朝の空気は冷たく澄み、吐く息が白く溶けていく。
ガインとの鍛錬を終えたアデルは、額に滲む汗を手拭いで押さえながら奴隷小屋へ戻った。
身体は重く、筋肉はじんわりと疲れていたが、仕事に差し支えるほどではない。
その奥底には、確かな充足感があった。
身支度を整え、仕事の指示を待っていると、扉の向こうから澄んだ声がした。
「……アデル、今日は私について来てくれる?」
振り向けば、そこに立っていたのは門番であり、警備の弓の名手、ミカ・ルーウェン。
金色の髪を後ろで束ね、穏やかながらも芯のある瞳でアデルを見つめている。
その眼差しには、言葉以上の温かさと敬意が宿っていた。
ミカに連れられ、屋敷の裏手にある小さな林へと向かう。
木々の間には練習用の的がいくつも立ち、朝露を含んだ土の匂いが漂っていた。
ミカは手際よく弓の弦を張り、アデルに微笑みかける。
「まずは握り方と立ち方からね。焦らなくていいわ」
彼女の指導は、研ぎ澄まされた刃のように正確でありながら、声色は柔らかい。
一つひとつの動作を見せるたび、アデルが理解できるまで根気よく繰り返してくれる。
ミカが放つ矢は、風を切る音とともに真っ直ぐ的の中心へ吸い込まれていく。
その美しい一連の動きに、アデルは息を呑んだ。
「的を射るんじゃなくてね……矢はあなたの意志そのもの。心を込めて放すの」
アデルは小さな体で必死に弓を引く。
初めて放った矢は大きく的を外れ、林の奥へと消えたが、ミカは優しく頷いた。
「うん、悪くないわ。最初はそんなものよ」
次の矢を番えようとしたとき、林の奥から低い唸り声が響いた。
空気がわずかにざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。
ミカの表情が引き締まる。
「アデル、私の後ろに」
木々の間から現れたのは、熊のような巨体を持つ魔物だった。
毛並みは黒く、目は血のように赤く光り、口元からは白い息と共に低い唸りが漏れる。
その皮膚の下では、黒い靄のようなもの――魔素が渦を巻いていた。
「魔物はね、生き物の持つ“魔素”を糧にして生きてるの。人間は獣より魔素が多いから、狙われやすいのよ」
ミカの声は落ち着いていたが、その手はすでに弓を構えている。
魔物は地を蹴り、巨体に似合わぬ速さで迫ってくる。
ミカは静かに息を整え、矢羽が頬に触れるまで引き絞った。
「……はっ!」
放たれた矢は風を裂き、魔物の片目を正確に射抜く。
苦悶の咆哮を上げた魔物に、間髪入れず二の矢が放たれ、心臓を貫いた。
巨体は揺らぎ、黒い靄となって霧散する。
地面には、小さな紫色の結晶――魔石だけが残った。
ミカはそれを拾い上げ、アデルに見せる。
「これが魔石。魔道具や装飾品、魔術の媒体にもなる貴重なもの。でも……命あっての話よ」
アデルは小さく頷き、その光を目に焼き付けた。
魔物の気配が消えた後、ミカは再び訓練を再開した。
「弓は力じゃなく、体の軸で引くの。呼吸と一緒にね」
さらに林を歩きながら、ミカは野草やきのこの見分け方、水の探し方、簡易な罠の作り方を教えた。
「この葉は煎じれば熱を下げる。…この赤い実は甘いけど、似た黒い実は毒よ」
アデルは真剣に耳を傾け、形や匂い、色を一つひとつ記憶していく。
その姿を見て、ミカは小さく微笑んだ。
「覚えるのが早いわね……なら、もっと教えてあげる」
その日の夕食時。
アデルが厨房の隅で粗末な食事をとっていると、ミカが音もなく近づき、自分の皿から肉を一切れ置いた。
アデルが驚いて顔を上げると、ミカは柔らかく微笑み、
「食べなさい」
とだけ言って席へ戻った。
その短い言葉の裏には、アデルを弟子として認めた証と、静かな愛情があった。
アデルは、グラン、ガイン、ドード、そしてミカ――
身分の垣根を越えて自分を助けてくれる人々の存在に、心からの感謝を覚えた。
その夜は、運良くバルド男爵からの呼び出しはなかった。
アデルは胸の奥から安堵の息を吐き、奴隷小屋に戻る。
中では、リリィが毛布を膝にかけて待っていた。
「アデルちゃん、おかえり!今日はどうだった?」
その問いかけに、アデルは自然と笑みを浮かべ、今日あったこと――ミカとの弓の訓練や、森で熊のような魔物と遭遇したことを話し始めた。
「えっ……魔物!?」
リリィは目を丸くし、肩をすくめる。
「そんなの、私には絶対できない! でも……すごいよ、アデルちゃん」
怖がりながらも、心からの感心が声に滲んでいた。
ふたりはそのまま、訓練での失敗談や、ミカが教えてくれた草木の話で笑い合った。
時々、笑い声が大きくなりすぎて、カイラに「静かにしなさい」と注意される。
その横で、ノームは鼻で笑いながらも、どこか楽しそうに耳を傾けていた。
やがて、笑い疲れたふたりは毛布を分け合い、肩を寄せて横になる。
外では風が木々を揺らし、その音がまるで子守唄のように耳に届く。
――今日教わった弓の技術も、草木の名前も、絶対に忘れない。
その小さな決意を胸に、アデルは静かに目を閉じた。
ミカ・ルーウェン