銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

44 / 45

 夜の帳が、城塞都市ヴェルム・アルジェンタムを静かに包み込んでいた。
 月は高く、雲は薄く、風は穏やか。
 街の灯が遠ざかるにつれ、霧の森の気配が濃くなる。



第四十四話 赫蒼ノ奈落、痛みの代償

 

 食堂の隅で、四人は静かに装備を整えていた。

 リカルドは地図を巻き、ゴードンは盾の縁を磨き、マールは祈りの言葉を胸に刻む。

 エルダは仮面の奥で魔力の流れを整えながら、窓の外に目を向けた。

 

 「月光、安定しています。今なら誘導陣が展開できます」

 

 リカルドが頷く。

 「よし、出よう。霧が深くなる前に」

 

 誰も冗談を言わなかった。

 それは、命を賭ける夜にふさわしい沈黙だった。

 

---

 

 森の入り口に立ったとき、エルダは足を止めた。

 仮面の奥で目を閉じ、指先を空に向ける。

 

 「……魔力の揺らぎがあります。三体。百五十メートル先。月光の届く範囲に潜んでいます」

 

 リカルドが空を見上げる。

 「雲の流れは西。三十分は持つだろう」

 

 「その間に終わらせます」

 エルダは地面に膝をつき、指先で魔術式を描き始めた。

 

 月光の粒子を拾い、霧の流れを読み、空気の振動を編み込む。

 その動きは、まるで音楽の譜面をなぞるようだった。

 

 「マールさん、祈りの灯を中心に。揺らがない光で、咆哮を沈めてください」

 

 マールは静かに頷き、祈りを始める。

 その声は風に溶け、霧の中に淡い光を灯す。

 

 ゴードンは陣の外縁に立ち、盾を構えた。

 リカルドはその背後、マールとの間に立ち、剣を抜いた。

 もしゴードンが突破されても、マールを守れるように。

 

---

 

 霧が揺れた。

 足音が、空気の奥で跳ねる。

 

 「…一体目、接近。咆哮に備えて」

 

 咆哮が響いた瞬間、エルダは指を振る。

 空間が震え、音の輪郭が歪む。

 音響魔術――霧の反響を狂わせ、咆哮の波を乱す。

 

 魔物の動きが一瞬止まり、ゴードンの盾が衝撃を受け止める。

 エルダは剣に光を纏わせ、霧を裂いた。

 光の刃が魔物の胸を裂き、咆哮が霧に溶ける。

 

 「一体目、討伐完了」

 

---

 

 二体目が現れる。

 マールの祈りが再び灯り、空気が静かに震える。

 

 エルダは足元に力を込め、魔力を筋肉へ流す。

 肉体強化――身体が軽くなり、視界が広がる。

 

 霧の中、魔物の気配が跳ねる。

 エルダは一閃。

 光の刃が魔物の肩を裂き、ゴードンが盾で追撃を封じる。

 

 「二体目、処理完了。残り一体」

 

 ゴードンが肩をすくめて笑った。

 「なんだ、案外楽勝じゃねえか」

 

 リカルドがすぐに声を飛ばす。

 「気を抜くな。最後まで同じ手で来るとは限らない」

 

 エルダは仮面の奥で目を細めた。

 魔力の揺らぎが、わずかに変化している。

 

 「……三体目、動きが速い。月光が揺れてます。雲が近い」

 

 リカルドが空を見上げた。

 「月が隠れるぞ。雲が厚い」

 

 エルダは即座に声を上げた。

 「全員、下がってください。誘導陣が崩れます」

 

---

 

 だが、ゴードンは踏みとどまった。

 「……見えないな……しかしいるな」

 

 気配だけを頼りに盾を構え、咆哮を防ぐ。

 リカルドはマールの前に立ち、剣を構えた。

 その背に、マールは下がる。

 

 月が再び顔を出す。

 その瞬間、エルダは気配を捉えた。

 

 魔力が筋肉に流れ、身体が軽くなる。

 剣に光が走り、霧を裂く。

 一太刀。

 「…浅い!」

 魔物の肩を裂くが、致命には至らず、シャドウウルフは霧の奥へ逃げた。

 

 逃げた先――そこに、マールがいた。

 

 「危ないっ!」

 エルダは加速した。

 風のように駆け、シャドウウルフを追い抜き、瞬時にマールを抱きかかえシャドウウルフの攻撃から逃れようとした。

 

 その瞬間――リカルドが横から飛び出した。

 マールを庇うように、エルダの動きと重なるように。

 

 「下がれ!」

 

 咆哮と爪が、彼の腹を裂いた。

 血が霧に溶け、リカルドはその場に崩れ落ちる。

 

---

 

 エルダはマールを抱えたまま、魔力を収束させる。

 光の刃が霧の奥で断末の声を上げる。

 三体目のシャドウウルフが、静かに地に伏した。

 

 討伐完了。

 だが、代償は大きかった。

 

 「リカルド!!」

 

 マールは駆け寄った。

 

 「うそ……そんな、うそ……!」

 

 彼の胸元に手を添える。温もりはまだある。けれど、呼吸が浅い。

 腹部の傷は深く、血が止まらない。

 

 「お願い……癒えて……癒えて……!」

 

 治癒魔術が光を帯びて彼の身体を包む。

 だが、魔力は痛みを和らげるだけ。

 傷は塞がらない。血は止まらない。

 

 「どうして……どうして止まらないの……!」

 

 マールの声が震え、祈りの言葉が乱れる。

 灯が揺れ、空気がざわめく。

 

 「リカルド……目を開けて……! ねえ、返事してよ……!」

 

 彼女の手がリカルドの頬に触れる。

 その肌は冷たくなり始めていた。

 

 「いや……いやだ……!」

 

 涙が頬を伝い、魔力が乱れ、祈りが崩れそうになる。

 それでも、彼女は祈り続けた。

 これほどの傷は癒せないと知りながら――それでも、祈りを止めることはできなかった。

 

 マールの祈りは、もう届かない。

 治癒魔術の光は、ただ痛みを和らげるだけ。

 血は止まらず、リカルドの顔色は青ざめていく。

 

 「お願い……お願い……目を開けて……!」

 

 マールの声が震え、光が揺れ、魔力が乱れる。

 その隣でゴードンが叫んだ。

 

 「目を開けろ! リーダーだろうが! ……おい、リカルド!」

 

 空気が張り詰める。

 誰もが、祈りの限界を知っていた。

 

 そのとき、エルダが一歩前に出た。

 仮面の奥で、静かに息を吐く。

 

 「これは……他言無用です。誰にも言わないでください」

 

 彼女は仮面を外した。

 右目の虹色の瞳が、月光を受けて淡く輝く。

 マールとゴードンは息を呑む。

 だが、さらに――左目の眼帯が外される。

 

---

 

 赫蒼ノ奈落。

 ヴァニタス神の呪い。

 見た者の痛みを引き受け、癒す力。

 

 エルダの左目が開かれた瞬間、赫蒼の光が、静かにリカルドを包んでいた。

 皮膚が再び繋がり、呼吸が安定し、顔色が戻っていく。

 マールはその奇跡に目を見張る。

 

 ゴードンは、ふと視線を横に向ける。

 エルダの顔には汗が滲み、肩は震えていた。

 そして――衣服の腹部が、じわりと赤く染まり始めている。

 

 「……エルダ?」

 

 彼が声をかけた瞬間、エルダの膝が崩れた。

 静かに、音もなく、地に倒れ込む。

 

 「エルダ!」

 マールが駆け寄り、慌てて身体を支える。

 その手に、確かな熱と震えが伝わる。

 

 「どうして……?」

 

 マールは迷いなく、エルダの衣服をめくった。

 そこには、リカルドとまったく同じ位置に、同じ形の傷が刻まれていた。

 血が滲み、皮膚が裂け、痛みがそこに宿っている。

 

 「そんな……そんなことって……!」

 

 彼女の瞳が揺れる。

 治癒魔術をかけながら、エルダの顔を見つめる。

 

 「あなた……もしかしてリカルドの痛みを……引き受けたの?」

 

 エルダは微笑んだ。

 その笑みは、痛みを超えた静けさに満ちていた。

 

 「大丈夫。もうすぐ…治ります」

 

 その言葉通り、傷はゆっくりと塞がっていく。

 マールは息を呑み、ゴードンは言葉を失った。

 

---

 

 エルダは衣類を整え、眼帯を戻す。

 その動作は、まるで儀式のように静かだった。

 月光が彼女の肩に落ち、血の気配が霧に溶けていく。

 

 「このことは……誰にも言わないでください」

 彼女は、マールとゴードンに向き直った。

 声は穏やかだったが、言葉の奥に硬い決意があった。

 

 「私の左目は……呪いです。

  赫蒼ノ奈落の呪い――ヴァニタス神の残した、異端の力。

  見た者の痛みを、私が引き受け、癒す力です。

  それはただの癒しではなく、代償です。

  だから……黙っていてください。誰にも、絶対に」

 

 マールは目を見開いたまま、しばらく言葉を探していた。

 そして、そっとエルダの手を握った。

 

 「……うん。誰にも言わない。絶対に。

  これは、私たちだけの秘密にする。

  あなたが傷ついてまで守ってくれたこと……誰にも渡さない」

 

 ゴードンも、少し照れくさそうに頭を掻きながら言った。

 「俺も……言わねえよ。こんなもん、口に出す気にもならねえ。

  あんたが命懸けでやったことだ。俺たちが守る」

 

 エルダは、ほんの少しだけ微笑んだ。

 その笑みは、痛みを超えた静けさに満ちていた。

 

 「ありがとう……」

 

 

 誰にも言わない。

 それは、痛みを分かち合った者たちの静かな誓いだった。





 エルダは癒したのではない。引き受けたのだ。
 赫蒼ノ奈落――その呪いは、彼女の孤独であり、祈りの形でもある。

 マールとゴードンは、その代償を見た。
 だからこそ、語らないと決めた。
 それは秘密ではなく、絆だった。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。