夜明け前、ガインとの鍛錬を終えたアデルは、軽く汗を拭いながら奴隷小屋へ戻った。
身体は心地よい疲労に包まれていたが、筋肉が悲鳴を上げるほどではない。
ガインが仕事に差し支えぬよう加減してくれているのだと、アデルは薄々感じていた。
――自分のために強くなる。
その小さな希望が、彼女を支えていた。
身支度を整え、今日の仕事の指示を待っていると、扉が開き、家令ドード・エルネストが姿を現した。
「今日は、儂について来い」
低く響く声に、アデルは無言で頷いた。
屋敷の奥、重い扉が軋む音とともに開かれる。
その先に広がるのは、薄暗く、ひんやりとした空間。
天井まで届く本棚が壁一面を覆い、革張りの背表紙が整然と並んでいる。
古紙と革の匂いが混ざり合い、空気はわずかに乾いていた。
窓から差し込む光は細く、埃の粒がその中でゆっくりと舞っている。
「ここが、屋敷の書庫だ」
ドードの声は低く、響きが硬い。
彼は背筋を伸ばし、まるでこの空間そのものが自分の領土であるかのように歩く。
アデルはその背中を追いながら、本棚の隙間から覗く無数の背表紙に目を奪われていた。
「男爵様の命令だ。帳簿の整理を手伝え」
机の上に置かれた分厚い帳簿は、革の表紙が擦り切れ、角は丸くなっている。
その重みは、ただの紙束ではなく、この屋敷の年月と金の流れを丸ごと抱えているようだった。
ドードはふとアデルを見やり、
「アデルと言ったな。お前は文字が読めるのか?」と問う。
アデルは一瞬ためらい、静かに頷いた。
その仕草に、ドードの目がわずかに細められる。
「ほう…そうか」
短く返す声の奥に、微かな驚きと興味が混じっていた。
アデルは村にいた頃、文字を扱えた神父から、夜の礼拝後にこっそり読み書きを教わっていた。
その記憶が、今、埃の匂いとともに蘇る。
ドードは帳簿を開き、
「数字の並びには規則がある。ここは支出、ここは収入だ。分類を間違えるな」
と説明を始めた。
アデルは耳を傾け、指先で紙の感触を確かめながら、一度聞いただけで作業を理解していく。
やがて、ドードの手が止まった。
彼はアデルをじっと見つめ、低く言った。
「いいか、これは誰にも言うな。……特にあの男爵には」
声は低く、しかし確固たる意志を帯びていた。
「知識は、お前を守る盾になる。剣術とは違う、もう一つの盾だ」
その瞬間、アデルは理解した。
この男は、ただの家令ではない。
彼は、知識という武器を密かに授けようとしている。
それからの時間、ドードは古文書の読み方、古代文字の解読、複雑な計算方法を教えた。
アデルは渇いた大地が雨を吸い込むように、その全てを吸収していった。
「数字は嘘をつかない。だが、人は数字を使って嘘をつく。それを見抜けるようになれ」
その言葉は、鋼の針のようにアデルの胸に刺さった。
作業の合間、アデルはふと本棚の一角に目をやった。
そこには、革表紙に金の箔押しが施された古い本があった。
ドードはその視線に気づき、
「それはまだ早い」
とだけ言って、そっと棚の奥へ押し戻した。
そのやり取りの中で、アデルは初めて、この屋敷の中に“学び”という密やかな道があることを知った。
その日の夕食時、アデルが厨房の隅で粗末な食事をとっていると、ドードが静かに近づき、隣に腰を下ろした。
無言で自分の皿からパンを分け与え、
「話の続きをしよう」
と短く告げる。
その声音は、昼間の書庫でのやり取りの延長線上にあった。
アデルは驚きながらも、差し出されたパンを両手で受け取り、小さく「ありがとうございます」と呟いた。
その様子を、厨房の奥でグランが横目で見て、ニヤリと笑った。
それは、ドードなりの敬意であり、彼女を弟子として認めた証だった。
アデルは、ガイン、グラン、ドード――身分の垣根を越えて自分を助けてくれる人々の存在に、心からの感謝を覚えた。
彼らが与えてくれる優しさと、教えてくれる技術や知識が、彼女の心に小さな光を灯し始めていた。
――だが、その夜。
奴隷小屋の扉が軋み、ミレナが現れた。
「…アデル…男爵様がお呼びよ」
その言葉に、昼間の温もりは一瞬で凍りつく。
廊下を進む足取りは重く、扉の向こうからは、やがて男爵の笑い声と、
硝子のように脆くも鋭いアデルの悲鳴が、屋敷中に長く響き渡った。
ドード・エルネスト