夜の帳が、城塞都市ヴェルム・アルジェンタムを静かに包み込んでいた。
月は高く、雲は薄く、風は穏やか。
街の灯が遠ざかるにつれ、霧の森の気配が濃くなる。
食堂の隅で、四人は静かに装備を整えていた。
リカルドは地図を巻き、ゴードンは盾の縁を磨き、マールは祈りの言葉を胸に刻む。
エルダは仮面の奥で魔力の流れを整えながら、窓の外に目を向けた。
「月光、安定しています。今なら誘導陣が展開できます」
リカルドが頷く。
「よし、出よう。霧が深くなる前に」
誰も冗談を言わなかった。
それは、命を賭ける夜にふさわしい沈黙だった。
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森の入り口に立ったとき、エルダは足を止めた。
仮面の奥で目を閉じ、指先を空に向ける。
「……魔力の揺らぎがあります。三体。百五十メートル先。月光の届く範囲に潜んでいます」
リカルドが空を見上げる。
「雲の流れは西。三十分は持つだろう」
「その間に終わらせます」
エルダは地面に膝をつき、指先で魔術式を描き始めた。
月光の粒子を拾い、霧の流れを読み、空気の振動を編み込む。
その動きは、まるで音楽の譜面をなぞるようだった。
「マールさん、祈りの灯を中心に。揺らがない光で、咆哮を沈めてください」
マールは静かに頷き、祈りを始める。
その声は風に溶け、霧の中に淡い光を灯す。
ゴードンは陣の外縁に立ち、盾を構えた。
リカルドはその背後、マールとの間に立ち、剣を抜いた。
もしゴードンが突破されても、マールを守れるように。
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霧が揺れた。
足音が、空気の奥で跳ねる。
「…一体目、接近。咆哮に備えて」
咆哮が響いた瞬間、エルダは指を振る。
空間が震え、音の輪郭が歪む。
音響魔術――霧の反響を狂わせ、咆哮の波を乱す。
魔物の動きが一瞬止まり、ゴードンの盾が衝撃を受け止める。
エルダは剣に光を纏わせ、霧を裂いた。
光の刃が魔物の胸を裂き、咆哮が霧に溶ける。
「一体目、討伐完了」
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二体目が現れる。
マールの祈りが再び灯り、空気が静かに震える。
エルダは足元に力を込め、魔力を筋肉へ流す。
肉体強化――身体が軽くなり、視界が広がる。
霧の中、魔物の気配が跳ねる。
エルダは一閃。
光の刃が魔物の肩を裂き、ゴードンが盾で追撃を封じる。
「二体目、処理完了。残り一体」
ゴードンが肩をすくめて笑った。
「なんだ、案外楽勝じゃねえか」
リカルドがすぐに声を飛ばす。
「気を抜くな。最後まで同じ手で来るとは限らない」
エルダは仮面の奥で目を細めた。
魔力の揺らぎが、わずかに変化している。
「……三体目、動きが速い。月光が揺れてます。雲が近い」
リカルドが空を見上げた。
「月が隠れるぞ。雲が厚い」
エルダは即座に声を上げた。
「全員、下がってください。誘導陣が崩れます」
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だが、ゴードンは踏みとどまった。
「……見えないな……しかしいるな」
気配だけを頼りに盾を構え、咆哮を防ぐ。
リカルドはマールの前に立ち、剣を構えた。
その背に、マールは下がる。
月が再び顔を出す。
その瞬間、エルダは気配を捉えた。
魔力が筋肉に流れ、身体が軽くなる。
剣に光が走り、霧を裂く。
一太刀。
「…浅い!」
魔物の肩を裂くが、致命には至らず、シャドウウルフは霧の奥へ逃げた。
逃げた先――そこに、マールがいた。
「危ないっ!」
エルダは加速した。
風のように駆け、シャドウウルフを追い抜き、瞬時にマールを抱きかかえシャドウウルフの攻撃から逃れようとした。
その瞬間――リカルドが横から飛び出した。
マールを庇うように、エルダの動きと重なるように。
「下がれ!」
咆哮と爪が、彼の腹を裂いた。
血が霧に溶け、リカルドはその場に崩れ落ちる。
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エルダはマールを抱えたまま、魔力を収束させる。
光の刃が霧の奥で断末の声を上げる。
三体目のシャドウウルフが、静かに地に伏した。
討伐完了。
だが、代償は大きかった。
「リカルド!!」
マールは駆け寄った。
「うそ……そんな、うそ……!」
彼の胸元に手を添える。温もりはまだある。けれど、呼吸が浅い。
腹部の傷は深く、血が止まらない。
「お願い……癒えて……癒えて……!」
治癒魔術が光を帯びて彼の身体を包む。
だが、魔力は痛みを和らげるだけ。
傷は塞がらない。血は止まらない。
「どうして……どうして止まらないの……!」
マールの声が震え、祈りの言葉が乱れる。
灯が揺れ、空気がざわめく。
「リカルド……目を開けて……! ねえ、返事してよ……!」
彼女の手がリカルドの頬に触れる。
その肌は冷たくなり始めていた。
「いや……いやだ……!」
涙が頬を伝い、魔力が乱れ、祈りが崩れそうになる。
それでも、彼女は祈り続けた。
これほどの傷は癒せないと知りながら――それでも、祈りを止めることはできなかった。
マールの祈りは、もう届かない。
治癒魔術の光は、ただ痛みを和らげるだけ。
血は止まらず、リカルドの顔色は青ざめていく。
「お願い……お願い……目を開けて……!」
マールの声が震え、光が揺れ、魔力が乱れる。
その隣でゴードンが叫んだ。
「目を開けろ! リーダーだろうが! ……おい、リカルド!」
空気が張り詰める。
誰もが、祈りの限界を知っていた。
そのとき、エルダが一歩前に出た。
仮面の奥で、静かに息を吐く。
「これは……他言無用です。誰にも言わないでください」
彼女は仮面を外した。
右目の虹色の瞳が、月光を受けて淡く輝く。
マールとゴードンは息を呑む。
だが、さらに――左目の眼帯が外される。
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赫蒼ノ奈落。
ヴァニタス神の呪い。
見た者の痛みを引き受け、癒す力。
エルダの左目が開かれた瞬間、赫蒼の光が、静かにリカルドを包んでいた。
皮膚が再び繋がり、呼吸が安定し、顔色が戻っていく。
マールはその奇跡に目を見張る。
ゴードンは、ふと視線を横に向ける。
エルダの顔には汗が滲み、肩は震えていた。
そして――衣服の腹部が、じわりと赤く染まり始めている。
「……エルダ?」
彼が声をかけた瞬間、エルダの膝が崩れた。
静かに、音もなく、地に倒れ込む。
「エルダ!」
マールが駆け寄り、慌てて身体を支える。
その手に、確かな熱と震えが伝わる。
「どうして……?」
マールは迷いなく、エルダの衣服をめくった。
そこには、リカルドとまったく同じ位置に、同じ形の傷が刻まれていた。
血が滲み、皮膚が裂け、痛みがそこに宿っている。
「そんな……そんなことって……!」
彼女の瞳が揺れる。
治癒魔術をかけながら、エルダの顔を見つめる。
「あなた……もしかしてリカルドの痛みを……引き受けたの?」
エルダは微笑んだ。
その笑みは、痛みを超えた静けさに満ちていた。
「大丈夫。もうすぐ…治ります」
その言葉通り、傷はゆっくりと塞がっていく。
マールは息を呑み、ゴードンは言葉を失った。
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エルダは衣類を整え、眼帯を戻す。
その動作は、まるで儀式のように静かだった。
月光が彼女の肩に落ち、血の気配が霧に溶けていく。
「このことは……誰にも言わないでください」
彼女は、マールとゴードンに向き直った。
声は穏やかだったが、言葉の奥に硬い決意があった。
「私の左目は……呪いです。
赫蒼ノ奈落の呪い――ヴァニタス神の残した、異端の力。
見た者の痛みを、私が引き受け、癒す力です。
それはただの癒しではなく、代償です。
だから……黙っていてください。誰にも、絶対に」
マールは目を見開いたまま、しばらく言葉を探していた。
そして、そっとエルダの手を握った。
「……うん。誰にも言わない。絶対に。
これは、私たちだけの秘密にする。
あなたが傷ついてまで守ってくれたこと……誰にも渡さない」
ゴードンも、少し照れくさそうに頭を掻きながら言った。
「俺も……言わねえよ。こんなもん、口に出す気にもならねえ。
あんたが命懸けでやったことだ。俺たちが守る」
エルダは、ほんの少しだけ微笑んだ。
その笑みは、痛みを超えた静けさに満ちていた。
「ありがとう……」
誰にも言わない。
それは、痛みを分かち合った者たちの静かな誓いだった。
エルダは癒したのではない。引き受けたのだ。
赫蒼ノ奈落――その呪いは、彼女の孤独であり、祈りの形でもある。
マールとゴードンは、その代償を見た。
だからこそ、語らないと決めた。
それは秘密ではなく、絆だった。