夜明け前の空は、まだ深い藍色を湛えていた。
屋敷の影は長く伸び、冷たい空気が肌を刺す。
吐く息は白く、静寂の中でゆっくりと溶けていく。
アデルは、他の誰よりも早く目を覚まし、外の井戸で冷水をすくって顔を洗っていた。
水は頬を打ち、眠気だけでなく、胸の奥に沈んだ霞までも洗い流していくようだった。
「おい、娘」
低く、しかし柔らかい声が背後から響いた。
振り返ると、門番のガインが立っていた。
屈強な体躯に似合わぬ優しい眼差しが、薄明の光を受けてわずかに和らいで見えた。
「今日は、俺について来い」
短い言葉に、アデルは小さく頷いた。
---
屋敷の裏手。
そこには、使い古された木製の剣、大きな木製の盾、砂袋が並ぶ小さな訓練場があった。
地面には無数の足跡と剣の跡が刻まれ、幾多の鍛錬を見届けてきた場所であることを物語っている。
ガインは道具の前に立ち、ひとつずつ説明を始めた。
彼の左目には、深くえぐられたような傷跡が走っていた。
それは、かつて王国騎士団に所属し、戦場で武功を立てた英雄が、同時に栄光と挫折を背負った証だった。
「男爵様の命令だ。有事の際、お前が“盾”となれるように訓練をつける」
淡々と告げられた言葉には、アデルをただの愛玩奴隷ではなく、必要とあらば使い潰す“道具”として扱う意図が滲んでいた。
だが、その眼差しの奥には別の色があった。
――この幼い少女が、自らの身を守る術を得ることを願う、静かな憐憫と決意。
---
ガインは木製の剣を手渡した。
9歳の少女には重すぎるそれを、アデルは必死に持ち上げる。
小さな手が柄を握り、細い腕が震える。
だが、その立ち姿は不思議と安定していた。
ガインはすぐに気づく。
――この少女には、力ではなく、姿勢とバランス感覚に宿る天性の才がある。
「いいか、力だけが剣術じゃない。相手の動きを読んで、流すんだ」
剣術の基礎が始まった。
力任せに振るうのではなく、相手の力を利用して受け流し、小さな動きで均衡を崩す技。
アデルは一度教わっただけで、その動きを理解し、驚くべき速さで吸収していった。
続いて格闘術。
関節を極める方法、体勢を崩して倒す方法――そして何より、
「絶対に諦めない心」を叩き込まれた。
「弱さを見せるな。戦う時は奴隷じゃない。闘士だ」
その言葉は、アデルの胸に深く刻まれた。
試練を乗り越えるたび、瞳の奥に宿る煌虹色は、より強く、より鋭く輝きを増していく。
ガインは、アデルの底知れぬ才能に気づき、自分の持てる技術のすべてを教えたいと願うようになった。
「…アデルといったな。このまま研鑽を積めば、美しく強い盾となるだろう」
それは戦士としての称賛であり、彼女の未来への祈りでもあった。
二人は、毎朝夜明けに訓練を行う約束を交わした。
その約束は、アデルにとって初めて自分の意思で掴んだ“未来”の一片だった。
訓練を終え、アデルは奴隷小屋に戻った。
身体は疲れ果てていたが、胸の奥には温かな充足感があった。
――自分は少しずつ、変わっていける。
しかし、その夜。
扉が軋み、ミレナが現れた。
その表情は、言葉にせずとも全てを物語っていた。
「…男爵様がお呼びよ」
アデルは小さく息を呑み、震える足で立ち上がった。
廊下を進むたび、朝に得た温もりは冷たく凍りついていく。
その夜も、屋敷には男爵の笑い声と、
硝子のように脆く、しかし鋭く響くアデルの悲鳴が、
闇の中に長く、長くこだました。
ガイン・フェンリス