厳しい訓練と労働の日々が続く中、アデルは今日も夜明けと共に奴隷小屋を出た。
ガインとの剣と体術の鍛錬を終え、額に滲む汗を拭いながら、次の指示を待つ。
その時、低く短い声が背後から響いた。
「……ついて来な」
振り返ると、そこには馬丁のロルフ・カーディアが立っていた。
無口で、言葉よりも馬と心を通わせることを好む男。
深い森のように静かな瞳は、何を考えているのか読み取りづらいが、そこに偽りはなかった。
案内された馬小屋には、数頭の立派な馬が並んでいた。
干し草の香りと、馬の温かな吐息が混ざり合い、外の冷たい空気とは別世界のようだった。
馬たちは穏やかな目でアデルを見つめ、その清潔な毛並みと落ち着いた様子から、ロルフがどれほど彼らを大切にしているかが伝わってくる。
「男爵様の命令だ。お前にも馬の世話と、乗り方を教えろとさ」
淡々と告げる声に、アデルはすぐに理解した。
これは、いざという時に男爵の役に立つための能力――だが同時に、それは新しい学びの機会でもあった。
ロルフはまず、馬の世話から教え始めた。
ブラシのかけ方、餌の与え方、体調の見極め方。
言葉は少ないが、その手つきは驚くほど優しく、馬への深い愛情が滲んでいた。
アデルはその動きを一つも見逃さぬよう観察し、正確に真似をした。
「馬は嘘をつかない。お前の心は、馬に筒抜けだ」
ロルフは馬の首筋を撫でながら静かに言った。
アデルはその言葉の意味を探るように、馬の大きな瞳を覗き込む。
そこには、恐れも疑いもなく、ただ真っ直ぐに自分を映す光があった。
やがて、元旅芸人の馬丁、ティム・ベルモントが現れた。
12歳の少年は、赤い髪を陽に輝かせ、まだあどけない笑顔を浮かべている。
「えっと、ティム・ベルモントです!
アデルさんのことは……その、前から知ってました!」
少し顔を赤らめながらの挨拶。
その視線は、アデルの煌虹色の瞳に吸い寄せられ、離れない。
彼は、アデルが奴隷として扱われていることを知っていたが、そんなことは関係なく、純粋な憧れを抱いていた。
アデルはその気持ちに気づかぬまま、丁寧に挨拶を返した。
ティムは、馬車の操縦方法を明るく教え始めた。
冗談を交えながらも、要点は外さない。
「馬車は急ぐと危ないんだ。馬と心を一つにして、ゆっくりと、ね」
アデルは真剣に耳を傾け、馬に優しく声をかけながら手綱を握った。
その声に応えるように、馬の耳がわずかに動き、表情が穏やかになる。
その様子を見たティムは目を輝かせた。
「すごい! アデルさん、馬と話せるみたいだ!」
アデルは少しだけ頬を染め、控えめに微笑んだ。
その日の夕食時。
アデルが厨房の隅で粗末な食事をとっていると、ロルフとティムが入ってきた。
二人はいつものようにテーブルへ向かおうとしたが、ロルフは立ち止まり、自分の皿からチーズとパンを取り、アデルの前に置いた。
驚いて見上げるアデルに、ロルフは短く言った。
「お前は、馬を怖がらない。いい馬乗りになれる」
ティムは何かを渡したそうに手を動かしたが、奴隷に使用人から食べ物を与えるのは禁じられている。
葛藤の末、彼は何も言わず、ただアデルに向けて小さく笑った。
その夜、男爵からの呼び出しはなかった。
アデルは毛布に身を包み、今日出会った馬たちの温かな瞳と、ロルフとティムの笑顔を思い出していた。
「今日はどうだったの?」
隣の寝床から、リリィが小声で尋ねる。
アデルは少し笑みを浮かべ、静かに答えた。
「……馬の世話を教わったの。毛がふわふわで、目が優しかった」
「へぇ……いいなぁ。私だったら近づく前に逃げちゃうかも」
リリィは肩をすくめて笑い、すぐに真顔になる。
「でも、アデルちゃんは平気なんだね。すごいよ」
アデルは首を横に振り、
「……ロルフさんが、ちゃんと見ててくれたから」
と、少し照れたように視線を落とした。
「こら、あんまり喋ってると明日眠くなるわよ」
カイラが毛布を引き寄せながら、半分呆れたように言う。
その声には叱る響きがあったが、目元はどこか柔らかい。
「……はい」
アデルは素直に返事をし、リリィと目を合わせて小さく笑った。
その時、向かいの寝床からノームがゆっくりと体を起こした。
無言のまま、足元に置いてあった自分の毛布を一枚引き寄せ、アデルの方へ放る。
「……冷える」
それだけ言って、また横になる。
アデルは驚きながらも、毛布を胸に抱きしめた。
「……ありがとう」
小さな声でそう告げると、ノームは背を向けたまま、ほんのわずかに肩を揺らした。
カイラはその様子を見て、何も言わずに目を閉じた。
だが、その口元には、母親が子を見守るような穏やかな笑みが浮かんでいた。
やがて、静かな呼吸の音が小屋に満ちていく。
――自分は、一人ではない。
その確信が、眠りへと落ちる彼女の心を、静かに、しかし確かに支えていた。
ロルフ・カーディア
ティム・ベルモント