「…故に…父上…私が鬼狩りの為…旅立つことを…どうか…お許しください」
その日、継国家の寝室にて巌勝は父に向き合っていた。
明朝、彼は旅立つ。
鬼狩りの剣士となる為に。それはもう決めた事だが、父に伝えずに家を出る不義理は出来なかった。
『それにしても…父上はこれほど…小さかったであろうか』
病床の父を見て、巌勝は改めてそう思った。
昔はもっと猛々しく、強い父であった。
家に居る時、巌勝は父の見舞いを欠かした事は無い。だがなまじ毎日姿を見ているから徐々に病状が変化していくのが、逆に分からなかったのかも知れない。あるいはその時は毎日顔を見るのが習慣になっていて、明日も見舞いに行く気持ちだったからかも知れない。
今は巌勝の世界も変わっている。
侍としてではなく、鬼狩りとしてこの家を出る。あるいは二度と帰る事は無いかも知れない。
合戦に出る時は常に死は覚悟の上ではあったが…しかしそれとはまた別種の覚悟を今の巌勝は持っている。
そういう気持ちで改めて父と向き合ったことで、変化に気付いたのだろう。
思えば父はある時期から、体調を崩して床に伏しがちだった。まだ三十路半ばであり、働き盛りの年齢なのに。
その時期は、縁壱が家を出た頃と重なる。
やはり彼を忌み子として扱っていたことを気に病んでいたのであろう。母の日記を見て彼女の病を知った時に、父は何故教えてくれなかったのかと亡骸に縋って号泣した。縁壱を探しに寺へ人をやったのは、母の遺言もあり今度こそ家族三人で仲良く暮らす為だった。
巌勝は縁壱の行く先を知っていたが、語らなかった。
この家に帰れば争い事を嫌う優しい弟が、再び縁が切れた筈の戦に巻き込まれる事になる。縁壱は家に残り巌勝が矢面に立つ事も出来るが、それはまた別の形で彼の心を苛むであろう。
だが父の気持ちも救いたい。だから巌勝は折衷案として、時々縁壱からの手紙をどこから届いたか分からないようにしつつ、父に届けていた。
父にとってはその手紙が時折の楽しみであり心の糧であったのだろう。会う事は出来なくても、自分の子供がこの世界のどこかで元気に生きている。それを励みにしていたように思える。どの手紙も幾度も読み返し、書斎の漆箱に大切に仕舞われているのを巌勝は知っている。
だが数年前からその手紙が途絶えてしまった。
縁壱が姿を消したのだ。
巌勝が縁壱とその妻の家を訪れた時、家は蛻の殻であった。
家の中は荒らされていなかったがあちこちに拭き取られた血の跡があり、外には女性と胎児が葬られた墓が残されていた。子供は死産・妻は産褥で死亡してあの家に居るには思い出が多すぎて、縁壱は旅に出たのであろう。あるいは本当に僧になったのかも知れないと巌勝は思っていた。
想像と全く異なる事実を知ったのは、つい昨日の事であった。
父のもう一つの心の支えは、巌勝自身であったろう。せめて彼が一人前になるまではと気力で生きてきたのかも知れない。
その巌勝が妻を娶り、子供が生まれた事で安心して気が抜けたのであろうか、その頃から病が重くなり始めたように思う。
「確かに…父上…侍としての役目を果たさず…家を出る事は…忠孝の道に…背くやも知れませぬ」
だがこの世界に鬼が居て、善意の民を喰らっている。
愛する人が笑顔で、天寿を全うするその日まで幸せに暮らすこと。
その命が理不尽に脅かされないこと。
家族で仲良く暮らすこと。
そんなささやかな幸せすら、いとも容易く奪われてしまう。
この世界に鬼が居る故に。
「ですが…無辜の民が…謂われ無き暴力によって…その命を奪われるのを…それを知りながら座視する事は…人の道に…背く事になりまする」
だからどうか、家を出る事を許してくれとは言わない。ただ分かってほしい。巌勝はそれを言いたかったのだ。
「先代様、当主様のお言葉は本当です。我等も確かに、人食い鬼を見ました」
これを言ったのは巌勝の配下の中でも、父の代から仕えている古参の者だった。
父はこれを聞いて、きっと怒るだろうと巌勝は思った。
鬼など、何を世迷い言を言っているのだ。何か妙な宗教にでも感化されたのかと。そんなものの為に家を捨てるなど言語道断。そう言われると思っていた。
だが違っていた。
父はこう言ったのだ。
「そうか…巌勝、来るべき時が、来たのだな」
怒りは無く、むしろどこか悟ったような穏やかさがあった。
「信じて…くださるの…ですか」
意外な反応だった。人食い鬼など、巌勝とて実際に目の当たりにせねば信じなかったであろう。
それを、ただ聞いただけの父が信じるとは、思わなかった。
「巌勝…儂はな。最初お前の武才を目の当たりにした時は喜んだ。これでこの継国の家から日本一の侍が出て、何百石も何千石の家にも栄えるであろうとな」
「今は…違う…と?」
父が頷く。
「お前のその強さは、その身や家一つの栄達のような、そんな些末な事ではなく…もっと大きなこと、世の中の為に、大義の為に振るわれるべきものではないかと、いつからか思うようになったのだ。その為に神仏より授けられたものなのではと…いつかは、その時が来るのではないかと」
そして、時が来た。
「幸い、後を継ぐ男児も生まれておる。お前は何も心配はせずに、役目を果たしてくるがよい」
「巌勝様、我等配下一同、力を合わせて若君を盛り立てまする。どうぞ心置きなくお働きください」
父と配下の言葉を受けて、巌勝は深く頭を下げた。
「ただ一つ、儂の心残りは…縁壱の事だ」
「父上…」
「儂の心得違いが故に…あの子には、辛い思いをさせてしまった。この命が尽きる前に…せめて一目会って、詫びたいのだ」
「「…」」
巌勝と配下は顔を見合わせ、配下が立ち上がると部屋の襖を開いた。
そこに立っていたのは、巌勝と同じ顔をした若侍だった。
父の目が見開かれる。
十年余りも会っていなかったが、見間違える筈も無い。
「より…いち…」
「父上…」
弟の目が、潤んでいる。
「なんという凜々しさ…なんと立派な…もっと傍に」
「父上」
縁壱は駆け寄ると、父の手を握り肩を抱いた。昔は大きかった父の肩は、今は小さくて簡単に毀せそうだ。
「縁壱…」
「父上。縁壱です。今…今、帰りました。帰ってきました」
縁壱の双眸から、涙が流れていた。とめどなく。
「辛い思いをさせた…儂を、許してくれ」
「許す事などありませぬ」
それは拒絶の言葉ではない。
「父上と母上がなければ、私はこの世に無かったでしょう…この世界は、ありとあらゆるものが美しい…私は父上に、そんな世界に私を生み出してくださった感謝と尊敬以外は持ち合わせておりませぬ」
「縁壱…縁壱…縁壱」
父の、すっかり肉が落ちて骨と皮が目立つようになった手が、ぐっと縁壱の背中を強く抱いた。
巌勝と配下は互いに目を合わせて頷き合い、どちらからともなく部屋を出て襖を閉めた。
縁側に出た巌勝は、空を見上げる。雲一つ無い空に、月が煌々と輝いている。
「良い…月だな」
「はい、明日はお二人の門出に相応しい日和となるでしょう」
「この月明かりが…あまねく人々に…幸せを届ける光である事を…祈りたい」
「気付かなかった…今宵は…こんなにも…良い月だとは」
那田蜘蛛山。
国士某はふと空を仰いで満月を見上げた。
人であった頃から数えて、一体いくつの月を見送ったであろう。
「戦国の頃より…月は些かも…変わらないが…私は…変わり果てて…しまったな」
自嘲するように呟く。今の自分は継国巌勝という人間の残骸、生き恥を晒し続ける鬼。
だがそんな自分にも、まだ出来る事とやるべき事が残っている。
鬼侍の足下では、頸と胴を泣き別れにされた鬼が塵となって消えつつある。
それにしてもこの山は、何かおかしい。
通常、鬼は結託して動く事はしない。鬼舞辻無惨が、力のある鬼達が徒党を組んで自分に反逆してくる事を恐れてそうさせているのだと珠世や国士某は推測している。だから一つの縄張りに鬼は一体。絶対でないにせよそれは原則と言って良いのだが…
「多すぎる」
国士某はこの山に入ってから、既に三体の鬼を斬っている。
たった山一つという範囲に比して、この数は異常だ。
しかもこの山にはまだまだ鬼の気配がひしめくようにある。耳を澄ませば慌てふためく声も聞こえてくる。
「叔父の従兄弟の息子がやられた!!」
「こっちは三番目の妹の夫の兄が死んだぞ!! 一体どうなっているんだ!?」
「あのカマイタチみたいな攻撃だ!! 俺達を追ってこの山にまで来たんだ!!」
鬼達が何を言っているのか? 今ひとつ国士某には理解しきれない。
これほど多くの鬼が一カ所に集まっているのも不思議だが、もう一つ二つ腑に落ちない事がある。
「血鬼術の種類が…近すぎるように…思う」
この山に入って遭遇した鬼達は、三体が三体とも糸や粘液を武器とする異能を使う個体だった。
血鬼術の種類は鬼ごとに千差万別であり、鬼が生まれる度に新種の血鬼術が生まれると言い換えても過言ではない。
なのに三体が三体とも、同じような能力を使うとは?
それにどの鬼も白い肌に白い髪、顔には赤い斑点と同じような姿をしていた。
「まるで…自分の力を…分け与えているか…もしくは…分身?」
その線は有り得るかも知れない。血鬼術を分け与える血鬼術、あるいは自分の力の一部を再現した分身を作り出す血鬼術。そうした力の使い手には、国士某も出会った事があった。
真相は分からないが…いずれにせよ、国士某がやる事は変わらない。
人間であった頃は、強き者として生まれた義務を果たし、人の道を全うする為に。
鬼となってからは、たった一つのやり残しを遂げる為に。
「鬼を斬る…ただそれだけだ」
国士某は山中を練り歩く。
那田蜘蛛山に、鬼達の断末魔・怒号・恐怖の悲鳴・絶叫が響き渡った。
「権八郎!! 勝負だ、俺は今日こそお前を倒す!!」
獣の咆哮のような声が響く。
鼓屋敷の主である鬼を斬った炭治郎は、屋敷の外で猪頭を被った隊士・嘴平伊之助と遭遇した。
伊之助は屋敷の外に置かれていた箱を見付けて、中に入っている鬼を斬ろうとしたのだがそれを善逸に阻止され、無抵抗の善逸を一方的に攻撃。そこに炭治郎がやって来て、今度は炭治郎に目標を変更して襲い掛かったのだが簡単に組み伏せられてしまった。
その後三人は、怪我の治療と休息の為に鬼殺隊に無償で協力してくれる藤の花の家紋の家に逗留する事になった。
しかしそこでも伊之助は時には真っ正面から、時には不意打ちで所構わず炭治郎を狙う。
「勝負は良いけど騒いだらこの家の人に迷惑だろ」
その度に炭治郎にあしらわれるのが続いている。
「禰豆子ちゃん、俺、花を摘んできたんだ。きっと君に似合うと思うよ」
「ム?」
善逸はそんな二人を尻目に、禰豆子の気を引こうとある日は花を渡したり、ある日は毎日お寿司と鰻をご馳走するので是非自分のお嫁さんになってくれと求婚するような毎日だ。
「チクショオオオオオ、また負けた!! 健太郎と俺と、一体全体何が違うってんだ!!」
「うーん、師匠の違いかな?」
真面目な顔で、炭治郎がそう言った。
「師匠?」
「あぁ、俺は最初に鱗滝さんって凄い先生が居て、もう一人、凄い先生に稽古を付けてもらったんだ。でも伊之助はずっと山育ちで我流なんだろ? きっとその差が出てるんだ」
その差が埋まれば、伊之助の実力は自分と互角かそれ以上になるかも知れない。
炭治郎からすればそういうつもりでの言葉だった。
「だったら紋次郎、その稽古を俺にもやらせろ!!」
「い、いや…凄い稽古だから急には…」
「お前に出来た事だ、俺に出来ねぇ訳がねぇ!! つべこべ言わずに俺にもやらせろ!!」
「…本当に、良いんだな?」
神妙な顔で、炭治郎が尋ねる。
「応よ!!」
伊之助が答える。
その言葉が、命取りだった。
炭治郎は教えるのが爆裂に下手だった。
三時間ほど後。伊之助は、