この大正時代、田舎ではまだまだ開発が進んでおらず夜となれば深い闇に包まれる町や村は多い。対照的に、発展した都市部では街灯によってまるで昼間と勘違いするかのような輝きを放つ場所もある。浅草もそうした場所の一つである。
その浅草の少し大通りから離れた小道で、犬の吠え声がひっきりなしに響いていた。
「こらタロ。どうしたんだ?」
犬の首から伸びた紐を引く少年は困った顔だ。普段は大人しくてこんな無駄吠えする犬ではないのだが…
それにしても、一体何に対してこんなに興奮しているのか。彼の犬は、何も無い空間へ向けて幾度も吠えている。
飼い主からは見えないが実際にはこの時犬が吠えているその先では、六つの眼を持ち腰には刀を佩いた、異形の侍がそこを歩いていたのだ。
侍、国士某は迷い無い足取りで進むと、行き止まりに突き当たる。
しかしそのまま立ち止まらずに前進すると、彼の体は壁に沈み込むように入っていき、濃厚な蜃気楼のようなそれを抜けた先には、洋風の屋敷が建っていた。屋敷の入り口には、彼の額に貼り付けてあるのと同じ、眼のような紋様が描かれた札が貼られている。
これは鬼の異能・血鬼術の一つで目隠しの術。
国士某の姿を衆目から隠しているのも、道に壁の幻影を出現させているのも同じ力だった。
鬼の侍は勝手知ったる様子で屋敷の扉を開けると廊下を進み、薬品の匂いのする部屋へと至った。
「珠世殿…私だ。今…戻った」
「どうぞ」
内側から女性の声がして、入室する国士某。
ベッドや薬品棚が並び、壁には人体の構造図などが貼られたその医務室には、割烹着姿の妙齢の女性が机に腰掛けて、幾つかの薬品を混ぜ合わせて調合を試しているようだった。珠世と呼ばれた彼女は、実験の手を止めると立ち上がって恭しい礼の仕草を見せた。
「無事なお姿を見れて、ほっとしています」
「これを…」
国士某は懐から3つの小瓶を取り出して、机に置いた。
瓶に貼られたラベルにはそれぞれ「下弐」「下参」「下肆」と書かれている。
「今回の旅では…下弦の弐…下弦の参…下弦の肆を…斬ってきた…これらは…奴等の血だ」
「いつもながら、ありがとうございます。これでまた、研究が進みます」
「礼など不要…貴女と違い私は…この腕以外に…提供出来る物の無い…武辺者故に」
「まぁ…あんたは無事に決まっているな」
後ろから掛かった声に二人が振り返ると、そこには書物を抱えた書生風の少年が立っていた。
「愈史郎か…お前の術にも…助けられている」
「珠世様の頼みであるから、あんたには特別に俺の術を貸しているんだ。あんたの台詞じゃないが俺にも礼は不要だが…ならば貸した物に十倍する働きをしてもらわねば困るぞ」
「お止しなさい、愈史郎」
「はい、珠世様」
窘められて、愈史郎と呼ばれたその少年の鬼はすぐに背筋を正した。
「国士某さんは十二鬼月からの血の採取の他に、私達の警護もしてくださっているのですよ」
「それは分かっていますが…」
明らかに不承不承という様子ながら、愈史郎は一応矛を収めた。
「だが国士某。あんたが持ってくるのはいつも下弦の鬼の血ばかりだ」
今度は突っかかるのではなく純粋な質問だった。
「より鬼の始祖に近い、上弦の鬼の血があれば俺達…いや、珠世様の目的である鬼を人間に戻す治療法の確立と、鬼舞辻無惨の抹殺にもぐんと近付くだろうに」
「愈史郎」
咎めるような声色になる珠世だが、今度は国士某がその言葉を制した。
「それとも…あんたでも負けるほど、上弦の鬼は強いのか?」
ともすれば侮られたと感じて怒り出しても不思議ではないような物言いであるが、国士某は少しも感情の動きを見せなかった。
「答えよう…上弦の鬼を斬る事は…私なら造作も無い…たとえそれが…上弦の壱であろうと」
その言葉は虚勢や自信過剰の類ではなく、只の事実を淡々と述べているような落ち着きがあった。
「ならば」
「造作も無いが…だが下弦のように…一太刀で葬る事は…私にも…不可能」
逆に捉えるなら下弦の鬼なら一太刀で葬れるし、上弦も葬る事それ自体は全く問題無いと国士某は言っている。
十二鬼月は、鬼舞辻無惨からより多くの血を分け与えられた直属の配下、つまり全ての鬼の中で上位十二傑に数えられる強力な鬼達であるが、その大言壮語に、珠世も愈史郎も少しも疑問を感じてはいないようだった。
そして誰よりも、国士某自身がそれを疑っていない。
「十二鬼月は…鬼舞辻とその濃い血の繋がり故に…彼等が見聞きしたものは…そのまま…鬼舞辻に伝わる…上弦の鬼を斬る際に…私の姿を見られ…生存を知られたなら…奴は即座に…行方を眩ますであろう…そうなったら次に…姿を現すのはいつか…? そもそも…捕捉できるのか…? 見当も…付かぬ…そうなったら…我々の…負けだ」
「では…鬼舞辻無惨に直接相対したとしたらどうだ? その場合、あんたなら勝てるのか?」
「不可能…だ」
国士某は即答した。
「私が鬼舞辻無惨と…戦った場合の結果は…良くて相討ち…何より奴は…誇りを持った侍でも…感情に左右される人間でもなく…生きる事それだけに…固執する生き物…僅かでも危険を感じれば…逃げるであろう…特に…体を幾千の肉片にして…逃走されるのは…分かっていても…防ぎ難い…せめて…それを封じる手段が…必要となる」
「面倒だな」
愈史郎は舌打ちした。
「羅馬は一日にしてならず…そういう言葉がありますからね。私もずっと、その為に研究を続けてきたのですから。焦りは禁物ですよ」
珠世はそう言って話を締め括ると、ところでと前置きして話題を変える。
「国士某さん、明日は例の杣人の一家に、毎月の付け届けをする日ですよ」
「む…そうであった…な」
壁に掛けられた日捲り式のカレンダーの日付を見て、国士某は頷いた。これはほんの十年ほど前に大阪の心斎橋で作られた流行り物である。
珠世は立ち上がると、棚に置かれていた包みを国士某の前に広げた。
「生活費の足しにする為のお金と…コレラやチフスの薬、栄養剤なども入っています。その一家の、ご内儀の様子はその後どうなのですか?」
「一時期は…危篤であったが…今は珠世殿の薬のお陰で…元気を取り戻したようだ」
「それは良かった。私も鬼である以前に医師ですから、励みになります」
「まぁ、珠世様の薬だ。当然の結果だな」
我が事のように、愈史郎の声は弾んでいた。
「孝行したい時分に親は亡し…という…まだ十を少し過ぎたばかりの子供達が…親を亡くす羽目に…ならなかったのは…貴女のお陰だ…珠世殿…感謝する」
深く、国士某は頭を下げる。珠世は慌てて頭を上げるように促して、愈史郎はこれが正しい態度だとばかりに胸を張った。
「良いのですよ。それで親だけではなく…子供達も救われたなら、私も嬉しいです」
「思えば…人であった頃…孝行の…その真似事が出来ただけでも…私達は…幸運で…あった」
「親孝行…ですか…」
珠世の瞳がすっと細くなって、瞳が揺らぐように潤んだ。
「差し支えなければ教えてください。国士某さんのご両親は、どんな方だったのですか?」
「…父は…武家の当主であり…厳しく…母は…物静かで…穏やかな人で…あった」
鬼の侍の六つの眼が、遠くに思いを馳せるように天井へ向けられる。
「私達子供は…双子で…母は二人の出産が原因で体に負担が掛かり…病を患ったようであり…身罷られる幾年も前から…私は母の不自由になった左半身を支え…私が居ない時は…弟が…それをしていて…父にはそれを見られる度…いつまで経っても親離れ出来ぬ…軟弱者…それでも武家の跡取りかと…殴り飛ばされた」
そこまで語って、国士某は追憶の世界から戻ってきたようだった。
「今となってはその痛みも…喪失の悲しみも…人間であった証…良き思い出だ」
机上の包みを再び結ぶとそれを持ち、立ち上がる国士某。これは話は終わりだという意思表示だ。
今の昔語りは、彼のほんの気まぐれであったようだ。あるいは彼にとって繊細な部分であったのか。
「では…私はまた旅に出る…警戒は努々…怠らぬよう」
「お気を付けて」
「珠世様の事は、俺に任せておけ。あんたは何も心配せず、自分のやるべき事をすれば良い」