銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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第八話 林の息吹と、無言の贈り物

 朝の空気は冷たく澄み、吐く息が白く溶けていく。

 ガインとの鍛錬を終えたアデルは、額に滲む汗を手拭いで押さえながら奴隷小屋へ戻った。

 身体は重く、筋肉はじんわりと疲れていたが、仕事に差し支えるほどではない。

 その奥底には、確かな充足感があった。

 

 身支度を整え、仕事の指示を待っていると、扉の向こうから澄んだ声がした。

 

 「……アデル、今日は私について来てくれる?」

 

 振り向けば、そこに立っていたのは門番であり、警備の弓の名手、ミカ・ルーウェン。

 金色の髪を後ろで束ね、穏やかながらも芯のある瞳でアデルを見つめている。

 その眼差しには、言葉以上の温かさと敬意が宿っていた。

 

 ミカに連れられ、屋敷の裏手にある小さな林へと向かう。

 木々の間には練習用の的がいくつも立ち、朝露を含んだ土の匂いが漂っていた。

 ミカは手際よく弓の弦を張り、アデルに微笑みかける。

 

 「まずは握り方と立ち方からね。焦らなくていいわ」

 

 彼女の指導は、研ぎ澄まされた刃のように正確でありながら、声色は柔らかい。

 一つひとつの動作を見せるたび、アデルが理解できるまで根気よく繰り返してくれる。

 

 ミカが放つ矢は、風を切る音とともに真っ直ぐ的の中心へ吸い込まれていく。

 その美しい一連の動きに、アデルは息を呑んだ。

 

 「的を射るんじゃなくてね……矢はあなたの意志そのもの。心を込めて放すの」

 

 アデルは小さな体で必死に弓を引く。

 初めて放った矢は大きく的を外れ、林の奥へと消えたが、ミカは優しく頷いた。

 

 「うん、悪くないわ。最初はそんなものよ」

 

 次の矢を番えようとしたとき、林の奥から低い唸り声が響いた。

 空気がわずかにざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。

 ミカの表情が引き締まる。

 

 「アデル、私の後ろに」

 

 木々の間から現れたのは、熊のような巨体を持つ魔物だった。

 毛並みは黒く、目は血のように赤く光り、口元からは白い息と共に低い唸りが漏れる。

 その皮膚の下では、黒い靄のようなもの――魔素が渦を巻いていた。

 

 「魔物はね、生き物の持つ“魔素”を糧にして生きてるの。人間は獣より魔素が多いから、狙われやすいのよ」

 ミカの声は落ち着いていたが、その手はすでに弓を構えている。

 

 魔物は地を蹴り、巨体に似合わぬ速さで迫ってくる。

 ミカは静かに息を整え、矢羽が頬に触れるまで引き絞った。

 

 「……はっ!」

 

 放たれた矢は風を裂き、魔物の片目を正確に射抜く。

 苦悶の咆哮を上げた魔物に、間髪入れず二の矢が放たれ、心臓を貫いた。

 

 巨体は揺らぎ、黒い靄となって霧散する。

 地面には、小さな紫色の結晶――魔石だけが残った。

 

 ミカはそれを拾い上げ、アデルに見せる。

 「これが魔石。魔道具や装飾品、魔術の媒体にもなる貴重なもの。でも……命あっての話よ」

 

 アデルは小さく頷き、その光を目に焼き付けた。

 

 魔物の気配が消えた後、ミカは再び訓練を再開した。

 「弓は力じゃなく、体の軸で引くの。呼吸と一緒にね」

 

 さらに林を歩きながら、ミカは野草やきのこの見分け方、水の探し方、簡易な罠の作り方を教えた。

 「この葉は煎じれば熱を下げる。…この赤い実は甘いけど、似た黒い実は毒よ」

 

 アデルは真剣に耳を傾け、形や匂い、色を一つひとつ記憶していく。

 その姿を見て、ミカは小さく微笑んだ。

 

 「覚えるのが早いわね……なら、もっと教えてあげる」

 

 その日の夕食時。

 アデルが厨房の隅で粗末な食事をとっていると、ミカが音もなく近づき、自分の皿から肉を一切れ置いた。

 

 アデルが驚いて顔を上げると、ミカは柔らかく微笑み、

 「食べなさい」

 とだけ言って席へ戻った。

 

 その短い言葉の裏には、アデルを弟子として認めた証と、静かな愛情があった。

 

 アデルは、グラン、ガイン、ドード、そしてミカ――

 身分の垣根を越えて自分を助けてくれる人々の存在に、心からの感謝を覚えた。

 

 その夜は、運良くバルド男爵からの呼び出しはなかった。

 アデルは胸の奥から安堵の息を吐き、奴隷小屋に戻る。

 

 中では、リリィが毛布を膝にかけて待っていた。

 「アデルちゃん、おかえり!今日はどうだった?」

 その問いかけに、アデルは自然と笑みを浮かべ、今日あったこと――ミカとの弓の訓練や、森で熊のような魔物と遭遇したことを話し始めた。

 

 「えっ……魔物!?」

 リリィは目を丸くし、肩をすくめる。

 「そんなの、私には絶対できない! でも……すごいよ、アデルちゃん」

 怖がりながらも、心からの感心が声に滲んでいた。

 

 ふたりはそのまま、訓練での失敗談や、ミカが教えてくれた草木の話で笑い合った。

 時々、笑い声が大きくなりすぎて、カイラに「静かにしなさい」と注意される。

 その横で、ノームは鼻で笑いながらも、どこか楽しそうに耳を傾けていた。

 

 やがて、笑い疲れたふたりは毛布を分け合い、肩を寄せて横になる。

 外では風が木々を揺らし、その音がまるで子守唄のように耳に届く。

 

 ――今日教わった弓の技術も、草木の名前も、絶対に忘れない。

 

 その小さな決意を胸に、アデルは静かに目を閉じた。

 

 

【挿絵表示】

 

ミカ・ルーウェン

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