これは今から四百年前の話だ。
紅い月の夜だった。
草原には異様な光景が広がっていた。
大地に無数の亀裂が走っていて、何かが爆ぜるような音がひっきりなしに響いている。
空間には、星のような火花が生まれては散り、消えていく。
とりわけよく聞こえるのは、妙に透き通った剣戟の音。
あらゆる異常の源は、二つの人影であった。
「日の呼吸・参ノ型 烈日紅鏡」
二連撃がその速さ故にほぼ同時に繰り出される。
「月の呼吸・拾漆ノ型 臥待月・宵闇崩し」
迎え撃つは巨大な刃が空間それ自体を埋め尽くすほど同時に放たれる血鬼術の斬撃。
ただ刃渡りの部分でしか斬る事が出来ない刀と、その幾十倍もの殺傷範囲を持つ血鬼術。
しかしながら両者の激突は、血鬼術の刃が悉く砕き散らされて互角に終わる。
超常の攻防の只中に居るのは、二人の侍。
遠目の人影は両者共に同じようではあるが、しかし近付いてみれば決定的に違うことは明らかであった。
一方は総髪が白く染まり、顔や体には年輪のように皺が深く刻まれている。身長は高いが全体的に肉が落ちてほっそりとしていて、腕にもまだ筋肉は残っているが枯れ木のように頼りなかった。
もう一方はその面貌には人ならざる六眼が爛々と光り、大柄な体は全盛期そのままに瑞々しく、着物の裾から覗く腕はたくましかった。
継国縁壱と国士某。
同じ日に、同じ命を分かち合って生まれてきた双子の兄弟。
ある時までは対面に姿見を置いたかのように瓜二つであった二人は、今は残酷なほどに変わってしまっていた。
巌勝の残骸、国士某は鬼になった以外は昔と何も変わらない。切ないほどに。
縁壱は年老いた。切ないほどに。
鬼と人、永遠の命を持つ者と定命を持てる者。
それが彼等の断絶をこれ以上無いほどに突き付けていた。
二人はこれまで数えきれぬほどに立合い、言葉に勝るものを剣で語り合ってきた。
何万合? 何百万合? あるいは億の位に達するやも知れぬ。
だが今日この日、これから始まるほんの一分余りの立合いは二人の極限の集中と精神的高揚、そしてこれまでの時の中で磨き抜かれた技の全てが噛み合って、それら全てを凌駕するほどの濃度となって交錯した。
これで、終わる。
二人ともそれが分かっていた。
日の呼吸
壱ノ型 円舞、弐ノ型 碧羅の天、参ノ型 烈日紅鏡、肆ノ型 灼骨炎陽、伍ノ型 陽華突、陸ノ型 日暈の龍・頭舞い、漆ノ型 斜陽転身、捌ノ型 飛輪陽炎、玖ノ型 輝輝恩光、拾ノ型 火車、拾壱ノ型 幻日虹、拾弐ノ型 炎舞
月の呼吸
壱ノ型 闇月・宵の宮、弐ノ型 珠華ノ弄月、参ノ型 厭忌月・銷り、肆ノ型 幽月・花残し、伍ノ型 月魄災渦、陸ノ型 常夜孤月・無間、漆ノ型 厄鏡・月映え、捌ノ型 月龍輪尾、玖ノ型 降り月・連面、拾ノ型 穿面斬・蘿月、拾壱ノ型 待宵月・凩、拾弐ノ型 十六夜月・欠ぎり、拾参ノ型 立待月・白波、拾肆ノ型 兇変・天満繊月、拾伍ノ型 居待月・宵裂き、拾陸ノ型 月虹・片割れ月、拾漆ノ型 臥待月・宵闇崩し、拾捌ノ型 更待月・影法師、拾玖ノ型 有明月・残照、弐拾ノ型 暁月・天霏き、弐拾壱ノ型 朔月・墜ち鏡、弐拾弐ノ型 望月・砕華輪、弐拾参ノ型 月蝕・禍津環、弐拾肆ノ型 交差月・慟哭ノ輪、弐拾伍ノ型 双月・影降ろし、弐拾陸ノ型 乱れ月・宵時雨、弐拾漆ノ型 斑月・斬閃輪、弐拾捌ノ型 月冴ゆる・氷輪、弐拾玖ノ型 晦月・哭ノ残光、参拾ノ型 満月・孤絶天輪
ありとあらゆる技が尽きる事なく、果てしなくぶつかり合う。
時を忘れ、心技体に全ての曇りが消え、生も死も越えていく。
日の呼吸・拾参ノ型
月の呼吸・参拾壱ノ型
絶技という絶技が惜しげも無く放たれて、二人は一時たりとも留まらず、その様は刃と刃の円環・息の合った舞踊のように見える。
そして、終わりが訪れる。
縁壱の刃は国士某の頸一寸の所で静止し、国士某の刃は縁壱の胴、着物を刃先が僅かに斬った所で止まっていた。
引き分け・相討ち。
振り切っていれば縁壱の日輪刀は兄である鬼の頸を落とし、国士某の刀は弟の体を上下に二分したであろう。
数分もそのままの姿勢でいた後、兄弟はどちらからともなく刀を引いた。
刀を鞘に納める。その時の鍔鳴りがやけに透き通っていたようであった。
「結局…私は…最期まで…お前に…勝てなかった…か…」
国士某は自嘲するようにそう言って、頭を振った。
「なに、兄上はこれより先まだまだいくらでも強くなられます。私には分かる。兄上を必要とされる人の為に」
「左様…か…」
ここで縁壱は手頃な岩を見付けると「よいしょ」と腰を下ろす。
「今日が…最期…なのだな…」
「ええ」
沈黙が降りる。
別離の時はもうすぐそこにまで迫っているのに、互いに何も言い出せぬまま大切な時間が無為に過ぎていく。
切り出したのは、弟の方であった。
「兄上」
「む…何か…」
「鬼殺隊を離れてより、この七十余年…多くの事がございました」
「…うむ…」
「辛い事、哀しい事も多くありましたが…ですが…楽しかった。良き旅であったと、今では心よりそう思います」
「そう…である…な…この旅は…楽しかった…これに嘘は…無い…」
国士某は片膝を突くと、弟と目線を合わせた。
「伝える事は…ないか…」
縁壱はこれを聞いて僅かな時間、宙に視線を泳がせて言葉を探していたようだった。
「兄上の事は、何も心配しておりませぬ。今まで一度も人を襲われなかった。この先もそうなのでしょう。流石は私の兄上。この国一番の侍です。どうか、お体を愛われますよう」
「鬼の私に…それを…言う…のか…?」
少しだけ疲れたように、縁壱は口角を上げた。
「そうですね。おかしなものです」
このやり取りをきっかけに、とりとめも無い話が続いていく。
他にもっと大切な、伝えるべき事があるのかも知れないが、不思議と言葉が尽きなかった。
およそ、一刻(二時間)ほどの時が過ぎる。
「そろそろのようです」
「そう…か…」
「これを」
縁壱が懐から取り出したのは、小さな包みだった。
国士某がそれを受け取ると、指先に固い感触が伝わってくる。
幼少のみぎり、巌勝から弟に贈られた物であった。
『助けてほしいと…そう…思ったなら…吹くが…よい…すぐに…私が…助けに…参る…故に…何も心配は…不要也…』
その、言葉と共に。それから八十年余年に渡る時の中で、ずっと縁壱の宝物だった。
「もう私には必要無くなりますので。お返し致します」
「…望みは…ないか…何なりと…言うが…よい…」
また僅かな時間だけ縁壱は考えた後で、口にした。
「では、それを吹いていただけますか。兄上が奏でてくださる、その音色を聞きながら…眠りたいのです」
兄よりずっと年上の姿になってしまった弟はそう言って、微笑しながら瞑目した。
その言葉が、最後だった。
国士某が紐を解いて、包みの口を開く。取り出されたのは竹製の、手作りの笛。
それから小半刻(30分)ほどの間、拍子の外れた笛の音色が夜の平原に静かに響いていった。
ベンと、琵琶の音が鳴る。
下弦の肆・零余子は突如として眼前の光景が変容した事に戸惑っていた。
眼に入るのは上下左右の全てが歪な、扉や襖・階段がメチャクチャに配置されて絡み合ったような異空間。
再び、ベベンと琵琶の音がして視線を向けると、琵琶を抱えた着物姿の女の鬼が見えた。彼女の血鬼術であろうか。この空間のねじれ・歪みは彼女を中心として広がっているように見える。
視線を動かすと、もう一人鬼の姿が見えた。下弦の壱だ。
他の下弦の鬼はまだ来ていないのであろうか。それに上弦の鬼の姿も無い。
また琵琶が奏でられると、零余子は下弦の壱・魘夢と並び立つように転移していた。
この強制的な瞬間移動は、やはり血鬼術。
下弦の鬼達より一段高い台座に立つのは、琵琶の女とは別の、一人の女の鬼。
見覚えは無い。何者なのか?
だがその疑問は、すぐに氷解する。
「頭を垂れて蹲え、平伏せよ」
傲然と命令が下る。
下弦の壱と肆は、二つの要素によって土下座する。一つは当然ながら彼等自身の意思。もう一つは彼等の中に流れる血が意思に関わらず肉体を動かしてそうさせた。鬼に対してそのような強制力を持つ者など、この地上に唯一無二。
全ての鬼の始祖たる鬼舞辻無惨。
聞き違う筈も無い、主の声。
だが声を聞くまで、そうとは分からなかった。姿も気配も以前に二人が知るものとは全く違っていた。
鬼は姿を変える事は出来るが、その鬼の基準で見ても異常と言わざるを得ない、凄まじい精度の擬態だ。声を聞くまで完全に別の鬼だとしか思えなかった。
「も、申し訳ございません。お姿も気配も異なっていらしたので…」
「誰が喋って良いと言った?」
無慈悲に、頭上から言葉が降ってきた言葉が弁明を中断させる。
「貴様共のくだらぬ意思で物を言うな。私に聞かれた事のみに答えよ」
沈黙が降り、自分の言葉が理解されたことを確認すると無惨が再び口を開いた。
「累が殺された。下弦の伍だ。私が問いたいのは一つのみ。『何故に下弦の鬼はそれほど迄に弱いのか?』。十二鬼月に数えられたからと言って終わりではない。そこからが始まり。より人を喰らい、より強くなり私の役に立つ為の始まり」
言葉が一言発せられるごとに、空間それ自体の重みが増してきて、平伏している肩や背中にのしかかってくるようであった。
「ここ百年余り十二鬼月の上弦は顔触れが変わらない。鬼狩りの柱どもを狩ってきたのは常に上弦の鬼達だ。しかし下弦はどうか? 何度入れ替わった? いやそもそも、貴様らがこの百年の中で、六体全て顔を揃えた事が一度でもあったか? 私がいくら血を与えても与えても、与えたその端から斬られては死んでいく。それどころか最近では、一度は数字を剥奪したが改めて私が血と共に再び下弦の席を与えたのに、鬼狩りと一戦も交えずそれどころか自ら頸を差し出す者まで現れた。これは一体どういう事だ」
『そんな事を私達に言われても…』
「『そんな事を私達に言われても』なんだ? 言ってみろ」
びくりと、跪いたままの体が震え上がる。
『心が読めるの? まずい』
「なにが『まずい』? 言ってみろ」
ずいと、無惨が台座から降りて進み出てきた。
「私よりも鬼狩りの方が怖いか?」
「…い、いいえ!!」
「お前はいつも鬼狩りの柱と遭遇した場合、逃亡しようと思っているな」
「いいえ思っていません。私は貴方様の為に命を懸けて戦います!!」
「お前は私が言う事を否定するのか?」
また一歩、無惨が近付いてきた。
「前々から思っていたが…累が殺された今、最早十二鬼月は上弦のみで良いと結論した。下弦の鬼は本日を以て解体する」
無惨の表情にはもう怒りも憎悪も無い。
これは脅迫や交渉ではない。
単なる決定された事項の通達に過ぎないのだ。
「お、お願いします。鬼舞辻様、どうか、どうかお慈悲を。何卒…一度、今一度だけ機会を頂ければ、必ずやお役に立ってみせます」
「具体的にどのような役に立てる? 今のお前の力でどのような役に立てる?」
「そ、それは刺し違えてでも柱を…」
決死の覚悟で絞り出した言葉だったが、主には響かなかったようだ。
「お前は何か思い違いをしているようだな。たかが柱、それを始末するのが何だと言うのか? 鬼が人間に勝つのは当たり前の事だろう。私の望みは鬼殺隊の殲滅、一人残らず叩き殺して二度と私の視界に入れぬ事だ。お前にそれが出来るとはとても思えないが」
「そ…それは…その…そ、そう、血を!! 貴方様の血を分け与えて頂ければ、私は必ず血に順応してみせます。より強力な鬼となって貴方の為に戦います!!」
「何故私がお前の指図で血を分け与えなくてはならぬのだ。甚だ図々しい、身の程を弁えろ」
「ち、違います。違います違います、私は…」
「黙れ。何も違わない、私は何も間違えない。全ての決定権は私にあり、私の言う事は絶対である。お前に拒否する権利は無い。私が正しいと言った事が正しいのだ。お前は私に指図した。死に値する」
お仕舞いだ。
思考は読まれて肯定しても否定しても殺される。戦って勝てる訳も無い。
『逃げるしかない、なんとか逃げ…』
零余子の思考はそこで途切れて、意識は闇に沈んだ。二度と明ける事の無い永劫の夜の中に。
同僚が先程まで存在したそこには、今は夥しい血の染みが残るのみ。
下弦の壱・魘夢はそれには一瞥もくれず、主だけをじっと上気した表情で見詰めていた。
「最期に言い残す事は?」
問われて、「ほう」と一息吐いて答える。
「そうですね。私は夢見心地にございます。貴方様直々に手を下して戴けること。下弦の肆が追い詰められていく様を見れて、楽しかったです。人の不幸や苦しみを見るのが大好きなので。夢に見るほど好きなので。私を後に回してくださって、ありがとう」
言い切ると同時に、異形に変形した無惨の右腕の爪が首筋に突き立てられた。
爪を通して、血が魘夢の中に送り込まれる。
「ガァ、ァツ、アアアアア!!」
鬼の始祖の血・細胞の勢いは強く、瞬く間に魘夢の全身数十兆の細胞を侵食して取って代わり、行き着く果てに自滅があろうとも構う事無く増殖して全身に灼けるような苦痛を走らせる。
「気に入った。私の血をふんだんに分けてやろう。ただしお前は血の量に耐えられずに死ぬかも知れない。だがもし順応出来たのなら、更なる強さを手に入れるだろう。そして私の役に立て。鬼狩りの柱を殺せ。特に…耳に花札のような飾りを付けた鬼狩りを殺せば…」
吐血してのたうち回る魘夢の耳には、殆どの言葉は自分の悲鳴と混じって鮮明ではなかった。
最後の、只一言を除いては。
「もっと血を分けてやる」
これだけは、一際大きく耳に響いた。
それだけ言うと、無惨はもう全ての興味を無くしたようである。
琵琶の音色と共に空間の歪みの中へと姿を消す。
その後幾度か琵琶が鳴って空間が動き、魘夢は町中であろう通常空間へ捨てるように放り出された。
『何だ? 何が見える?』
未だ肉体を食い荒らして暴れ回る無惨の血が、そこに刻まれた記憶を直接頭脳へと送り込んでくる。
浮かんだのは、確かに耳に花札のような飾りを付けた、額に痣を持った少年の顔。
「うふ、ふふふ。柱とこの子供を殺せば、もっとあの方から血を戴ける。夢見心地だ…」
死を意識するほどの激痛の中で、しかし魘夢は笑う。
その日の事を妄想して。
「それは…良かったな…夢見心地の中…笑って…死ねる…人生とは…まさに…一片の…悔いも…無し…」