」
リカルドは肩をすくめた。
「光と風は俺の得意分野じゃないが……まあ、やってみるさ」
マールはそっと手を組み、祈りの芯を整えるように目を閉じた。
エルダは仮面の奥で、静かに息を吐いた。
月光の夜が、すぐそこまで来ていた。
そして、誰もがまだ知らない“揺らがない光”が、
この夜の深みに灯されようとしていた。
仮面の奥に灯る光は、まだ揺れている。
それでも、誰かの祈りに触れたとき――
その光は、夜を裂く刃となる。
月が昇る。
封陣が、静かに息をし始める。