冬の夜。
冷たい風が町を吹き抜け、窓ガラスに白い息が映る。
月は雲間から顔を覗かせ、淡い光を地上に落としていた。
その光の裏側――誰も見ない月の影に、墨色の制服をまとった朧が現れる。
肩から下げた鞄には、言葉にならなかった感情を封じる黒い封筒が静かに収められている。
いつものように彼は静かに歩き出す。
その夜、彼が向かった先は、とあるマンションの一室。
そこには、若い女性・美佳(みか)がひとりで暮らしていた。
彼女は机に向かい、便箋を前にして座っていた。
けれど、そのペンは動かない。
書こうとした言葉は、喉の奥で詰まり、胸の中で渦を巻いていた。
「どうして…、どうしてあんなこと言っちゃったんだろう…」
小さく漏れた声は、冬の空気に吸い込まれるように消えていった。
彼女の脳裏には、恋人・亮(りょう)の顔が浮かんでいた。
その表情は怒っているようでもあり、悲しんでいるようでもあり、思い出すたび胸が締めつけられる。
些細な口論だった。
ほんの一言が、互いの心を傷つけてしまった。
謝りたいのに、言葉が見つからない。
いや――
そもそも自分から謝るべきなのだろうか。
彼の言葉にも、私は傷ついたのに。
怒りや悔しさ、反省や後悔がもやのように絡まり、考えはまとまらない。
便箋には、ただ白い余白だけが広がっていた。
その時、窓辺に朧が立っていた。
彼は静かに美佳の胸の奥を見通す。
そこには、言葉にならない後悔と、届かない謝罪が渦巻いていた。
朧は黒い封筒を取り出し、そっと手をかざす。
言葉にならなかった感情が、光の粒となって舞い上がり、封筒に吸い込まれていく。
怒りも、悔しさも、言えなかった「ごめんね」も――すべてが静かに封じられた。
美佳の胸の奥に、少しだけ余白が生まれる。
その余白は、言葉を受け入れるための場所だった。
翌朝
美佳は目を覚まし、机の上の便箋を見つめた。
不思議と、心は少し軽くなっていた。
彼女は携帯を取り出し、短い言葉を送る。
『昨日はごめん。会って話したい』
その言葉は、黒い感情を封じた余白から生まれたものだった。
亮からすぐに返信が届いた。
『俺も、ごめん。会おう』
短い言葉だったが、十分だった。
ふたりは再び会う約束を交わした。
その夜、朧は郵便局に戻っていた。
黒い封筒を焼却炉へと投げ込む。
炎が封筒を包み、静かに燃え尽きる。
彼の仕事はまた一つ、終わった。
しかし見渡す限り、言葉にならなかった想いは溢れている。
今夜もまた、光と影の狭間で――
朧は静かに歩き出す。