第1話 日常
密君と結婚してから三日経ったけれど、特別なにか変わったことはない。
強いて挙げるなら、前までは泊めさせてもらっていたのが、今は完全に引っ越したことくらいかな。でも、元々、半同居状態だったから、あまり変化は感じられない。
結婚したといっても、恋愛を経て結ばれたわけじゃない、形だけの関係。
そんな関係なのだから、結婚したからって日常に変化が訪れることはない。
結婚から始まる恋愛に前向きに向き合ってみても、すぐに惚れた腫れたをやれるほど単純じゃない。元カレのせいで恋愛には辟易しているのもある。
密君のことは好き。
でもそれは、LIKEであって、LOVEじゃない。
LIKEとLOVEの区別がつかないほど
だからか、結婚から始まる恋愛をすることになっても、いつも通りの日常が流れている。私がアクションを起こさないのが原因なのかもしれないけれど……。
密君も恋愛に懲り懲りしている私に気を遣っているのか、物理的にも心理的にも絶妙な距離感を保ってくれているし。
無暗に踏み込んでこないのは助かるし、居心地がいいのだけれど、少し寂しく思ってしまう。
この冷たい風が心を撫でるような感覚の正体は、どういう感情から来るものなのだろう……?
密君が、私の心を乱す存在になっているという証拠なのかな。
真夏の訪れとともに、私と密君の恋が燃え上がっていくのだろうか。
もしかしたら、この機微は、その前兆なのかもしれない――。
いつか寂寥感の正体がわかる日は訪れるのかな……。
「――新婚生活はどう?」
バイト中にも
聞き慣れた穏やかな声に、思考が現実に引き戻される。
「……店長、おつかれさまです」
レジにやって来た店長にそう言葉を返すと、「おつかれ」と労われてしまった。
おつかれにはおつかれで返すのが社会人の定型文とはいえ、仕事そっちのけで
いつもならこんなことで罪悪感に苛まれることはないのだけれど、店長には保証人の件で迷惑をかけてしまったばかりだから、何食わぬ顔を貫くことはできなかった。
「特に変わったことはありませんね。あくまでも、形だけのものなので……」
店長には私と密君が結婚した経緯を説明してある。
元カレが店で迷惑をかけたから、店長はなんとなく事情を察してくれていた。そのお陰で保証人の件はすんなりと話が通った。
「本来なら一番楽しい時期のはずなんだけどね」
「楽しいは楽しいですよ? 密君との生活に不満はないですし」
「二人、相性良さそうだしね」
「……そうですか?」
「うん。建前から始まった関係かもしれないけど、二人は上手くやっていけそうな気がするよ」
「密君にも似たようなことを言われました」
「そうなの? ま、私のは既婚者の先輩としての当て推量にすぎないけどね」
相性が良いというよりは、私が密君の優しさに甘えているだけのような気がするんだけど……。
もし密君が我慢して私に合わせてくれているのだとしたら、改めたほうがいいのかもしれない。どちらか一方に負担を強いるのは、夫婦としてあるべき姿じゃないと思うから。
まあ、でも、もし本当に私と密君の相性がいいのなら、それは嬉しいことだね。密君のことは好意的に思っているし、嫌われたくないとも思っているから。
だから相性が良いのなら未来に希望を持てる。彼とは夫婦として仲良くやっていきたいと願っているから――。
「迷惑をかけている身としては、相性が良いとは軽々しく言えないですね……。密君といるのは居心地がいいですけど」
散々迷惑をかけている側の人間が、私たちって相性が良いよね、なんて口が裂けても言えるわけがない。そんな
「本人は迷惑だなんて思ってないんじゃないかな」
「それは一緒に過ごす過程で、なんとなくわかりました」
「迷惑だと思っていたら、とっくに灰咲さんのことを突き放しているだろうね。ましてや人助けで結婚なんてするわけがない。いくらお人好しでもね」
その通りだと思うんだけど、密君の場合は、本当にお人好しなだけの線も捨てきれないんだよねぇ……。だって優しすぎるし……。
「お金に余裕がある小父様なら、若い女の子を助けるために結婚することはあるかもしれないけどね」
冗談めかして言う店長は小さく肩を竦める。
「不安になってしまうのは仕方ないかもしれないけど、それだけ獅子原君が灰咲さんのことを好意的に想っている証拠だと思うから、そんなに気にしなくてもいいんじゃないかな」
店長の柔和な眼差しが安心感を与えてくれる。
「それでも気になってしまうなら、美味しいご飯でも振舞ってあげるといいよ」
「美味しいご飯ですか……」
「男なんてバカで単純な生き物だから、胃袋を掴まれたら大抵のことはどうでもよくなってしまうんだよ」
「……それはちょっと偏った意見じゃないですか?」
世の男性全てがそんな単純ではないと思うんだけど……。
「はは、まあ、そうかもしれないけど、女の子の手料理を喜ばない男のほうが珍しいからさ」
「料理が下手でも?」
「もちろん、上手いに越したことはないよ? でも、自分のために作ってくれたってことが大事なんだよ」
まあ、それは女も同じかもしれない。
自分のためになにかしてくれるっていうのは、男女関係なく嬉しいものだよね。
私も密君が作ってくれた料理を食べる時があるけど、気持ちが籠っているとわかって嬉しくなるし。好み、栄養、彩り、量とかを考えてくれているんだなぁと。
「特に獅子原君は若いから食欲旺盛だろうし、ちょうどいいんじゃないかな。男子大学生の食欲って凄いから」
「確かに密君はいつも結構食べますね」
いつも美味しそうに食べてくれるんだよね。
それが嬉しくて作るのが苦にならない。――むしろ、楽しいくらい。
「彼、身体も大きいしね」
そうなんだよね。
ビックリするほど大きいわけじゃないけど、日本人としては長身の部類に入るんだよね。
「高校までバスケ部だったみたいなので、筋肉もしっかり付いているんですよ」
筋骨隆々ってわけじゃないけど、細マッチョって言えばいいのかな?
「彼、本の虫だから意外だけど、元々バリバリの体育会系なんだよね」
小さく笑みを零す店長は、「だから食べる量も多そうだし、なおさら胃袋を掴む甲斐がありそうだね」と続けた。
「そうですね……。それで少しでも恩返しができるなら、今以上に腕によりをかけてみようと思います」
まあ、特別料理が得意なわけじゃないけどね……。
それでも人並みには作れるから満足してもらえるはず。
「うん。灰咲さんの罪悪感も薄れるだろうし、一石二鳥だね」
せっかくだし、もっと上手に作れるように特訓してみようかな。
上手くなって損はないし、密君には喜んで欲しいから――。