鬼殺隊の専用医療施設である蝶屋敷で働く神崎アオイは、割烹着の下に身に着けている隊服からも分かるように、最終選別を通過した正規の隊士である。にも関わらず前線に出て鬼と戦わない、と言うより戦えないのには理由がある。
アオイは多くの鬼殺隊の隊士がそうであるように鬼によって孤児となり、鬼狩りの剣士となる事を志し訓練を積んで水の呼吸を学び、そして藤襲山での最終選別に臨んだ。
しかしそこで待っていた現実は、想像を遙かに超えるものだった。
初日の晩からいきなり、鬼と遭遇した。
自分を食おうと、飢えた鬼が牙を剥き出しにして襲いかかってくる。
覚悟は出来ていた筈だったのに、その覚悟が如何に甘かったかを思い知らされた。
押し倒されて、咄嗟に噛み付いてきた口に刀の鞘を咥えさせて防ぐ。
しかしこの体勢からでは鬼の膂力を押し返す事もままならず、自分の人生もこれで終わりかと、諦めかけたその時だった。
薄い紙を二つに裂くように、鬼の首があまりにも呆気なく切り離されて、体が崩れて消えていく。
そこに立っていたのは、自分よりもまだ幼い子供だった。
双子なのだろうか。どちらも同じ顔で、違う所と言えば一方は身に着けている紫色を基調として、三日月模様の柄をした特徴的な羽織が目を引いた。今、彼女を襲っていた鬼を斬ったのはこの羽織を着た方の少年だ。
「大丈夫?」
羽織を着ていない方の少年が、手を差し伸べてくる。
「あ、ありがとう…」
戸惑いながらも、その手を取って立ち上がるアオイ。
「何してる? もう行くぞ」
羽織を着た方の少年が、面倒臭そうに言った。
「兄さん、そんな言い方…この人だって同じ剣士を目指す仲間で…」
「こんな試験で人に助けてもらえないと生き延びられないなら、剣士になったっていずれ死ぬだろ。これ以上、そんなのに構ってる余裕は無いよ」
そう言って、もうアオイには興味を無くしたように歩いて行ってしまう。
羽織を着ていない方の少年は、兄さんと呼んだ彼とアオイとを見比べて困っていたようだったが、やがて決心したようだった。
「えっと…出来るだけ日当たりが良い東へ移動して…それから、出来れば…丈夫そうな岩場や大きな木の陰とか、鬼がどっちの方向から襲いかかってくるか分かるような場所を見付けて…それで何とか頑張って…じゃあ」
同じ顔の少年を兄さんと呼んでいたから、彼は双子の弟なのだろうか? そう言い残すと、兄の後を追って行ってしまった。
アオイはしばらく呆気に取られていたが、言われた通り攻守に適した拠点を見付けて、そこから先は七日目までどこから鬼がやってくるのか、恐怖に身を灼かれながらずっと過ごして、結局そこから先は一匹の鬼とも出くわさず一匹の鬼も倒さずに彼女は最終選別を通過した。
その時の経験を思い返すと、今でも身が竦む。
それでも、思い返すのはあの時に出会った双子。
自分よりも小さい子供が、それも二人も命を懸けて鬼殺の剣士となるべく戦っている。
なのに自分が、戦う事を恐れていてどうするのだ。
そう決意して、剣士としての任務に出る。
幾つかの任務をこなしていく中でなんとか生き延びて鬼を狩り、こんな自分でもなんとかやれる。鬼を狩り、一人でも多く罪の無い人達を、理不尽な暴力から救える。
ささやかながら自信を得ていって、これなら行けるかもと、そう思っていた矢先の事だった。
幾人かの隊士との合同任務だった。隊長となっていたのは甲階級の腕利きの隊士。彼以外の隊の剣士も皆アオイより階級が上でとても強く、稽古ではどんなに頑張っても一本取る事も出来なかった。
そんな強い剣士達が、遭遇した下弦の弐によって一瞬の内に全滅させられた。
アオイの刀も折れて、最早これまでかと思われたその瞬間、何の前触れも無くその鬼の頸がすっ飛んだ。
下弦の弐は糸が切れた人形のように、体が倒れながら崩れて塵になっていく。
援軍の隊士が来てくれたのだろうか?
「あ、ありが…」
礼を言い掛けて、全身が凍り付いた。
月を背にして自分を見下ろしていたのは、赫い刀を手にした侍。
だが人間ではない。その証である六つの眼が、尻餅を搗いた自分を見下ろしている。
癸階級とは言え、アオイも既に幾つかの実戦を経てきた剣士である。だから、分かる事がある。
今自分の目の前に立っているのは、部隊を全滅させた下弦の弐が蛍だとすればまるで月。比べる事すら失礼に思うような、そのような威厳すら漂わせる重厚な空気を纏った全く別次元の存在であると。
もう、恐怖も感じない。
圧倒的強者の前に、ただ諦めるしか無い。
それまでは折れても、構えて切っ先を向けていた日輪刀を、アオイは手放してしまった。
死ぬと思った。後はこの鬼が手にした刀が、鬼殺隊が鬼にそうするように自分の頸を刎ねるか、脳天から真っ二つにするか…
だが、そうはならなかった。
夜の呼吸 弐ノ型 珠華ノ遊月
一閃が走り、六つ目の鬼がその剣を防いで空間に火花が散る。
風のように現れたのは、あの時、最終選別で彼女を助けてくれた双子の少年だった。
紫色で三日月模様の羽織はそのままに、手にした紫色の日輪刀には「悪鬼滅殺」と、柱の刀にしか許されない文字が刻まれている。
「大丈夫?」
「ひっ」
肩に手を置かれてびくりと振り返ると、そこには今、鬼と相対しているのと同じ顔があった。最終選別で会った双子の、弟だ。
手にしている刀の色は白。こちらにも「悪鬼滅殺」の銘が刻まれていた。
『あぁ…そうか…二人とも…こんな早く、柱になったんだ』
同期でどちらも自分よりも幼いのに、非才な自分とは全く違うものを持っている。
こんな子供が二人も柱になっているのは驚いたが、だがそこから起こった出来事は、更なる衝撃をアオイに与えた。
兄は猛然と鬼に突進して見た事も無い剣技を繰り出す。その動きは速い。ある程度の距離を隔てているにも関わらず、アオイには彼の太刀筋や腕の動きどころか、体捌き自体がまるで見えない。
そんな剣技が、当たらない。
鬼の侍は回避動作を取っている訳ではない。むしろその場で突っ立っているようにしか見えない。
なのに、剣が当たらない。
まるで兄だけが、鬼侍が立っている所を中心に独り相撲を踊っているようにすら見える。
恐らく、実際にはあの鬼は兄の太刀筋を完全に見切ってほんの僅かな、必要最小限の動きで避けているのだろう。
だが、柱を相手にそんな事が出来る鬼が居るとは想像もしてなかった。
やがて、鬼の方が反撃に転じた。
横薙ぎに対して横薙ぎ、唐竹割りに対して唐竹割り、連続攻撃に対して連続攻撃。
全て、同じ攻撃で迎え撃つ。
同じ太刀筋、同じ技。
だがそのどの技も、柱の少年である兄よりも速く、強かった。
ぶつかり合う同じ技は、全て兄の方が競り負けて、弾かれる。
何合も打ち合って倒されたが、兄はすぐに立ち上がって、些かも闘志は衰えていないようだったが…
その時だった。
いきなり、鬼の姿が消えて、次に現れたその時には兄の鳩尾に拳が入った。
「兄さん!!」
兄は呻き声も上げられず、がっくりと倒れて意識を失ったのか、動かなくなる。
それを見届けると、鬼の六つの眼がアオイと弟を向いた。
「貴様あっ!!」
弟が悲痛な叫び声を上げて、白刀を振りかざして鬼へと突進していく。
体力配分など全く考えていない、全段全力攻撃。
侍鬼はその攻撃を全て防ぎつつも、しかしその場からビクとも動かない。
そうしてどれほど時間が過ぎたのか。
ものの五分なのか、一時間なのか。
勝負のすさまじさを見せ付けられ、足が竦んで動けないアオイがふとそう思った時に、援軍が駆け付けてきた。
蝶の柄の羽織を身に着けた女性の剣士だった。彼女の細い日輪刀にも、これも「悪鬼滅殺」が刻まれていた。彼女もまた、柱だったのだ。それに女性の隊士が二人。後で知った事だが、彼女達はその柱の継子で、三人が弟に加勢して、四対一。
しかしそれでも、侍鬼は少しも動じず、手にした刀の他に、どこから取り出したのかもう一振りの刀を手にした二刀流で応じると、全方位から繰り出される剣撃を全て防いでいく。
誰の剣も、その鬼には切っ先一寸とて掠りもしない。
だがそうしている間に遂に夜が明けて、その鬼は逃げていった。
結局、隊で生き残ったのはアオイ一人だった。
その夜、思い知らされた事。
自分よりずっと強い剣士が居て、そんな隊士を一瞬にして殺してしまうのが十二鬼月であり、その十二鬼月を一刀の下に屠り去る鬼が居る。最強の剣士である柱ですら、二人掛かり、継子も含めれば四人掛かりでも倒せない。
そんな絶対的強者が存在するのを知ったら、もう戦えなかった。
恐怖を通り越して、諦めるしかなかった。
こうした経緯から、アオイは後から援軍に来た柱、胡蝶しのぶが所有する蝶屋敷にて医療班として働く事になったのだ。