なんでこんなことになったんだ。
この一時間足らずの間に、竈門炭治郎はその言葉を幾度胸中で叫んだろうか。
その日はいつもと変わらない一日だった。
前日は炭を売って、遅くなってしまったから三郎爺さんの家に泊めてもらって、家に帰ればいつも通り妹や弟たち、それに母親、家族が笑顔で出迎えてくれる。そんなこれまで何度も繰り返してきた日々。
無論変化は訪れる。祖母や父は既に亡く、母もいずれは年を取って亡くなり、妹はどこかに嫁入りして、弟たちはそれぞれ独り立ちしていくだろう。しかしそれは早くても数年は未来のことであり、楽ではないが平和な日々が続いていくと思っていたのに。
だがそれはまるで初冬の湖に張った氷のように、簡単にひび割れてしまうものだとあまりにも唐突に彼は思い知らされた。
家が見えてくる前から良く利く鼻をついてきた血の臭い。
寒さのせいではなく全身に鳥肌が立って、動悸がこれまでになく不規則で早くなるのが分かった。
雪に足を取られながらも全力疾走して、まず眼に入ったのは家の出口で倒れている。
家の中に充満した血の臭いは噎せ返るようで、四方の壁にぶちまけられて天井まで届き囲炉裏の火も消すほどの赤い色。
まるで地獄絵図であり、気の弱い者はこの光景を見ただけで失神していたかも知れない。
血の海の中に倒れている家族の姿。
誰の体からもぬくもりは失せていて、ぴくりとも動かない。
何が起こったのか。冬眠出来なかった穴持たずの熊でも出たというのだろうか?
だがそれにしては、家の柱や壁に爪の痕が見られないし、仮に熊が家に入ってきたのだとしたら家族の肉体は食い荒らされている筈だが、家族の遺体は全て傷付いてはいるものの体に歯形や欠損なども見られない。
じゃあ何が?
訳が分からないが……炭治郎はここではっと気付いた。
一人、足りない。
家の前に倒れていたのは六太。
家の中に居たのは、母と花子、竹雄、茂。
「禰豆子、禰豆子は……?」
逃げられたのか、たまたま家を留守にしていたのか。
とにかく探さなければ……
「グオオオオオオオッ!!」
そんな彼の思考は、裏から聞こえてきた絶叫によって中断させられた。
人の声と言うよりは、寧ろ獣の吠え声。
だが炭治郎には分かる。今のは妹の声だ。
斧を構えながら家の裏に出た彼の目に入ったのは、更に想像を超えた光景だった。
禰豆子は、居た。
着物や髪は乱れ体や顔は血塗れだが、とにかく生きている。それは炭治郎の望んでいた姿である筈なのに。
それ以上に彼の目を引き付けて離さなかったのは、もう一人の姿。
彼は禰豆子の両腕を後ろ手にして、それを片手で掴んで拘束していた。禰豆子は体を揺すったり足をばたつかせたりして逃れようとしているが、彼の力は強く、逃れる事は出来ないようだ。
如何に少女であるとは言え、禰豆子が力一杯に足掻いているのに彼の体はまるで空間に固定されたかのようにビクともしていない。
衣装はこの雪が降る寒さだと言うのに薄手の着物に袴、足は足袋に草鞋を履いている。腰には一振りの刀を差していてまるで昔話の侍のようだ。
この寒さなのに口元からは少しも白い息が出ていない。
左の額と右の首筋の辺りには、揺らめく炎のような痣がある。
そしてその貌には、どう見ても仮面や、あるいは歌舞伎の隈取りのような化粧とは思えない、六つの眼が全て、炭治郎を見据えていた。
空気が重くなるような感覚。確かにこれほどの事が起きたのだから衝撃を受けて気が重くなるのは当然だが……それ以上に空気を重くしているのは、この者の佇まい。威厳すら感じさせる重厚な様だった。彼はただ立っているだけなのに。
「お、お前……禰豆子を、放せえーーっ!!」
気が付いたら走っていた。
妹を拘束している六眼の侍に、炭治郎は絶叫しながら突進した。相手が刀を持っている事など思考の埒外に置いていた。
異形の侍は、抜刀するどころか空いている右手はぶらりと垂らしたままで抜こうとする動作すら見せない。
大上段に振りかぶった斧を唐竹割りのように振り下ろして、当たった!!
……そう、思ったのに手応えは無く。
「え? あれ? え?」
手が白くなるほどに握り締めていた斧はいつの間にか手中から失せていた。
「捜し物は…これか…?」
侍は、初めて口を開いた。
その手には、一瞬前まで炭治郎が握っていた斧がある。
「!!」
咄嗟に後退る炭治郎。少しもそんな動きは見えなかったのに、一体どうやったのか。
こいつが、家族を殺したのか?
最初にそう思ったが、すぐに頭の中でその可能性を否定する。
手や体、口に血が付いていない。それに、匂いが違う。家の中には嗅いだことのない匂いが残っていた。その匂いは、この侍の匂いとは違う。
「お前…この娘の肉親…兄か…?」
侍が尋ねる。
「そ、そうだ。妹、俺の、妹なんだ!!」
「兄妹…それは…不運…お前の妹は…鬼と…なった…」
そう言われて、炭治郎は妹に視線をやる。侍に拘束されて暴れている禰豆子は確かに人の姿をしているが…良く見ると瞳孔は縦に裂け、口には牙が覗いている。
鬼。
昨日の晩に、夜になると人食い鬼が出ると三郎爺さんが聞かせてくれた話が炭治郎の頭をよぎる。
禰豆子が人食い鬼?
「そんなバカな!! 禰豆子は生まれた時から人間だ!! 俺はずっと禰豆子を見てきて知ってる!!」
「簡単な…事だ…鬼の血が体に入り…鬼に…変えられた…人食い鬼は…そうして増える…」
では、家族は禰豆子が殺した?
しかしその可能性も脳内ですぐ却下する。これは感情ではなく論理的な帰結だ。禰豆子の手や口にも血が付いていないし、第一それでは嗅いだ事の無い匂いの持ち主が自分達の家に訪れた説明が付かない。
「と…とにかく禰豆子を放してくれ!!」
「それは…出来ぬ…私が拘束を解けば…この娘は…すぐにこの場の…最も新鮮な血肉に…食らい付くであろう…即ち…お前だ…」
「禰豆子は人を食ったりしない!!」
それを聞いた侍は、諦めたように首を振った。
「同じように…家族を…鬼にされ…同じ事を言って…食われた者を…私は今まで…山ほど…見てきた…」
「俺が誰も傷付けさせない!! きっと禰豆子を治して人間に戻す!! 必ずそうするから…!!」
「証明…できるか…?」
「…え?」
「お前は今…妹が…人を食わない…そう言った…その言葉を私が信用する…為には…それを証明…せねば…ならぬ…」
侍の言葉は道理である。
「どうすれば?」
「簡単な…事だ…今から…私は…この手を…放す…」
体が人間から鬼になる時にも相当な体力を消耗するので、今の禰豆子は重度の飢餓状態にあると侍は説明する。故に一刻も早く新鮮な血肉、つまり炭治郎を食らおうとするだろうと。妹が人を食わないというのであれば、命を懸けてそれを証明せよ。それが侍の言い分だった。
ごくりと、炭治郎は唾を呑む。
妹に食い殺されるかも知れぬなど、今朝までは太陽が西から出ようと起こらない杞憂であった筈なのに。
でも、それでもやらねばならない。
やるべきなのだ。
「禰豆子を…放してくれ」
侍は、その言葉が終わるか終わらないかという所で禰豆子の両腕を掴む手を放した。
拘束から解き放たれた禰豆子は、一目散に炭治郎へと駆け寄っていく。
この時、炭治郎からは禰豆子の体が死角になって見えていなかったが、侍は腰の刀の柄に手をやって腰だめに構えて、抜刀の姿勢を見せていた。もし、禰豆子が炭治郎に食い付くようであれば、その刹那に頸と胴を泣き別れにする。
恐らく、禰豆子は炭治郎を力任せに押し倒して、その首筋に齧り付こうとするだろう。
それを見れば、炭治郎も妹が人食い鬼と化してしまったと否応無く理解するだろう。そんな一種のショック療法、荒療治のつもりだったのだが…
信じられぬものを見た。
六つの眼が、見開かれるように動く。
両腕を広げ、炭治郎を庇うように立つ禰豆子の姿。
「…例外は…何事にもある…という…事か…」
侍は、刀の柄から手を放して棒立ちの姿勢になった。
同時に、周囲に立ちこめているようだった重苦しい空気が急激に失せていくような感覚を炭治郎は覚える。武術の心得など無い炭治郎だが、これは侍が戦闘態勢を解除した為であると理解出来た。同じ事を本能で理解したのであろうか、禰豆子も炭治郎を庇う動作を止めてその場に座り込んだ。
「先刻…お前は…妹を…治すと…言った…」
「は、はい。確かにそう言いました」
「ならば…我等の…目的は同じと…いうこと…私は…人を食った鬼を狩ると同時に…人をまだ食っていない鬼は…人に戻す為に…連れて行く…故に、少年…お前の妹を…私に…預けよ…」
その言葉は炭治郎にとって、地獄に垂らされた蜘蛛の糸、閉じ込められた暗い部屋に差し込んだ光のように思えた。
そうすべきなのかも知れない。
この侍は、自分などが及びも付かないほどに強いのはこれまでの出来事で理解出来た。禰豆子が人を食わずに、いつか人に戻れる日を待って、彼に預けるべきなのかも知れない。
でも、それでも。
妹の手が、小さくて、でもその爪は猛禽類のように鋭くなった鬼の手が、でも自分の手を握っている。
「ありがとうございます…でも、俺達は一緒に行きます。もう、離ればなれにはなりません」
「左様…か…」
侍はここで、何かに気付いたように視線をあらぬ方向に向けた。
「時を置かずここに…私とは違う…人間の鬼狩りが…来るであろう…その者に…同じ事を言って…納得させられるか…どうか…」
そう言って、二人に背を向けて去ろうとする侍。
炭治郎は呆然とその後ろ姿を追っていたが…ややあってはっとしたように、声を上げた。
「あの!!」
侍が足を止め、振り返る。
「何か、こう……とにかく、色々とありがとうございました!! お名前を教えてください!!」
「私は…何の価値も無い…何者でも…ない…つまらぬ…生き恥を晒し続ける…只の鬼…だが…敢えて呼びたい…なら…」
その言葉と共に、侍の姿は掻き消える。
「国士某(こくしぼう)…そう…呼ぶが…よい」