去りゆくその背中に、大きな声が掛けられる。
「縁壱さん!! 後に繋ぎます。貴方に守られた命で…俺達が…!! 貴方は、価値の無い人なんかじゃない!! 何も為せなかったなんて、思わないでください!! そんなこと絶対誰にも言わせない、俺が、この耳飾りも日の呼吸も後世に伝える!! 約束します!!」
立ち止まり、振り返った継国縁壱は少しだけ沈黙した後に、どこか憑物が落ちたように晴れやかに笑った。
「ありがとう」
お互いに姿が見えなくなるまで何度も振り返って、何度も手を振って、そうして縁壱と彼が助けた者達は別れていった。
縁壱は山道を歩き進み、やがて木陰に遮られて日の光が届かない場所に入る。
そこで彼は足を止めた。
「良かった…のか?」
声がした方を縁壱が振り返ると、木陰に佇んでいたのは六つの眼を持った異形の侍。数百年先と変わらぬ姿の国士某であった。
「兄上」
お待たせ致しましたと、縁壱は頭を下げた。
「それで兄上、良かったのかとは?」
「お前は…あの家に留まっても…良かったのだぞ」
国士某は何の感情も宿していない、抑揚の無い声で語る。
「侍の家に生まれ…鬼殺の剣士となったからと言って…生涯…その道に生きねばならぬ法は…無い」
すっと、国士某の鬼の、鋭い爪を持った指が縁壱の懐を指した。
「あの猛々しかった父上にも…時には…月明かりの下で…野風に吹かれながら…笛の音を楽しむ…そんな優しい一面があった…人間は決して…戦いと縁が切れぬ生き物では…ない…人間は…心の奥底では…争いの怒号よりも…嫋々と響く笛の音の方が…好きなのだ」
「…」
意識しているのかいないのか、縁壱の手が彼の懐へと動いた。
「刀を置き…残された時間を…彼等と共に生きて営む…お前はそうした道も…選べよう…彼等が良き人なのは…私にも分かる…一緒に暮らして…真面目に働いて…共に笑って…時には泣いて…残された時は…長くはなかろうが…あるいは良き女と巡り会う日も…あろう」
「…」
ぐっと、縁壱は拳を握り締めた。
「うた…あの子の事を忘れろとは…言わぬ…いや…忘れてはならぬ…忘れようとすれば…却って辛くもあろう…だがきっとあの子は…お前の幸せを願い…許してくれると…私は信じている」
「はい、兄上。私もそれを疑ったことはありません」
「ならばお前は…あの家族や…巡り会った良き女を…私の分まで…うたやその子に出来なかった分まで…我等の手からこぼれ落ちた数多の人々の分まで…幸せにしてやれば…よいではないか…平和に生きて…寿命で死ぬ…それが人の責任であり…幸せであろう…そこには私が決して…鬼など…一匹たりとて…来させはしない」
「……」
「確かにお前は…使命を持って…特別強く造られ…生まれてきたかも知れぬ…だがお前の命も…人生も…縁壱…お前だけのものだ…余命を…戦い以外に…使ってよいのだ」
だから今からでも戻ってはどうか。
そう言い掛けた国士某の言葉は、縁壱に遮られた。
「そう言われる兄上はどうなのですか?」
「私は…もう家族の元へは…戻れぬ…こんな…こんな姿では」
自虐するように、国士某は首を振った。
「お労しや…兄上」
「それは…お前であろう…二度とは会えぬが…私の妻と子は…同じ空の下で…生きている」
妻と子に二度と会えぬ鬼の兄と、妻と子と死別した人間の弟。
同じ命を分かち合って生まれてきた二人は、今は鏡写しのように同じようで違う存在になっていた。
ふっと、縁壱が笑う。
「では、私は兄上と共に生きます」
「今一度聞くが…良いのか…?」
「兄上が言われるように私は…鬼舞辻無惨を倒す為に特別強く造られて生まれてきたと思うのですが…しかし私はしくじってしまいました。兄上が命懸けで奴に打ち込んでくれた仕掛けも活かせなかった。結局、しくじってしまった。そのせいでこれからもまた多くの人の命が奪われてしまう」
だからこれからの余生は、せめてその数を一人でも少なくする為に捧げよう。
縁壱の手が、懐から腰の日輪刀へと移った。
剣に生きて剣に死ぬ。
皮肉な話である。
無限の才を持って侍の家に生まれて、しかし優しい性分から争いを好まず一度は家を捨てて生きた弟は、誰よりも侍らしい、傍目からはそう見えるような生き方しか選べなかった。
「それに…兄上をお一人にはしません」
彼にも光はある。
「そうか…では…我等は…進もうか」
鬼と人。
兄と弟は、肩を並べて山道を歩いて行った。
「水の呼吸 拾ノ型 生生流転!!」
浅草・珠世邸の庭にて、炭治郎は国士某の前で習得した水の呼吸の剣技を壱から拾まで全て披露していた。
「…成る程」
うむと見て取った国士某は、しかし少しだけ腑に落ちない様子だった。
「国士某さん、どうでしたか俺の技は?」
期待と緊張が半分半分という様子で、炭治郎が聞いてくる。
「炭治郎…人間の中には…神仏によって特別強く造られ…天稟を持って生まれた者が…時折居る」
残念ながら非才とは言わないにせよ、炭治郎はそうした部類の人間ではないと国士某は断じた。
ちょっぴりだけ残念だが炭治郎は落胆はしない。元より彼は自分が天才とか特別だとか思った事は無い。
「しかしながら…そうした才を持って生まれていないお前が…いかにして二年の鍛錬で…これほどの技を身に付けたのか…? 些か…分からぬ…」
柱には到底及ばないが、それでも二年の鍛錬だけで届き得るものではない。
国士某は炭治郎の剣技が到達している領域をそのように評価した。
「炭治郎…お前には何か…武術や格技の…素地のようなものがあると…思われるのだが」
「え? でも、俺は鱗滝さんの所で修行を始めるまで、そんなのは囓ったことも無いですけど…」
「何かは…あるのではないか…? 他の家の者が…やっていないような…何かが」
「えっと…あ、そうだ。神楽とか?」
「神楽…舞か」
炭治郎は頷いた。
「俺の家は代々炭焼きで、怪我や災いが起きないように、年の初めはヒノカミ様に舞いを捧げてお祈りをするんです」
「それは…どのような…ものか?」
「全部で十二ある舞の型を、日没から夜明けまで、ずっと繰り返すものなんです。昔は父さんがやってたんですけど、病気だったから次の年からは俺がやるつもりで、練習はしていました」
「…見せて…もらいたいな」
「あ、はい。分かりました。今回は祭具の代わりに刀を使いますね」
炭治郎はそう言うと、先ほど水の呼吸の技を披露した時と同様に少しだけ距離を置くと、すうっと息を吐いて舞いを始める。彼の家に代々伝わるヒノカミ神楽。静謐な夜に、水の呼吸とはまた違う呼吸音が木霊する。
ゴオオオオオオ
「こ…れは」
国士某の手から、木刀が落ちた。
円舞
碧羅の天
烈日紅鏡
幻日虹
火車
灼骨炎陽
陽華突
飛輪陽炎
斜陽転身
輝輝恩光
日暈の龍・頭舞い
炎舞
舞い終わって、言葉を発せない者が二人。
「「……」」
国士某と、珠世だった。
二人の鬼はしばらく、呆然と瞠目して沈黙していた。
「あの…国士某さん? 国士某さん」
「む…あぁ…そうで…あったな」
炭治郎に声を掛けられてはっとした国士某は、一度珠世と目を合わせる。
両者は、それぞれ察したように頷き合った。
「炭治郎…今のを見せてもらい…合点が…行った」
「えっ」
「お前が舞った…そのヒノカミ神楽…それは…武術が元に…なっている」
「そ、そうなんですか?」
国士某は頷いた。
「不思議なこと…ではない…古来より神楽は…鎮魂の儀礼であり…剣を手に舞う事で…魂を肉体に留め…気を整える事ができると…信じられており…故に神楽の舞には…武術的な要素や起源を持つものが…少なからず存在し…武士の家中でも…神楽を奉納する例は…多かった」
「でも、俺の家は代々炭焼きですよ? 家系図だってありますし」
「武家でなくとも…神楽を継承する例は…ある…稲を刈る…悪霊を払う…そうした所作が…農耕具を鎌や薙刀…槍といった武器の…転化として演出されるのだ…つまり神楽と武術の関係は…一方向ではなく相互循環であり…恐らくお前の家も…歴史のどこかで…武術との関わりが…あったのであろう」
国士某は嘘は言っていない。むしろ真実しか語っていなかった。
彼の中では今、多くの事に納得が生まれていた。
「だが…信じられぬ…本当に…今にまで…伝わっているとは…炭吉は…約束を…守ったのだな」
「国士某さん…どうしました?」
「む…」
国士某は、微かな違和感を感じて頬に手をやる。彼の左頬、本来の人間のものであった目から一筋の涙が流れていた。
「いや…何でもない」
侍鬼は涙を拭った。
「炭治郎…話を戻すが…お前の肉体は…幼き日より神楽を学んでいたが故に…そのヒノカミ神楽に…最も適した体となっている。ならばそのヒノカミ神楽を…実戦で使える剣技へと昇華させるのが…よかろう」
「はい、それは分かりますが…どうやって?」
「私の修行は…簡単だ」
国士某は木刀を拾うと、正眼に構えた。
「炭治郎…お前はこれより…ヒノカミ神楽の十二の型…それを順番に…私へと打ち込んで参れ…私からは手を出さぬ…そしてお前の刀の刃が…私の肉体に掠りでもすれば…それで修行は…終わりだ…無論…それが出来ぬ時は…夜明けまで…修行は続く」
「えっ…」
炭治郎が持つのは真剣。一方で国士某の得物は木刀。
こうした状況での稽古に炭治郎は覚えがあったが、しかし得物の差で相手を気遣う気にはなれなかった。
得物の性能以上に、戦力差は絶望的なまでに開いている。
「ただしお前の攻撃は…全て全力で打ち込んでくること…少しでも力を抜いたり…あるいは途中で攻撃を止めた時には…お前の頸と胴は泣き別れだ」
「ええっ!!」
「ムー!!」
「…とは…言わぬが…骨の一本は…折る」
ごくりと、炭治郎は苦い唾を呑んだ。
とても自分が、国士某に切っ先の一端であろうと触れられる様が想像出来ない。
今から日の出まで、四時間はたっぷりある。
その間、全力でヒノカミ神楽を国士某へと打ち込み続ける。
途方も無い労力、自分が地獄を見るであろう事は想像に難くない。あるいは命さえ危うくなるかも知れない。
でも、鬼殺の剣士として禰豆子を人間に戻す為に、この道を行くと決めたから。
引き返す道は、要らない。
「行きます」
「参れ」
ゴオオオオ
ヒノカミ神楽 円舞
炭治郎が全力で打ち込んだ日輪刀の刃を、国士某の木刀がまともに受けた。しかし斬れない、ほんの僅かだけ刃先が食い込んだだけで止まってしまう。
「間髪入れるな…次の技を出せ」
「はい!!」
烈日紅鏡 火車
「繋がるであろう…? 続けよ」
「はい!!」
日暈の龍・頭舞い 幻日虹 灼骨炎陽 炎舞
やっと一度繋がったが、たった一連の流れをこなしただけで、炭治郎は息が上がり始めた。
神楽の稽古は確かに昔からやっていたが、相手を斬ろうと剣術として使って、祭具ではなく思い切り刀を振ってぶつけるのはこんなに負担が違うのかと彼自身驚く。肺には無数の細かい針が突き刺さってくるように痛い。心臓の鼓動はどんどん早くなり、内側から体を圧迫するようだ。
手足が、刀が重くなる。
自分で振った刀の勢いに体がもっていかれそうになって、空振りの方が腰に来る。
がくりと膝が折れるが、何とか立て直して次の技に繋ぐ。
碧羅の天 陽華突 輝輝恩光 炎舞
狭霧山での修行の時に、国士某からの手紙を見てから地獄の走り込みをしていて良かったと思った。あれをやって基礎体力を向上させていなかったら、とても保たなかった。
「…素晴らしい」
炭治郎の技の一つ一つを受けながら、国士某は不思議な困惑の中に在った。
否、これは困惑を通り越して、感動であった。
無論、鋭さも速さもキレも何もかも、本来の使い手のそれとは比べ物にならない。
だがたった一度見ただけの技が、しかも幾世代・数百年を経て尚、劣化を知らず驚くほど正確に十二の型の全てが、今へと受け継がれている。
一瞬だけ、炭治郎の姿が弟に重なった気がした。
国士某が弟を、思い出したことは一度も無い。
何百年も生きて、しかし忘れた事など片時も無い、自分の半身。
人の命には限りがある。命は一人に一つ、失ったらそれまで。それが何人も抗えぬ、この世の理だ。
「だが…命の中に在るものは…遺すことが…出来るのだな」
己の命を真剣に生きて、命を終える時に誰かにその想いを託す。命で繋がれた強い想いは決して消える事は無く、永遠に遺っていく。
「そうして遺り…受け継がれていくものが…本当の…命なのだな」
何百年も前に逝ってしまった者の技が、尊敬と感謝で受け継がれている。
ふと、炭治郎の姿が今度は別の誰かに重なった気がした。
その者の顔を、国士某は鮮明に覚えている。
何度も稽古の中で泣いて、でも決して諦めずに自分に食い付いてきた唯一人の継子。
この時国士某は、久しく忘れていた感覚を覚えた。
縁壱が羨ましい。
自分もあの子に、あるいは妻や子供に、何かを遺してやりたかった。
「懐かしや…嫉妬で全身が灼けつく音を聞くのも…何時振りか…愉快…」