突然だが読者諸氏にはこうした経験はないだろうか?
いつもは夕食時はテレビで野球中継でも見ながら家族で談笑しつつ食事するのが常なのに、その日に限ってはテレビを付けずに家族は神妙な顔で黙りこくっている。
もしくは、同僚が上司と長い時間、会議室で話をしてきた後で自分達の前にやって来て「色々考えたのだが…」とか、そのような前置きで話を始めたりする。
いずれも往々にして何か重大な話、それも恐らくはあまり良くない話が始まる前兆である。
この日の、継国巌勝の妻もまさにそうした感覚を味わっていた。
継国邸にはこの日、珍しい客人があった。
妻は思わず、夫が大きな姿見でも買ってきたのだろうかと錯覚した。
夫が連れてきたその客人は、夫と同じ顔をしていたからだ。顔の痣まで瓜二つだった。
最初は驚いたがすぐに分かった。彼こそは夫や義父が昔話してくれた、双子の弟なのだと。
弟が家を出て、もう十年余りになるという。
先代継国家当主、つまり巌勝の父で彼女の義父はこの弟の事をいつも気に懸けていた。
彼は昔は自分の過ちで弟を冷たく扱ってしまった事を悔いており、時折届く手紙を楽しみにしているようだったが、ここ数年はそれも絶えてしまっていて、弟の身に何かあったのではないかという心労も祟ってか、体調を崩して床に伏しがちであった。
巌勝の話ではあるいは自分が結婚して、男子が産まれた事も手伝ってこれで継国家も安泰と思って。張り詰めていた気が抜けたのかも知れないという事だった。
初めて会う弟・継国縁壱は夫にも些かも劣らぬ、精悍な侍であった。
可能な限りの贅を尽くした夕餉で縁壱を迎えて、いつになく楽しい時間が過ぎる。
その晩の事だった。
子供達を寝かしつけて、彼女は巌勝に仏間へと呼び出された。
夫が口を開く前から、よほど重大な話である事は分かった。
武家に嫁いだその時から、合戦で夫が帰らぬ人になるのは覚悟していた。しかしながら、そうしたものとは全く別の次元の話であるのが直感で理解出来た。
だが、夫の口から語られたのはそうした予想を更に、しかも斜め上に凌駕する荒唐無稽とさえ言えるような内容だった。
この世には人食い鬼が存在する。
弟の妻も人食い鬼に殺された。
平和に生きること。大切な人と一緒に、天寿を全うするまで暮らすこと。平和な、何の変哲も無い日々が、いつまでも続くこと。
そんなささやかな願いすらいとも容易く踏みにじられてしまう。この世界に、鬼が存在するが故に。
弟が鬼狩りとなったこと。
そしてそれを知った今、巌勝もまた鬼狩りとなるのを決めたこと。
「いつも…聞かせていたな…戦う事は慈悲ではないが…戦わねばこの世には無道が蔓延る…侍の戦いは無道を抑え…光ある世を目指す為のものだと…その心が慈悲…今こそが…その時なのだ」
「そうですか…」
妻は思った以上に、自分が落ち着いている事に逆に驚いていた。
初めて巌勝が稽古する姿を目の当たりにした時の衝撃を、彼女は今も覚えている。
三十人近い屈強な配下が一斉に巌勝一人に襲い掛かったが、誰一人手にした木刀を彼の体に掠らせる事すら出来ず、巌勝はまるですり抜けるようにして彼等の間を通り過ぎると、配下達は剣を握ったままで固まってしまい、数秒間もずっとそのままの姿勢でいた後で一斉に崩れ落ちて気絶していた。
この時、全員の急所に的確に三発から五発ずつの打撃が打ち込まれていた。
巌勝はまるで日課のようにそんな稽古をするという。
妻はそれを知った時に、この夫は合戦に出て武功を立てるとか大名家の武術指南役になって出世するとかそんな枠では収まりきらず、いつの日にか何かもっと大きな役目に従事する時が来る。そしてその時が来たのなら、きっと彼は自分や子供達の傍から離れて行ってしまうのだろうと空恐ろしくなった。
明日かそれとも一年後かとずっと思ってきた、その時が遂にやって来たのだ。
「お別れするのは辛いです。でもそうした事情なら我儘は言えませぬ。どうか私達や家の事は何も気にせず、立派にお働きくださいませ」
「必ず戻る…子供達を…頼むぞ…だが二十五年経って…私が戻らぬその時には…他に良い相手を…見付けてくれ」
「まぁ」
妻は笑いきれない笑顔を作った。
「二十五年も経ったのなら、私の墓に大木が生えている事でしょう…ですが私はいつまでもお待ちしています」
「すまぬ…許せよ」
次の日、妻はまだ子供達が寝ている時刻にいつも通りの朝餉を作ると巌勝と縁壱に振る舞い、そして二人を送り出した。
最後まで気丈で、貞淑に振る舞っていたが…彼女が泣き崩れる姿が、背中越しに巌勝にも縁壱にも見えるようだった。
結局、巌勝はこの約束を守れなかった。
彼の妻は、まだ十分に若かったにも関わらず、生涯再婚に応じなかった。
この後、継国家は没落してやがてその名も絶えていく事になる。
東京府・浅草。
正式に鬼殺隊隊士となって初任務をこなした翌々日。
ここに鬼が潜んでいるという噂があるので向かうようにとの指示を鎹鴉から受けた炭治郎は禰豆子を連れてこの町を訪れていたが、夜ともなればみんなが寝静まりシンとした静寂が支配して明かりが見えなくなる山育ちの彼には、日がすっかり姿を隠しても大勢の人々が行き交って街灯が夜の闇を塗り潰さんと輝くこの発展した町並みは、圧倒されて目が眩むようだった。
禰豆子が寝不足なのもあってひとまずかけそばの屋台で休憩しようとして、一息吐いたその時だった。
「!!」
鼻腔を刺激する匂い。
二年前に一度嗅いだだけ。しかしながら忘れた事など無い、忘れようにも忘れられない匂いだ。
家族が惨殺された家に残されていた匂い。
弾かれるように駆け出して、雑踏を掻き分けてその匂いの主に辿り着いた。
洋風の装いをした、二十代半ばから後半に見える男性の姿をしていた。
鱗滝翁から聞かされていた、鬼を増やす事が出来る唯一の鬼。鬼の始祖、鬼舞辻 無惨。
周囲に大勢の人が居るにも関わらず、炭治郎は腰の日輪刀を抜刀しかけたがすんでの所で思い留まった。
肩を掴まれて、振り返った無惨は幼女を抱えていた。
それだけではない、恐らくはその子の母親と思わしき女性まで傍に居た。二人の匂いは、紛れもない人間のもの。奴は人間の振りをして、潜伏して暮らしているのだ。
「お知り合い?」
「いいや困った事に少しも…知らない子ですね。人違いでは…ないでしょうか」
そう言いつつ、奴は爪を鋭く変化させて通りすがりの男の首筋を掻いた。
「うぐっ…」
思わず、その男性が首筋を押さえて体をぐらつかせる。
これから何が起こるかを察して、それを防げなかった事と合せて炭治郎の顔色が蒼白になった。
「あなた…どうしました?」
男の妻が心配そうに寄り添うが…顔を上げた男は異様に血走った目で牙を剥き出した。
「やめっ…!!」
「きゃああああ!!」
痛みと恐怖で悲鳴が上がる。
男が、妻の肩口に噛み付いたのだ。
「キャーッ」「どうした」「何だ」「血が」
悲鳴を聞き付けて、周囲にも混乱が波及する。
炭治郎は咄嗟に頭巾のようにして被っていた布を解きながら突進する。鬼にされた男性は今度は妻の首筋に齧り付こうとしていたが、後一秒遅れていたらという所で何とか阻止した。上から覆い被さる姿勢になって、口には噛めないように布を丸めて突っ込む。
「あなた!!」
「奥さん、こちらより自分の事を!! 傷口に布を当てて、強く押さえてください!!」
状況はかなり悪いが、まだ最悪ではない。
奥さんの傷は致命傷ではない、この男は鬼にされたばかりで誰も殺していない。必ず何とかする。
何とかするが…その為には…
「くっ…!!」
肩越しに炭治郎は無惨の姿を見る。
奴はこの騒ぎに乗じて、人混みの中に消えていく。大勢の人と騒ぎが煙幕のようになって無惨の姿を隠してしまう。
自分も含めて全ての悲劇の元凶、鬼殺隊の宿敵、鬼を人間に戻す手段を知っている可能性のある存在。
肩を掴める距離にまで迫ったのにみすみす、しかもしずしずと歩いて逃げていくのをただ見送るしかないというのは忸怩たる思いだが…しかしこの鬼にされた男を放ってはおけない。奴はこちらのそうした事情も計算の上で、こうした逃走手段を採ったのだ。
相手の思惑にみすみす乗る事になってしまう形だが、今はそれ以外にやりようが無い。
やり場の無い怒りを吐き出すように、叫ぶ。
「鬼舞辻 無惨!! 俺はお前を逃がさない、どこへ行こうと地獄の果てまで追い掛けて、必ずお前の頸に刃を振るう!! 絶対にお前を許さない!!」
ちらりと、背後を振り返る無惨。
その視界に入った物に、鬼の始祖は瞠目する。
炭治郎の身に付けている、花札のような耳飾り。
それを見た瞬間に、ぞわりと肌が粟立って、背筋に大量の氷を入れられたように一気に体が冷えた気がした。
*
『何が楽しい? 何が面白い? 命を何だと思っているんだ』
*
「これは、何者だ?」
「あれぇ、誰だろこのお侍? 俺、こんな人に会った事無いんだけど」
「無惨様の記憶か、これは…?」
「ひぃぃぃぃ、怖ろしい、怖ろしい、この記憶に刻まれた恐怖…儂には分かる。怖ろしい、怖ろしい」
「ヒョヒョ、こんな感覚を覚えるのは幾十年振りか」
「これはアタシじゃない、アタシの記憶じゃ」「細胞かぁぁ? あの方の細胞に刻まれたものかぁぁ?」
*
後で分かった事だがこの日この時刻、彼の血を色濃く受けた十二鬼月の全員が、各々が遠く離れた地に居るにも関わらず今無惨が思い起こしている光景と全く同じものを幻視していたという。
日輪の耳飾りをして、顔に痣のある侍の姿を。
それほど強烈に、無惨自身の中に過去の記憶が鮮明に蘇ったのだ。血を通して、意図せずに思念が流れ込んで細胞が覚えている記憶が、血を与えた鬼達の中に再生されるほどに。
現場の無惨は、七つの心臓が一斉に早鐘を打ち始めるのが知覚出来た。
数百年の時を経て、ようやく色褪せて記憶の水底に沈殿して埋もれていた過去が、一瞬にして澱を舞い上げて意識の表層に浮上してきた。
それ以上に、肌に突き刺さるようなこの尋常ならざる殺気。凍るように寒くこの一帯だけいきなり冬になったのかとさえ真剣に考えた。まるでこの時代に生き存えている筈の無い、あの男のようだ。この殺気は無論錯覚なのであろうが、鬼にした男を取り押さえている炭治郎のすぐ後ろに、あの男が佇んでいるようにすら思える。
刹那の間だけ、本当にそんな幻が見えた気がした。
無惨は、この場から離れる足取りを家族と偽っている人間達に怪しまれない範囲で、可能な限り早くした。この時は何故人間の足はこんなに遅いのだと胸の中から昏い炎が燻るようだった。
実際にはこの時、無惨が感じたものはまるで的外れな錯覚という訳でもなかった。特に殺気については錯覚ではなく実際に発せられていた。ただし、その主は炭治郎ではない。凍り付くような殺気が発せられていたのは、炭治郎のすぐ後ろの、その空間。
炭治郎にも無惨にも、周囲の群衆の誰にもこの時、見えてはいなかったが、炭治郎のすぐ後ろには国士某が佇んでいたのだ。
鬼を連れた鬼狩りが浅草に入ってきたという報告を受けて、珠世も含めた三人で様子を見に来たのだが人間と殆ど変わらない姿の二人とは違って、六つの眼という異形を持つ彼だけは文字通り人目に付かないよう、愈史郎の血鬼術を借りて姿を隠していたのだ。
それが幸いした。
灯台下暗しと言うが、まさか長年探していた鬼の首魁がこんな身近に居たとは。姿隠しをしていなかったら、この姿を見られて数百年に亘って積み上げてきたものが一瞬の内に水泡に帰していたかも知れなかった。
だがそれに安堵してなどいない。
国士某の六つの瞳には、二つのものが映っていた。
鬼にされた夫。
泣く妻。
まだ人間であった頃の、自分の記憶が重なる。
ぎりっと噛み締めた奥歯が鳴り、今すぐにでも無惨に斬り掛かりたいという衝動を抑えるのに相当の労力を要した。
刀の鯉口を納めて、もう人に紛れて見えなくなった鬼舞辻が逃げていった方向を睨む。
「今はまだ…準備が不全であるが故…その頸は…胴に預けておく…が…至る時には…生き汚い貴様が…殺してくれと…そう叫ぶまで…膾にしてくれる」