その日、元鳴柱で現役を退いた今は育手である桑島慈悟郎の元を善逸が訪れた。
「善逸? どうしたんじゃ、こんな時間に? それにお前は今は任務に出ている筈では…」
そこに立つ善逸は、いつになくさっぱりとした顔つきで、まるで何の未練も無いような、桑島翁をして今まで見た事が無いさわやかな笑顔をしていた。水清くして魚住まずという言葉あるが、桑島翁はその弟子のさわやかさを目の当たりにして何か、言い様のない居心地の悪さを覚えた。
「じいちゃん。今までありがとう。俺、じいちゃんの弟子で本当に良かったと思ってるよ」
「お、おい…善逸?」
「泣いてばかりの不出来な弟子でごめんよ、じいちゃん。獪岳によろしく」
そう言うと、善逸はくるっと振り返って、走り始めた。
桑島翁は弟子を呼び止めようとするが、体が思うように動かずに手が伸びない。
「それじゃあね、じいちゃん。長生きしてね、本当」
「ま、待て!! 善逸、善逸!!」
走り去る善逸の姿はみるみる遠くなり、小さくなっていく。
「善逸ーっ!!」
桑島翁は布団を蹴り飛ばす勢いで起き上がった。
周囲を見渡すと、見慣れた彼の家だ。
辺りは暗く、まだ夜明け前らしい。
びっしょりと寝汗を掻いていて、寝間着が肌に貼り付いていた。
ここで桑島翁はようやく、今のが夢である事に気付いた。
「ロクでもない夢じゃったな…縁起でもない…儂も年かのう…」
自嘲しつつ、ちらりと棚に目をやる。
何の前触れも無く、善逸が使っていた茶碗が真っ二つに割れた。
「……!!」
藤の花の家紋の家。
その庭では、善逸と伊之助が背中を預け合って座り込んでいた。
二人とも全身玉の汗を掻き、機関車の駆動音のような息をして少しでも体に酸素を取り入れようとしているようだった。
「じ、じいちゃんに会ってきた…そっちに行くな、戻れって襟首を引っ掴まれた…」
「お、俺は見た事も無い女と会ったぞ…伊之助はそっちに行きなさいって突き飛ばされた…」
恐ろしい話を語り合う二人だが、しかし彼等の視線は今、たった一人へと注がれていた。
まさしく神楽を舞うように、だが力強く剣術の型を繰り返し続ける一人の剣士。炭治郎へと。
「もう四時間も続けてるぞ」
「しかも少しも休まずぶっ通しだぜ…」
二人の言う通り、炭治郎はもうヒノカミ神楽の十二の型を剣術として繰り出す。
その型稽古を四時間以上も繰り返している。しかも型の一つ一つを全て全力で、時折剣を振った先に本当に鬼が居るのではないかと幻影が見えて錯覚するほどだ。鬼気迫るとはまさにこの事であろうか。
しかも少しずつ、その動きは洗練されていくようだった。
以前に、自分の育手が言っていた言葉を善逸は今思い出した。
刀を打つ時は、幾度も叩いて不純物や余計な物を飛ばして鋼の純度を高め、強靱な刀を作るのだと。
今の炭治郎の動作は、その言葉に重なる。
一振り一振りごとに、動きから無駄が削がれていくのが分かる。技の理想像がどんなものなのか? それは善逸にも伊之助にも分からない、計り知れないが、たとえそれが一万歩先であろうと一歩ずつ、炭治郎がそれに近付いている気がした。
剣を振るう炭治郎が一瞬だけ、人ではなく火の精霊のように善逸には見えた。
「きれいだな…」
「…あぁ」
思わず、そう呟いた。
自分達も剣士の端くれだ。今の炭治郎がどれほどの苦しみの中で、技を繰り返し出し続けているのかぐらい分かる。しかしそれでも、思わずそんな言葉が口を突いて出てしまった。
時を忘れて見とれてしまいそうだった。
しかしそんな時間は唐突に終わりを告げる。
剣を振り続けていた炭治郎の全身から突如として全ての力が抜けて、操り人形の全身に繋がる幾本もの糸が一瞬にして断たれたように、がっくりとその場にくずおれて動かなくなった。
「お、おいどうしたデコ太郎…」
戸惑ったように近付いていく伊之助。
善逸は顔を真っ青にして、全身を襲う筋肉痛に耐えながら這うようにして炭治郎に近付いた。秀でた聴覚を持った彼には分かるのだ。突如として、炭治郎の体から全ての音が絶えた。それが意味する所が、すぐに分かったからだ。
「お、おい!! こいつ息してねぇ、脈が無いぞ!!」
「炭治郎、何やってんだよお前!! お前が居なくなったら禰豆子ちゃんはどうなるんだよ!! 目を開けろよ!!」
二人は必死に炭治郎の体を揺すったり背中を摩ったりするが、炭治郎は反応しない。
と、思われた。
ギュルっと息が絶えた炭治郎の体の、左腕だけが思い切り振り上げられた。
「え?」
「何…ええ? 炭治郎?」
そしてギャゴッと、その左腕が思い切り振られて拳が炭治郎自身の胸を叩いた。
「ぐおおおおおおお、ハァー、ハァー、ハァー!!」
瞬間、炭治郎は全身の筋肉を一斉に使ったような勢いでうずくまった姿勢から一転、思い切り背伸びをするように立ち上がった。善逸も伊之助も度肝を抜かれて、座ったままの姿勢で1メートルも後退した。
「ぶはー、ぶはー、ぜぇ、ぜぇ」
荒い息を吐く炭治郎に、二人は恐る恐る近付いた。
「だ、大丈夫か炭治郎」
「息してなかったぞお前」
信じられぬものを見た。
確かに心臓も脈も止まって、呼吸もしていなかった。意識も無かったであろう。だが肉体に刷り込まれた生存本能が無意識に体を動かして、炭治郎は自分で自分の心臓を叩いて自分を蘇生させたのだ。
「はぁ…はぁ…子供の頃…」
「「えっ?」」
「子供の頃死んだ婆ちゃんに、会ってきた…」
「「…!! …!! …!! …!!」」
「『こんな所に来るな、帰れ!』って言われた…」
「「…!! …!! …!! …!!」」
「さぁ、鍛錬の続きを…」
「「えぇ…」」
炭治郎がそう言い掛けた所で、この家の主人である老婆が「朝食の準備が整いましてございます」と声を掛けてきた。
「ありがとうございます!! そうか、気が付けばもう朝か。二人とも、食事にしよう」
「「ええぇ…」」
「? どうしたんだ? 朝食は一日の活力の源だぞ。良く食べ、良く鍛錬し、良く休むのが強くなる一番の近道だ」
そう言って炭治郎は家の中に入っていくが…庭に残された二人は顔色が悪い。あれだけ動いた…と言うか心臓が止まっていた直後に、食事だと…? 二人ともまたしても信じられぬものを見た顔になった。
「なぁ、伊之助」
「あ?」
「俺、昔ね…俺の育手のじいちゃんから逃げ出した事あるんだ。『死ぬと思うので!! これ以上修行したら、死ぬと思うので!!』って、そう言ってさ…そしたらじいちゃんは『死にはせん、この程度で』って言ったんだけど…じいちゃんが正しかったよ。確かに、あの程度じゃ人間死ななかった」
「あぁ…」
「って言うか…どれくらい修行したら人間死ぬのか、身を以て知ったよ…」
「あぁ…俺って…あんまり強くなかったんだなぁ…」
と、まぁこんな調子で藤の花の家紋の家での休養と修行を終えて、炭治郎達は次の任務地である那田蜘蛛山へと向かう。
「死ぬわ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ、ここで生き残っても修行して死ぬわ俺」
「ゴメンネ、弱クッテ」
善逸と伊之助の様子がかなりおかしいが、残念ながら任務も鬼も彼等の都合など聞いてはくれない。
目的地に近付くと、鬼の姿を見る前から状況の異様さが分かってきた。
夜の静寂に響くのは、遠吠えとも山鳴りとも付かない唸るような音。それがひっきりなしに山から聞こえてくる。鋭敏な聴覚を持つ善逸には早い段階からこれが聞こえていたようで「怖いんだ、目的地が近付いてきてとても怖い!!」と前に進む足が竦んでいたがそれでもなんとか体を引きずるように前進して山の麓まで辿り着いた。
嗅覚に秀でた炭治郎も、ここまで来ると更なる異常に気付いた。
風に乗って流れてくるのは、異常に濃い血の臭いと、それを打ち消すほどに強烈な刺激臭だ。
見ると、数人の人間がうずくまっている。全員が鬼殺隊の制服を着ていて隊士だと分かった。
「見ろ、既に戦いが始まっているみたいだ」
隊士達は皆大なり小なり傷を負っていたが、幸いな事に全員命に別状は無いらしい。炭治郎はその中でも一番軽傷で、刀を構えて警戒態勢を取っている隊士へと話し掛けた。その隊士は後ろからポンと手を置かれて思い切り体を跳ねさせた。うっかり炭治郎を斬りそうになったが、相手が鬼ではなく人間なのに気付いて刀を止めた。
「応援に来ました。階級・癸、竈門炭治郎です。後ろの二人は我妻善逸と嘴平伊之助」
「癸…癸…?」
それを聞いた気弱そうなその隊士は、正気を疑うような顔になった。その正気を疑ったのは炭治郎達か、あるいは彼等に指令を下した上層部なのか、それは分からないが。
「なんで柱じゃないんだ。癸なんていくら来ても同じだ!! 意味が無い!!」
「…と、とにかく状況を説明してください」
炭治郎に言われて、村田というその隊士は話し始めた。
今も聞こえているように、この山からは数日前から夜になると絶えずこの異様な咆哮が響き渡ってくる。
それで鴉から指令が入り十人ほどの隊士が招集された。
隊は二つに分かれ、一隊は山中に入って調査を行い、一隊は麓で待機する事になった。村田隊士は後者の隊の所属だった。
しばらくすると山から鬼が凄い勢いで飛び出してきて戦闘になり、彼等はなんとか倒したものの鬼はかなり手強く、それが何度か繰り返される内に負傷してしまったという事だった。
「鬼が時々山から下りてくるんだがどの鬼も、物凄い勢いと剣幕で走ってくる…まるで、何か恐ろしいものに追い立てられたみたいに」
「追い立てられた…?」
「あぁ、それで山から逃がすまいとする俺達と交戦に入ったんだ。俺達は鴉に応援を要請して、さっきも一人応援が来て山の中に入っていったけど、あの坊主頭の隊士は満身創痍で応援に来たのか助けを求めて逃げ込んできたのか分からないような有様だったし、それで次の応援は癸なんて…!!」
もうダメだと村田は頭を抱えた。
「おい、あれは?」
「「はっ」」
伊之助が指差す先を見ると…白い髪と白い肌をして、まるで虫のように六本の腕を持った鬼が山を駆け下りてきていた。
「あっ!! また来たまた来たまた来たまた来た!!」
村田が怯えた声を上げる。
「?」
炭治郎は違和感を覚える。
彼の鼻腔をくすぐるのは、敵意や殺意では無い。それもあるが、それらを塗り潰すほどの強い恐怖の匂いがする。
夜闇ではっきり見えないが、その鬼の表情も怯えに染まっているようだ。
「どけーーーー!!」
その鬼は、炭治郎達の姿を認めると六つの腕を振りかぶって襲い掛かってくる。
「伊之助!!」
「ち、畜生!! こうなったらやってやる、やってやるぞ!! 猪突猛進!! 猪突猛進!!」
二刀を抜刀すると、伊之助は鬼に向かって突進した。
「我流獣の呼吸・肆ノ牙 切細裂き」
一瞬六斬、双剣が閃き、鬼の六本の腕を全て切り落とした。
無論、その程度では鬼はすぐに再生する。作れる隙は僅か。
だがその僅かの隙でも十二分。炭治郎が一気に間合いを詰める。
「ヒノカミ神楽・円舞」
思い切り振り抜いた刀が、鬼の頸を撥ね飛ばした。
腕と頸を失った鬼の体はがっくりと膝を突き、塵となって風の前に消えていった。
「…勝った」
伊之助は消えていく鬼と、自分が手にした刀を交互に見る。
「勝った…」
手応えを確かめるように、幾度か刀を振った。
「そうだ!! やっぱり俺は強い。強いんじゃあ!! おおおおおおおおおおっ!!!!」
両手を掲げて、雄叫び。短期間であったが修行の成果が出たのを実感し、自信を回復したようだ。
今の二人の戦い振りを見た村田は、眼をぱちくりとさせた。
「お、お前ら…本当に癸なのか? あいつらには俺達が五人掛かりでも相当苦戦したんだが…」
その時、彼等の頭上に炭治郎の鎹鴉・天王寺松右衛門が飛来した。
「カァー!! 竈門炭治郎ォ、十二鬼月下弦ノ弐討伐ノ功績ニヨリ、本日付ケデ階級・甲ニ昇格、昇格ゥ!!」
「えっ!!」
「何っ!!」
それを聞いて驚いたのは炭治郎だけではなかった。村田も、彼の他の隊士達も同じだった。
「なんだ、そんなに強いなら早く言ってくれよ!!」
「十二鬼月を倒したって事は、柱並に強い隊士って事だろ? これは勝てる、勝てるぞ!!」
「それに良く見たら黒い刀とさっきの技は、日の呼吸だ!! 日の呼吸を使う柱並の剣士が来てくれたのか!!」
「勝つぞ!! みんなで生きて帰るぞ!!」
「そうだ、竈門隊士!! 指揮を執ってくれ!!」
先程までは負傷と疲労で動けなかった他の隊士達も、立ち上がって炭治郎に希望に満ちた目を向けてくる。鎹鴉の報告は、彼等の士気を一瞬にして回復させたのだ。
炭治郎としては、このような状況は数分前まで想像もしていなかったものだが…だが、受け止めなくてはならないと腹を括った。
自分が柱に並び立つような、そんな偉大な剣士だと思った事は無い。
でも、今の彼等は信じられるもの、希望を求めてるのだ。
柱ならば折れずに、それを支える事が出来る筈。
たとえこの場限りの仮初めであろうと、自分がそれをすべきなのだ。
「よしっ!!」
パン、と両頬を叩いて気合いを入れる。
「俺と伊之助が前に立って突入します。皆さんには背後の守りをお願いします!!」
「俺が先に行く!! 健太郎は俺の後を付いてきやがれ!!」
「分かった!!」
「竈門君は前だけを見て進んでくれ!!」
こうして、伊之助と炭治郎を前衛とする隊は山中へと入り、麓には善逸だけが置き去りにされた。