「それで言うと、私、もう灰咲じゃないんだよね」
「確かにそうですね……。いつもの癖で、ずっと灰咲さんって呼んでたな……」
今の灰咲さんは、獅子原家に嫁入りしたことになっている。
なので、彼女の苗字は獅子原になった。
「これからは獅子原君のことを、
「だったら俺も、灰咲さんのことを
なんか、こそばゆいな……。
そのうち慣れるんだろうけど、今はまだこの初々しい男女みたいな関係を楽しむのも悪くはない。
「獅子原棗、か……。悪くないね」
灰咲さん――いや、棗さんもどうやら同じ気持ちだったらしい。
棗さんの口元が少し緩んでいる。
「――せっかくだし、手、繋いでみる?」
予想外の提案だ。
まさか棗さんのほうからそういうことを言って来るとは思ってもみなかった。色恋沙汰に懲り懲りしているはずなのに。
もしかして、結婚から始まる恋愛をすることに、俺が思っている以上に前向きなのか……?
「密君……?」
身長差のせいで上目遣いになっている棗さんが首を傾げる。
「あぁ、いや、すいません。まさか棗さんのほうから言って来るとは思わなくて、動揺しちゃいました」
「私なりに夫婦としてのあり方を真剣に考えた結果でして……」
不満げに小さく頬を膨らませる棗さんが、ただただかわいい。
普段のクールな姿とは違う小動物のような仕草に、思わず見惚れてしまう。
ギャップ萌えの破壊力は凄まじく、俺の理性を容赦なく刺激してくる。
「自分でも意外だったんだけど、私、密君との夫婦生活を結構楽しみにしているみたいなんだよね」
それは恋愛的な意味で俺に好意があると思ってもいいんですかね……?
「散々恋愛する気はないって言ってたのに……密君は特別ってことなのかな……?」
棗さん、俺、勘違いしちゃうって……!
調子に乗って彼氏面しちゃいますよ!? ――いや、彼氏を通り越して、もう夫になっていたわ!!。
「友達としての関係を保つと言っておきながら、それを覆してしまったことに罪悪感があったので安心しました。今の関係を好意的に捉えてくれているみたいで」
内心浮かれているが、そんなことはおくびにも出さない。
心の内を悟られないように、誤魔化しの言葉が自然と口から出てきた。
咄嗟に出てきた言葉だが、誤魔化すための方便ではない。本心だ。
「むしろ、感謝してるくらいだよ?」
「そうなんすか……?」
「うん。ずっと後ろ向きなのは苦しいし、寂しいからね。だから前を向く機会をくれたことに感謝してるんだ。その相手が密君だったこともだし――ううん、密君だから、結婚してもいいかなって思えたんだ」
そう言って微笑む棗さんから、今まで漂っていた哀愁が消え去っていた。
一時的なものかもしれない。
またすぐに淀んでしまうかもしれない。
それでも、今この時だけでも棗さんの心が浄化されたのなら良かったし、報われる思いだ。
俺のやったことに間違いはなかったのだと、正しかったのだと、証明されたような気がした。
「――それで、手、繋ぐ?」
手を差し出しながら再度問う棗さんに俺は――
「もちろん、喜んで繋ぎます。むしろ、お願いします」
即答した。
「ふふ、大袈裟だね」
俺の反応がツボに入ったのか、棗さんは控え目に鼻を鳴らす。
「じゃあ、はい」
先程よりも高く手を差し出す棗さん。
その手を取った俺は、指を絡めるように繋ぐ。所謂、恋人繋ぎ、というやつだ。
思いの
ただ体温が低いだけなのか、緊張しているからなのかはわからない。
それでも不思議と安心感を与えてくれる温もりがある。
「なんか、変な気分だね」
「緊張するというか、照れるというか……」
「そそ、そんな感じ」
今までの関係ではあり得なかった状況に、お互いに照れ笑いしてしまう。
「いい年して思春期の女の子みたいな反応しちゃった」
「俺もっす」
女性経験のない童貞じゃあるまいし、手を繋ぐくらい大したことじゃない。
なのに、目が合うだけで照れていた思春期の頃のような感覚になってしまう。
「そのうち慣れるんでしょうけど」
「それはそれでちょっともったいないかな」
「……同感ですけど、その言い方はちょっと卑怯じゃないっすか?」
「素直な気持ちだよ?」
――くぅっ……!
かわいいなぁ、もう!
照れるじゃねぇかよ!
そりゃ、俺だって付き合いたての男女にある些細なことでも楽しかったり、幸せを感じたりする新鮮な時期を少しでも長く味わいたいですよ! 慣れたくないですよ!! 当たり前になりたくないですよ!!!
今の棗さんの反応を目の当たりにしたら、余計にその気持ちが強くなりましたよ!
「……参りました。棗さんって、小悪魔なんですね」
「ただ本心を口にしただけなんだけどなぁ……」
棗さんは不満と困惑がごちゃ混ぜになっているような、なんとも言えない複雑な表情になってしまう。
「なんか腑に落ちないけど、まあ、いいか」
俯き気味だった顔を上げてそう呟いた棗さんは――
「改めて、これからよろしくね。旦那様」
と、はにかみながら口にした。
今度はわかる――揶揄っているのだと。
わかっているのに、ドキッとしてしまった。
本当に反則です。
男心を擽るの、上手すぎませんかね?
「こ、こちらこそ」
結局、俺は平静を装うことしかできなかった。
隠せていたかは