手にした人の頭ほどの岩を見詰めながら、炭治郎は立ち尽くしていた。
山のお堂で遭遇した人食い鬼と格闘になり、禰豆子の協力もあって首を飛ばした後に胴体を崖から突き落とし、頭の方は斧を使って上手く木の幹に磔状態にする事に成功した。しかも鬼は今は意識を失っているようだ。
この鬼の匂いは家に残っていたものとも、国士某のものとも違う。
鬼は、沢山居るのだろうか。
トドメを刺しておかなくてはまた人を襲うだろう。
だから俺がやらなくては。
混乱気味の頭で、小刀を抜く。
『やれ!!』
頭でそう命じても、体は興奮状態になり、息が荒く、汗が噴き出す。
山で動物を狩り、捌いた経験はあるが、初めてそれをやった時の感覚を、もっとドス黒くしたような胸のむかつきを覚える。
それでもと足を進めるが、ここで肩に手を置かれて制止された。
「そんな物ではトドメは刺せん」
現れたのは天狗の面を被った男性だった。髪や、皺が刻まれた肌から老人だと分かる。
足音が全くしなかったからか、あるいは極度の興奮で頭が匂いを認識出来なかったからか、すぐ背後に立たれていてもそれが分からなかった。
「ど、どうすればトドメを刺せますか」
「人に聞くな。自分の頭で考えられないのか」
厳しい言葉だったが、炭治郎はほんの半日前に国士某から言われた、自分の歩く道が辛いものになるという話を思い出した。
この老人の言う通りだ。いつだって尋ねられる人が居る訳ではなく、いつだって正しい答えが見付かる訳でもない。
自分で考えるしかない。
小刀で刺してもダメで、首だけになっても動くのなら…後は完全に頭を潰すしかあるまい。
そう思って、近くにあった中で一番大きな岩を手に取った。
頭骨を砕いて完全に潰すには何度も岩を叩き付けなくてはならない。
苦しむだろう。
何か、一撃で絶命させられるような物か、方法は無いものか…
そう考えている少年の背中を見て、老人は諦めを覚えていた。
老いた嗅覚細胞を、優しさの匂いが衝いてくる。
『ああ、この子は駄目だ』
思いやりが強すぎて決断出来ない。鬼を前にしても優しさの匂いが消えない。鬼にすら同情心を持っている。
だから、鬼殺の剣士にはなれないだろう。
そう考えていたが…しかし、そんな彼も次の炭治郎の行動には面食らった。
炭治郎は思い切り体を仰け反らせると、その石頭を手にした岩に思い切りぶち当てたのだ。
ゴッ、と鈍い音が静かな山中に響き渡る。
「ど…どうした」
振り返った炭治郎は額から流血していて、これは老人から見ても相当の迫力があった。ここで、突然の奇行に気を取られていて認識が遅れたが、優しさの匂いはそのままながら迷いの匂いが消え、代わりに強い決意の匂いが取って代わっているのに気が付いた。
「いえ…心して生きていこうと、そう決めていたつもりでしたけど…まだ迷っていた。まだ覚悟が甘かった事が、分かりました」
炭治郎は首だけの鬼に歩み寄ると、岩を大きく振りかぶった。
「その迷いを、これから断ちます!!」
勢い良く岩が叩き付けられ、思っていたよりもずっと固い感触が両手に伝わる。
「ぎゃ、ぎゃあああ!!」
激痛に意識を取り戻した鬼が絶叫する。
耳を塞ぎたくなるような悲鳴。
両手が血に濡れて、生温かさと、肌を伝う感触が気色悪い。
何度か岩をぶつけると、頭骨が砕けていくつもの破片に分かれるのが岩越しに手に伝わる感覚で分かった。
腐臭のような血の臭いは、どんな獣や魚のそれよりも濃く、吐き気を催すようだった。
これほど強く生き物を叩いた事は、生まれて初めてだ。
「ああああああ!!」
獣のように吠えながら、幾度も、幾度も、岩を振り下ろし続ける。
幾度も、幾度も。
そうして何時間も経ったのか、それともまだ数分も過ぎてはいないのか。
そんな時間は、唐突に終わりを告げた。
「もういい」
肩に置かれた老人の手が、凄い力で握られて炭治郎の動きを封じた。
「はあっ…はあっ…」
気が付けば体中汗だくで、服が重くなっている程だった。
いつの間にか、鬼の頭は何処にも見当たらなかった。
木の幹の、磔になっていた箇所から根元、そして地面へと赤い色が一本の太い線を引いたように続いていて、炭治郎が岩を最後にぶつけた所には、血溜まりが出来ているだけだった。
それでも、その地面に出来た赤いシミから、虫の鳴くような声が微かに聞こえてくる。鬼はまだ、こんな形を留めない状態となっても絶命してない、生きているのだ。
これでも駄目ならどうやってトドメを刺せば…
そう、炭治郎が思った時に、視界の端から光が差し込んできていた。
鬼と格闘していた時には月が天頂にあった気がしたが、いつの間にか夜が明けていたのだ。
朝日に融けるようにして、木の幹や地面、それに炭治郎の体や手に付いた血が消えていく。鬼の細胞が太陽の光によって灼かれ、滅却されているのだ。
鬼が日の光に当たったらこうなる事に、炭治郎は衝撃を受ける。禰豆子や国士某が、陽光に当たりたがらない訳だ。その禰豆子はお堂の中に置かれていた箱の中に避難しているのを確認する。
ではあの老人はどうなったのかと姿を探して…お堂のすぐ脇にしゃがみ込んでいるのを見付けた。彼は合掌していて、その前には土を掘り返して埋めたような盛り上がりがあった。鬼に殺された人達を埋葬してくれていたのだ。
「あの…」
どう声を掛けたものかと、おずおずと炭治郎が近付くと、老人は立ち上がって彼を振り返った。
「儂は鱗滝左近次だ。義勇の紹介は、お前で間違いないな?」
「は、はい。竈門炭治郎といいます。妹は禰豆子で…」
「炭治郎。妹が人を食った時、お前はどうする」
唐突に投げかけられた問い。
炭治郎は真っ直ぐに鱗滝翁を見据え、答える。
「その時は……その時は、俺が禰豆子を殺して、俺もすぐ後に腹を切って、禰豆子が食ってしまった人とそのご家族にお詫びします」
国士某から聞かされた、かつて鬼を連れた鬼狩りの剣士がそう心して生きたように。
自分もまた同じ覚悟が求められている。
体を壊すかも。心を病むかも。全てを失い二度と目を開けぬかも。
そんな未来が、明日にでも訪れるかも知れぬ。
そして自分が妹を連れていたが為に、罪無き人が自分と同じ喪失の痛みを味わう事になるかも…
それでも。
妹を治すこと、家族の仇を討つこと。
他には何も望まない。鬼殺の剣士にならなければ、その望みは叶わない。
剣士を目指すのではなく、剣士になる他の道は無い。
だから、その道を行く事が自分の揺るぎない決意なのだ。
「お前の覚悟は分かった」
頷いた鱗滝翁のしわがれた声は、少しだけ柔らかくなったようだった。
「一つだけ言っておこう。そういう覚悟があるからといって鬼を連れていて良いものではない。それは決して起こってはならない事だと、肝に銘じておけ。罪無き人の命をお前の妹が奪う。それだけは絶対にあってはならない。分かるな、炭治郎」
「はい!!」
力強い声だった。
鱗滝翁はもう一度、頷いた。
「…では、これからお前が鬼殺の剣士となるに相応しいかを試す。妹を背負って付いて来い」
「はい」
炭治郎がお堂の中に入って、禰豆子が入った箱を背負って駆け出してくる。
「…?」
ここで、鱗滝翁はこのお堂が建つ空間の、ある一点をじっと見詰めていた。
「どうしたんですか?」
「…いや、何でもない。気のせいだったようだ。行くぞ」
そう言って鱗滝翁が走り出し、それを追って炭治郎が駆け出して、この境内には誰も居なくなった。
そこで、木陰になっていて日が当たらない場所。
先ほど、鱗滝翁が見詰めていたその空間から、ずるりと抜け出すようにして侍が姿を現した。
「励む…事だ」
余人に非ず、国士某であった。
「だが炭治郎…やはりお前は運が強い…ようだ」
少なくとも他の者よりは望みが叶うその可能性が、たとえ一厘に満たぬほどであろうと、高くはある。
国士某の六つの視線が、手にした眼のような紋様が描かれた紙札に落ちる。
「あの育手の老人…元、柱か…気配を絶ち…血鬼術で姿を隠していた私を…見付ける事は…出来なかったが…恐らくは音の反響や空気の流れからか…僅かな違和感を覚えては…いたのだな…」
この先炭治郎が晴れて鬼殺の剣士に成り、妹を人に戻せるのか。それとも何者にも成れず、果てるのか。それは人智では計り知れない、天のみぞ知るというものであろうが…
「武運長久を…祈るぞ」
国士某は手にした札を額に貼り付ける。すると彼の姿は、煙が掻き消えるように見えなくなり、この山のお堂には再び時が止まったような静寂が満ちた。