銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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第七話 書庫の静寂と、夜の闇

 夜明け前、ガインとの鍛錬を終えたアデルは、軽く汗を拭いながら奴隷小屋へ戻った。

 身体は心地よい疲労に包まれていたが、筋肉が悲鳴を上げるほどではない。

 ガインが仕事に差し支えぬよう加減してくれているのだと、アデルは薄々感じていた。

 ――自分のために強くなる。

 その小さな希望が、彼女を支えていた。

 

 身支度を整え、今日の仕事の指示を待っていると、扉が開き、家令ドード・エルネストが姿を現した。

 「今日は、儂について来い」

 低く響く声に、アデルは無言で頷いた。

 

 屋敷の奥、重い扉が軋む音とともに開かれる。

 その先に広がるのは、薄暗く、ひんやりとした空間。

 天井まで届く本棚が壁一面を覆い、革張りの背表紙が整然と並んでいる。

 古紙と革の匂いが混ざり合い、空気はわずかに乾いていた。

 窓から差し込む光は細く、埃の粒がその中でゆっくりと舞っている。

 

 「ここが、屋敷の書庫だ」

 ドードの声は低く、響きが硬い。

 彼は背筋を伸ばし、まるでこの空間そのものが自分の領土であるかのように歩く。

 アデルはその背中を追いながら、本棚の隙間から覗く無数の背表紙に目を奪われていた。

 

 「男爵様の命令だ。帳簿の整理を手伝え」

 机の上に置かれた分厚い帳簿は、革の表紙が擦り切れ、角は丸くなっている。

 その重みは、ただの紙束ではなく、この屋敷の年月と金の流れを丸ごと抱えているようだった。

 

 ドードはふとアデルを見やり、

 「アデルと言ったな。お前は文字が読めるのか?」と問う。

 アデルは一瞬ためらい、静かに頷いた。

 その仕草に、ドードの目がわずかに細められる。

 

 「ほう…そうか」

 短く返す声の奥に、微かな驚きと興味が混じっていた。

 

 アデルは村にいた頃、文字を扱えた神父から、夜の礼拝後にこっそり読み書きを教わっていた。

 その記憶が、今、埃の匂いとともに蘇る。

 

 ドードは帳簿を開き、

 「数字の並びには規則がある。ここは支出、ここは収入だ。分類を間違えるな」

 と説明を始めた。

 アデルは耳を傾け、指先で紙の感触を確かめながら、一度聞いただけで作業を理解していく。

 

 やがて、ドードの手が止まった。

 彼はアデルをじっと見つめ、低く言った。

 「いいか、これは誰にも言うな。……特にあの男爵には」

 声は低く、しかし確固たる意志を帯びていた。

 「知識は、お前を守る盾になる。剣術とは違う、もう一つの盾だ」

 

 その瞬間、アデルは理解した。

 この男は、ただの家令ではない。

 彼は、知識という武器を密かに授けようとしている。

 

 それからの時間、ドードは古文書の読み方、古代文字の解読、複雑な計算方法を教えた。

 アデルは渇いた大地が雨を吸い込むように、その全てを吸収していった。

 

 「数字は嘘をつかない。だが、人は数字を使って嘘をつく。それを見抜けるようになれ」

 その言葉は、鋼の針のようにアデルの胸に刺さった。

 

 作業の合間、アデルはふと本棚の一角に目をやった。

 そこには、革表紙に金の箔押しが施された古い本があった。

 ドードはその視線に気づき、

 「それはまだ早い」

 とだけ言って、そっと棚の奥へ押し戻した。

 

 そのやり取りの中で、アデルは初めて、この屋敷の中に“学び”という密やかな道があることを知った。

 

 

 その日の夕食時、アデルが厨房の隅で粗末な食事をとっていると、ドードが静かに近づき、隣に腰を下ろした。

 無言で自分の皿からパンを分け与え、

 「話の続きをしよう」

 と短く告げる。

 その声音は、昼間の書庫でのやり取りの延長線上にあった。

 

 アデルは驚きながらも、差し出されたパンを両手で受け取り、小さく「ありがとうございます」と呟いた。

 その様子を、厨房の奥でグランが横目で見て、ニヤリと笑った。

 

 それは、ドードなりの敬意であり、彼女を弟子として認めた証だった。

 アデルは、ガイン、グラン、ドード――身分の垣根を越えて自分を助けてくれる人々の存在に、心からの感謝を覚えた。

 彼らが与えてくれる優しさと、教えてくれる技術や知識が、彼女の心に小さな光を灯し始めていた。

 

 

 ――だが、その夜。

 奴隷小屋の扉が軋み、ミレナが現れた。

 「…アデル…男爵様がお呼びよ」

 

 その言葉に、昼間の温もりは一瞬で凍りつく。

 廊下を進む足取りは重く、扉の向こうからは、やがて男爵の笑い声と、

 硝子のように脆くも鋭いアデルの悲鳴が、屋敷中に長く響き渡った。

 

 

【挿絵表示】

 

ドード・エルネスト

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