◇ ◇ ◇
「――なんか、紙切れ一枚提出するだけなのに緊張しちゃったよ」
溜息交じりにそう口にした灰咲さんが肩を竦める。
「不思議だよね。紙切れ一枚提出するだけで夫婦になれるんだから」
「準備はそんな簡単じゃないですけどね。証人とか」
「良くこんなすぐに証人をお願いできたね。二人も必要なのに」
結婚することになった俺と灰咲さんは、市役所に婚姻届を提出したところだ。
プロポーズしたその日に婚姻届けを提出するのは、少々気が急いているかもしれない。だが、大須賀対策だということを考慮すると、早めに夫婦になっておきたかった。
千尋に相談した後、急いで指輪を買いに行った際に、ついでに市役所まで婚姻届も貰いに行っていた。
逸りすぎだろ、とツッコまれても仕方がないかもしれないが、そのお陰でこんなにスムーズに婚姻届を提出することができた。
「店長には悪いことしましたけどね……」
婚姻届には証人が二人必要なので、一人は千尋に頼んだ。
頼んだ際は大層驚かれたが、事情を知っているからか、呆れながらも二つ返事で証人になるのを快諾してくれた。
相談されたその日に結婚するから証人になってくれ、と頼まれた千尋は、いったいどんな気分だったのだろうか……。
ちなみに急だったから俺だけ千尋に会いに行った。なので、灰咲さんとはまだ面識はない。
もちろん、いつになるかはわからないが、千尋には灰咲さんを紹介しようと思っている。灰咲さんにも千尋のことは紹介しておきたい。
千尋が家に来ることもあるし、なによりあいつは女装していることが多いからな……。
女装している千尋といたら、浮気していると勘違いさせてしまうかもしれないし……。――いや、もう既婚者になったから、浮気じゃなくて不倫になるのか……? まあ、どっちでもいいか。
とにかく、誤解が生じないように、そのうち紹介するつもりだ。
「店長、仕事中だったのにね……」
もう一人の証人は、悩んだ末に店長にお願いした。
灰咲さんは東京に頼れる友人がいない。
俺も千尋以外に急に頼める相手はいなかった。
そこで灰咲さんと相談した結果、お互いに信用できる大人として、店長の名が挙がったのだ。
アポなしで仕事場に突入し、店長に婚姻届の証人になってくれ、と頼み込んだのだが、改めて考えると非常識すぎる蛮行だな……。
しかも付き合っていたわけでもない二人が突然結婚すると言うのだ。店長からしてみれば、青天の
灰咲さんが申し訳なさげに空笑いしてしまうくらい、周りの人を振り回してしまっている。
「また今度、改めてお礼しておきます」
「そうだね。私も次の機会にお礼しておくよ」
店長には事の経緯を大雑把にしか説明していないから、きちんとワケを話さないといけない。
大須賀が店に来た時の顛末を知っている店長は、なんとなく察してくれていた。
だが、それでも証人になってくれた相手には、ちゃんと筋を通すべきだろう。
「灰咲さんのご両親にもちゃんと挨拶しないとですね」
ご両親に挨拶もせずに結婚しちまったからなぁ~。
いくら急いでいたとはいえど、順序が間違っているし……。
筋を通していない時点で、男として失格だよな……。
「それを言ったら私も獅子原君のご両親に挨拶してないから……」
「うちは放任主義なので大丈夫ですよ」
我が家は本当に放任主義だからなぁ~。
男なんて放っておいても大丈夫って考えだし……。
その分、自由にやらせてもらえているから不満なんてなに一つないけども。
「だったらうちも放任主義だから気を遣わなくて大丈夫だよ。うち、母しかいないから」
「あ、母子家庭だったんすね」
「そそ。母子家庭育ちなの」
改めて考えると、結婚した相手の家族のことをなにも知らないのっておかしいよな……。
「父親がいたら娘の結婚にはうるさいんだろうけど、母親だったらそんなことないしね」
父親にとって娘は特別で、母親にとって息子は特別って良く聞くし、灰咲さんの言うことはなんとなくわかる。というか、実体験としてわかる。俺には妹がいるから。
親父は妹のことを特に気にかけているし、母は俺のことを構いがちだからな。
「それでもちゃんと挨拶はしないといけないので、大学が夏季休暇に入ったら灰咲さんの実家に行きましょう」
「真面目だねぇ。そういうところは好きだけど」
その好きは、どういう意味の好きなんですかね?
今までだったら人としてって意味として受け取っていた。
だけど今は結婚から始める恋愛をしようと言った手前、特別な意味があるんじゃないかと勘繰ってしまう。
「私も獅子原君のご両親に挨拶しに行くよ」
「どっちにしろ、夏季休暇に入ってからですね。灰咲さんの実家なら土日で行けるかもしれないですけど、うちは北海道だから二日だと結構大変なんですよ」
体力的にも時間的にも大変だが、なにより交通費がもったいない。
たったの二日のために飛行機代を費やすのは、懐事情的に気が進まない。
「確かにそうだね。それにせっかく北海道に行くならもう少し期間が欲しいかな」
「あんまり期待しすぎないほうがいいですよ」
道産子としては、思わず苦笑してしまう。
俺からしてみればなにもない所だからなぁ……。
でもまあ、なにもないのが魅力っていう価値観もあるか。
「自然豊かなところでのんびり過ごせるだけでも貴重だよ」
コンクリートジャングルにいると自然のありがたみを実感するもんな。
俺も地元のことは好きだし、灰咲さんが魅力を感じてくれるのは素直に嬉しい。
「いやぁ~、話してて思ったけど、これで私も人妻かぁ~。まだ実感ないや」
間違ってはいないけど、言い方が……。
「まさかこんなに早く結婚することになるとは思ってなかったなぁ~。早くても二十代後半くらいだと思ってたし」
灰咲さんは今、二十二歳だもんな。
晩婚化が進む現代では、確かに早いほうかもしれない。
「まあ、色恋沙汰には懲り懲りしていたから、ずっと独身だったかもしれないけどね」
苦笑しながら肩を竦める灰咲さん。
「俺なんてまだ
今年二十歳になるとはいえ、今はまだ十代である。しかも学生だ。
「十代の男の子と結婚かぁ~。なんか悪いことしてる気分になってきた」
「いやいや、成人してますし、法律でも結婚できる年齢として認められてますから」
気持ちはわからないでもないが、ちゃんと合法です。安心してください。