銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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 城塞都市ヴェルム・アルジェンタムの朝が、石壁の向こうから静かに始まった。
 一室の窓辺で目を覚ました少女は、ゆっくりと立ち上がり、窓を開ける。
 朝日が頬を撫でる。
 その光に、彼女は小さく背伸びをして、衣服を整え、仮面を手に取った。



第四十三話 戦の前、笑みのあと

 

 彼女の名は――エルダ。

 かつて“アデル”と呼ばれていたその少女は、今や仮面の魔術師として生きている。

 この都市では、誰も彼女の過去を知らない。

 彼女自身も、名乗ることはなかった。

 だから、ここでは“エルダ”として物語が紡がれていく。

 

 

 

 

 

 

 鏡の前に立ち、仮面をつける。

 そこに映るのは、まだ“仮面になりきれない”自分。

 少しだけ笑って、呟いた。

 

 「……やっぱり、へんなの」

 

---

 

 部屋を出ると、ちょうどマールが隣室から出てきた。

 鉢合わせた瞬間、マールが明るく声をかける。

 

 「おはよう、エルダ」

 

 エルダは礼儀正しく頭を下げた。

 「おはようございます」

 

 二人は並んで食堂へ向かう。

 まだ誰もいない静かな空間。

 厨房ではルーシャが慌ただしく鍋をかき回していた。

 

 「おはようございます、ルーシャさん」

 「おお、エルダか。朝飯はもうちょい待っとくれ!」

 

 威勢の良い返事に、エルダは微笑みながら食堂で待つことを伝え、マールと昨夜使ったテーブルに腰を下ろした。

 

---

 

 しばらくして、マールが口を開いた。

 

 「エルダ……あなたのこと、もっと知りたい。言える範囲でいいから、教えてほしい」

 

 エルダは少しだけ首を傾けた。

 「何が気になりますか?」

 

 マールは、言葉を選びながら答えた。

 「あなた、魔力を抑えてるでしょう? 普通、魔術師は誇示するものなのに。

  抑えるのって、すごく労力がいるはず。どうして?」

 

 そして、視線を仮面のあたりに向ける。

 「それに……目の周りに、ちょっと不思議な魔力を感じるの」

 

 エルダは、仮面の縁に指を添えた。

 そして、冗談めかして言った。

 

 「これは……魔術師の秘密、ということで。

  仮面の下には、いろいろ詰まってるんです。夢とか、記憶とか、ちょっとした呪文とか」

 

 マールはくすっと笑った。

 「それ、ずるいよ。……ごめん、言いたくないこともあるよね。もっと仲良くなったら教えてね」

 

 エルダはまた軽く誤魔化し、マールは笑った。

 

---

 

 そうこうしているうちに、リーダーのリカルドと、眠そうなゴードンがやって来た。

 リカルドが颯爽と口を開きかけたところで、ゴードンがぼそりと言う。

 

 「朝っぱらから勘弁してくれ。せめて飯食ってから話しようぜ」

 

 リカルドはそれもそうだと笑い、マールとエルダもつられて笑った。

 

 「できたよ、お待たせ!」

 ルーシャが皿に盛られた料理を両手いっぱいに持ち現れ、テーブルに料理を並べる。

 

 香草を練り込んだ卵焼き、根菜のスープ、焼きたての黒パンに、干し肉のハーブ炒め。

 素朴ながら滋味深い香りが立ち上り、食堂に温かさが満ちていく。

 

 エルダはまたも美味しそうに食べ、マールたちはそれを見てくすりと笑った。

 

 「本当に美味しそうに食べるね」

 

 エルダは照れ笑いしながら、パンを口に運んだ。

 

---

 

 食堂の灯はまだ揺れていた。

 皿の音が止み、空気には戦の前の静けさが漂っていた。

 

 リカルドは椅子の背にもたれ、腕を組んだまま仲間たちを見渡す。

 

 「さて、食事も終わったことだし……今回のクエストの作戦を話そうか」

 

 マール、ゴードンが無言で頷く。

 エルダは仮面の奥で目を細め、黙って耳を傾けていた。

 

---

 

 「影狼――シャドウウルフ。霧のように物理攻撃をすり抜け、咆哮で精神を乱す魔物だ。

  魔術でしか実体を捉えられず、群れで行動することもある。

  咆哮は、魔物を狂わせるだけじゃない。人間を狙って放たれる。

  精神を裂くような音だ。だから、今夜、月光の下で仕留める。

  月が出ていれば、奴らの気配が見える、これはみんな知っているな…」

 

 リカルドはテーブルに地図を広げ、指先で森の外縁をなぞった。

 

 「俺とゴードンが囮になる。マールに加護の祈りをかけてもらいながら、咆哮で精神攻撃を食らった場合はマールが都度癒す。

  そして、隙を見てエルダが魔術で仕留める。

  無理ならすぐに引く。誰かが倒れたら、即撤退。……これが基本線だ。何か質問や提案はあるか?」

 

---

 

 沈黙が落ちた。

 それは、誰もが“命を賭ける”という言葉を飲み込んだ瞬間だった。

 

 エルダは、冷静な声で言った。

 

 「囮になるということは、咆哮の標的になるということです。

  シャドウウルフは、霧の中から人の心の揺らぎを嗅ぎ分けて咆哮を放ちます。

  その瞬間、精神の防壁が揺らげば、幻覚や錯乱が生じる可能性がある。

  それは、戦闘不能と同義です」

 

 リカルドは眉をひそめた。

 「……なるほど。どうすべきだと思う?」

 

 エルダは、仮面の縁に指を添えた。

 その仕草は、まるで思考をなぞるようだった。

 

 「囮を使うのではなく、誘導しましょう。

  月光を媒介にした“誘導陣”を展開します。

  魔物の感覚を撹乱し、特定の方向へ誘導する。

  咆哮の標的を分散させ、個体ごとに仕留める。

  マールさんの加護の祈りは、陣の中心に据えてください。

  ただし、祈りの灯が強すぎれば、逆に狙われます。光を狙う性質があるからです」

 

 マールは驚いたように顔を上げた。

 「光を……狙う?」

 

 「揺らぎを探すんです。霧の中で、光、音、魔力の波――

  それらに反応して咆哮を放つ。

  だから、祈りの灯は“揺らがない光”でなければならない。

  それができるのは、僧侶であるマールさんだけです」

 

 マールは、少しだけ目を伏せた。

 そして、静かに言った。

 「……やってみる。揺らがない光。祈りの芯を、深く据える」

 

 ゴードンが腕を組み、低く言った。

 「俺は、誘導陣の外縁で待機する。

  魔物が陣を越えようとしたら、盾となる。

  物理攻撃は通らなくても、位置を固定することはできる」

 

 リカルドも頷いた。

 「俺は、月光の角度と雲の流れを監視する。

  月が隠れたら、即撤退。

  エルダ、お前の魔術に賭ける。マールの祈りに守られながらな」

 

 エルダは仮面の奥で静かに目を閉じた。

 そして、言葉を紡ぐ。

 

 「……昨日の戦い、覚えていますか? ゴブリンの群れに対して、私は三つの魔術を使いました。

  音響魔術で空間の反響を狂わせ、光の刃で剣を強化し、肉体強化で動きを加速させた。

  シャドウウルフに対しても、同様の戦い方をします。

  音と光――それが弱点です。

  本来ゴブリン相手なら、肉体強化だけで十分でしたが、昨日説明した通り今回の想定を踏まえて過剰に魔術を使いました」

 

 リカルドは目を細めた。

 「つまり、音響で咆哮を乱し、光で実体を捉え、強化で仕留める。

  ……それが、エルダの戦術か」

 

 エルダは頷いた。

 「はい。ただし、月光がなければ誘導陣は展開できません。

  雲が流れれば、作戦は崩れます。

  その判断は、リカルドさんに委ねます」

 

 ゴードンが低く笑った。

 「ずいぶん頼りにされてるな、リーダー」

 

 リカルドは肩をすくめた。

 「光と風は俺の得意分野じゃないが……まあ、やってみるさ」

 

 マールはそっと手を組み、祈りの芯を整えるように目を閉じた。

 エルダは仮面の奥で、静かに息を吐いた。

 

 月光の夜が、すぐそこまで来ていた。

 そして、誰もがまだ知らない“揺らがない光”が、

 この夜の深みに灯されようとしていた。

 





 仮面の奥に灯る光は、まだ揺れている。
 それでも、誰かの祈りに触れたとき――
 その光は、夜を裂く刃となる。
 月が昇る。
 封陣が、静かに息をし始める。
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