ふと窓を見ると初雪が降っていた。僕は受験期真っ盛りの中学三年生だ。僕は今とても焦っている。焦ってはいるがそれは心の中だけで、実際はゲームをしている。受験までは残り三か月。あれ? 三か月あったっけ? 本当は一か月かもしれないなぁー? 僕は首を傾げた。ご覧の通り、もう現実を見れる状態ではない。
「おい! クソガキ! 勉強しろカス!!」
妹の声がリビングに響き渡る。
僕の双子の妹は僕と違って成績優秀、推薦でどの学校にも行けるほどだ。とはいえあいつは勉強しかできない。だから僕はいつもスポーツ系のネタでマウンティングする。
「おい! クソガキ! 運動しろカス!!」
俺の声がリビングに響き渡る。
実はこう見えて僕はスポーツが得意なんだ……Eスポーツがな!!
え? Eスポーツだってれっきとしたスポーツだし。最近はEスポーツの大会も増えてきて賞金ももらえるようになってきたし。まあ、俺大会出たことないけど。ちな出るつもりもない(笑)。さて、FPSで死体撃ちでもするかな。
そして翌朝。「今日は月曜日だ最悪だ」僕の声が部屋にそっと響く。
「早く起きろボケ!!!」
また妹が怒鳴る。あーうるさいうるさい、もう起きてるっての。いっつも怒ってる割には起こしてくれるんだよなー。まったく素直じゃないんだから。
「先行くからね」
妹がマッハで飛んでいった。正直僕は光速で授業に参加できるから遅く起きても問題無いのだが。まあ、光速って言ってもリモート授業だけだけど。僕は昨日と変わらずEスポーツを始めようとしたが、その瞬間悪寒が走った。窓から妹が僕の部屋を覗いている。ここマンションの32階だぞ!? まあ、僕の家系はみんな飛行能力があるからそんな驚くことでもないんだけど。
と、ここで目が覚め、外をのぞくとまだ日は上っていなく、外にはほんのり雪が積もっていた。やべ、どっから寝てたんだ? てか今何時? 俺は時計を見た。4時25分……イベントが終了していた。これも俺を起こさなかった妹が悪い。俺は妹を探した。どこにもいなかったのでもう一回寝ることにした。起きたらボコボコにしたるからな! と意気込んで俺は眠りについた。
翌朝、鳥の鳴く音と共に目が覚めた。目覚めると共に家の電話が鳴った。知らない番号だ。俺は恐る恐る電話に出た。
「あーお母さん? オレやけどー金なくなったら振り込んでくれん?」
残念だったな。俺はこう答えた。
「自宅警備員のこの俺がいる限り、オレオレ詐欺なんぞ通用せんわボケ」
一仕事した気分だ。こういう瞬間が生きてて一番面白い。さて、ひと段落したし妹をボコしに行くかな。俺は母親に問う。
「あのクソみたいな妹はどこだ!!」
母親は不思議そうな顔をしながら答えた。
母「あなたに妹なんていないじゃない。寝ぼけてるの?」
俺「いやいや何言ってるんだよママ。ママこそ寝ぼけてるんじゃない?」
母「あなたは一人っ子でしょ?」
ママの認知症が始まった、そう悟った瞬間だった。いままで女手一つで私たち兄妹を育ててきたのに。そうだ思い出した、僕は勉強を頑張らないといけない理由があったんだ。僕は長い間開けてなかった筆箱を開ける。中には3DSのカセットがずらりと並んでいた。おっと、違う筆箱を開けてしまったようだ。気を取り直して筆箱を探しているうちに携帯が光る。確認するとDiscordの通知が来ていた。
ニートマイケル「エペやらん?」
マイケルはいつも俺を口説こうとしてくるキモイ奴だ。あいつはニートだから朝からゲームをしている。勉強するつもりだったが友達の誘いを断るのは人としてよくない。僕は少しだけマイケルと遊ぶことにした。
「柚ちゃんは今年受験だよね? 勉強してる?」
マイケルがカタコトの日本語で言う。柚とは僕のゲーム名であって本名ではない。
「たくさんしてる! ゲームは息抜きだからねw」
ソロでやるときはオフライン表示にしてるのでこのアホには多少嘘をついてもばれない。まあ、ばれたところで何もないんだけど。まずい、もうすぐリモート授業が始まる。いつものようにサブモニターに授業を映してメインモニターでゲームをする。オンライン最高!!
そのうえ、妹は中学受験をしてくれたおかげで俺とは違う中学に通っており、家にはいない。ただ一つの問題は、いつもノックをせずいきなり部屋に入ってくる母親だ。今後は僕が介護をしなければならないのか、そんなことを考えながらチャンピオンをとった。授業の片手間でチャンピオン取れる俺って天才! すると、ガチャ!! ドアが開き、僕は焦る。来た?! 僕は急いでサブスクリーンの画面を消す。入ってきたのは妹だった。どこか様子がおかしい。
「私のこと、見えてる?」
真剣な顔で僕に聞いてきた。やれやれ、母は認知症で妹は中二病か。
「何言ってんだ、見えてるに決まってるだろ」
そう言うと、妹はとても驚いてこう言った。
「昨日から誰にも見えてないみたいなの」
「本当か?」
とりあえずマイケルにでも電話してみようかな。
「おいマイケル、お前俺に妹いたの覚えているよな!」
「What are you saying?」
こいつはもうだめだ、フレンドを消すことにした。
「ちょっとまってよ〜。妹でしょ? 覚えてるよ〜。君がいつも悪口言ってる子でしょ?」
マイケルは言った。
!? マイケルは覚えている。つまりこれは妹の妄言なのか?
もうわけがわからない。僕の脳内CPUでは整理できないので今日はもう寝ることにした。しかし、妹のことが心配でなかなか眠ることができなかった。
翌朝、妹の声がする。
「早く起きろボケ!!!」
ああ、いつもどおりの朝か。そう思った瞬間、妹が続けてこう言った。
「まだ見えてる?」
いつもは強気な妹が不安そうな表情を浮かべながら問いかけてきた。
「当たり前じゃん。じゃないと俺起きれてないし」
「そっか」
そもそもマイケルだって覚えてたんだぞ。
「こっちに来て鏡を見て」
と言われ僕は驚いた。
そこに写っていたのは僕だった。しかし、妹と並んでいるはずなのに僕だけだった。今までこんなことはなかったのに何が起こったのだろう。ちょうど今日は週に2回ある登校日だったので、妹に会ったことのあるクラスメイトの船田(ふなじ)に妹のことを聞くことにした。
「おいふなじ、お前俺の妹覚えてるか?」
「何を言ってるでござるか? あんな可愛い女の子を拙者が忘れるわけ無いでござるよ」
忘れていた、こいつはロリコンオタクだった。こいつじゃ参考にならない、次はあいつに聞いてみよう。俺は妹の友達の船越武美がいる四組へ向かった。船越さんを見つけたので話しかけてみても船越さんは無視して答えてくれない。彼女は俺のことが嫌いなようだ。やっとこっちを見てくれた。しかし船越さんに、
「あなたは誰ですか?」
と言われてしまった。まあ、船越さんに会ったときは毎回これを言われているんだけどね。
「よしこの兄だ。よしこのこと覚えてるか?」
船越さんは無表情のままこう答えた。
「よしこって誰ですか?」
知らないのか? でもマイケルと船田は覚えていたよなぁ。
状況を整理していると、妹の事を覚えている人と覚えていない人の違いに気が付いた。そういえばどちらも変態じゃないか。ということは俺も変態なのか? いや、そんなことは無い。否、絶対否定。もう少し聞き込みをして違いが何なのか突き止めよう。よし、次はあいつだ。妹の友達かつ、変態女というあだ名で呼ばれているらしい福久恋に聞いてみることにした。
「福久はよしこのこと知ってるよね?」
そう聞いた瞬間に福久恋の表情が変わった。
「その子が誰か知らないけど、今日の夜空いてる? あなたタイプだわ」
寒気がした。しかし、家に連れて行くことができればよしこに会わせてあげることができる。正直こいつは好きじゃないが、よしこのためを思って今日家で遊ぶ約束をした。授業が始まるチャイムの音がした。
「はい──。はよ座って〜」
国語教師である新野武広が教室に入ってきた。
実はこの時、俺は船田の席に座っていて船田は俺の席に座っている。だがそれは新野には気付かれていないようだ。
「おーい。船田君。授業中寝るなー」
新野が船田に注意し、それを見てにやけるクラスメイトたち。新野先生は日頃からストレスがたまっているみたいで、可哀想だなと思った。
「はい、それじゃ、はい、皆さん、はい、この筆者の、はい、心情を、はい、書いてみようか、はい」
相当ストレスが溜まっているようだ。「はい」の数が尋常じゃない。俺の親友の竹永はその「はい」の回数を毎回数えている。この授業、眠い。
あれ? 授業はもう終わっているみたいだ。僕は気づいたら眠ってしまっていた。次の授業は何だろう、と時間割表を見た。次の時間は体育か。寝れないな、これは。
「静かにしとらんかったら“かち”怒るからな」
瓦森先生がいつも通り授業の説明を始める。
「えー、今日はマットをします。はよ準備せぇ──ま」
マットを準備している途中に別の先生がきて職員室に呼び出された。
呼び出されるような事をした覚えはない。
「あらあら、浅田さん」
まずい! 僕の事を呼び出したのは低島か! 僕は、自分が焦っているのを感じた。
「浅田さん。あなた前の授業寝てたでしょ? そんなことしてたら、鉄パイプで頭カチ割るんやからね!!!!!」
鉄パイプで頭をカチ割られるのは嫌なので素直に謝った。
「ごめんなさい、もうしません」
今日は色々あったので早退して帰って寝ることにした。
次の日、学校に行くと福久恋が笑いながら俺に話しかけてきた。
「昨日の約束、忘れてたの? 私を焦らすなんていい度胸ね」
そういえばそうだった。妹のためにこいつと約束したのをすっかり忘れていた。
トントン。肩を叩かれ振り返ると、そこには妹がいた。
「あんた、消えてるよ」
妹は俺にそう言った。え? でも福久は俺と話していたよな? と考えていると船田が話しかけてきた。
「あれ? 浅田氏? どうしてよしこちゃんがいるでござるか?」
僕はふなじを無視して妹に言った。
「ふなじもマイケルもお前を認知できているんだから、さっさとその中二病直せよ」
そう言うと妹は悲しげな顔をして帰っていった。
まったく、認知症と中二病の家族を持つといやになるぜ。
「浅田氏、何のことかわかりませんが、あんな可愛い妹ちゃんにそんな強く当たるのはよくないでござるよ」
船田は早口で僕に説教をしている。やっぱりこいつは変態だ。同じく変態の福久が言う。
「さっきの子だれ? まさか浮気してるんじゃないでしょうね!!」
あれ? そういえば福久は妹のことを認知していない!?
福久と絡む理由が消えた。今後こいつは無視することにした。
「いやいや、さっきの子は浅田氏の妹ちゃんでござるよ福久氏。福久氏の友人ではありませんでしたか?」
船田が言った。まったく船田の奴、面倒なこと言いやがって。
「あんな子、見たことないわよ? からかっているの?」
「いやいや、違うでござるよ。全くの誤解でござる。これはどういうことでござるか浅田氏?」
「どうやらよしこが人から認識されなくなっているみたいなんだ」
小声で船田に俺は状況を説明した。
「なるほど。これは青ブタの桜島先輩みたいですなぁ。もしかしたら我々もいつか、彼女の事を認識できなくなるかもしれませんぞ」
船田が何を言っているのか分からなかったが、ひとまず妹救出に協力してもらうことにした。取り敢えず妹を探し、見えなくなった日に何が起こったのかを聞くことにした。
家に帰って妹の部屋にいくも妹の姿はない。なんだ、まだ帰っていないのか。
トントン。肩を叩かれ振り向くと、妹の姿があった。
「それ、ビビるからやめてくれよ」
「勝手に私の部屋に入んないでよ」
「いったい見えなくなった日に何が起こったんだ?」
「その日はいつも通り学校に行ってた。国語の先生の授業で寝ちゃったことぐらい」
妹はそう答えた。嘘を言っているようには見えない。まあ、あの国語の授業だしな。どんだけ真面目だったとしても寝てしまうこともあるか。僕も国語の授業で寝ちゃったし。
結局解決策は思いつかなかった。ネットで同じ症状の人を探そうと検索してみるも何も出てこない。すると船田から急に電話がかかってきた。
「浅田氏! こんな記事を見つけましたぞ!」
船田がサイトのリンクを張る。都市伝説を書き綴ったブログのようだ。その記事の内容は要約するとこんな感じだ。ある日普通に生活をしていると無視される事が増えていき、次第に自分を覚えている人も減っていった。妹の症状によく似ている。僕はそのブログを書いた人にメッセージを送った。
「症状について詳しく教えていただきたいです。治す方法は見つかったんですか?」
だが、そのブログの最終更新日は八年前になっており、返信は期待できない。仕方ないのでその人が書いた様々な記事を読んでみることにした。記事を読んでいるうちにあることに気が付いた。
「この人、母親が認知症になっている」
いや、もしかしたらこの人も妹と同じ呪い(?)にかかってしまったのかもしれない。それも八年前に。妹が見たら何かわかるかもしれないと思い、妹にもこのブログを見せてあげることにした。
「よしこ、話があるんだが」
「何? なんか見つかった?」
僕は例のブログを妹に見せた。
「お母さんの認知症がこの病気の原因ってこと?」
「まだわからないが、そうかもしれない」
妹は不安そうな顔をしていた。
──よしこは画面をスクロールしながら、いつもよりゆっくりとした声で言った。
「ねえ、これ“思春期症候群”ってやつのパロディみたいに見えるけど、書いてる人、最後の方で“初雪の晩に突然、鏡に写らなくなった”って書いてる」
たしかに、最初の一文に「初雪」とか出てきてたよな……あ、俺たちの今朝も初雪だったっけ。偶然? いや、物語的には偶然じゃないやつだ、こういうの。
雪と受験
「で、続きには?」
「“治し方はわからない。ただ、現実を延々と先送りにしてると、輪郭から消える”……だって」
現実を先送り、ね。俺のEスポ脳に突き刺さるワードやめて。でも一個だけ希望もあった。「記録に残すと少しだけ戻る」と書いてあった。写真、音声、文字。なるほど、実験だ。
「よし、三本立てでいく。①写真、②録音、③名前を書く。あとついでに④一時間だけ勉強」
「④だけ浮いてない?」
「気のせい」
まずは①。スマホのカメラをミラー代わりに自撮り。──画面には俺しか映らない。シャッター音、虚しい。②。ボイスメモに「よしこ」と二人で名前を交互に呼ぶ。再生──俺の声しか入ってない。おいオカルト。③。紙に「吉子」と書……って「よしこ」って漢字それ?
「違う。私は“佳子”」
「初耳なんだが」
「入学願書の時に『縁起いいからこれにしよう』ってママが……あ」
二人して黙る。ママは、俺たちに妹がいないと言った。願書を書いた記憶ごと、どこかに置いてきちゃったみたいに。
「じゃ、正しく『佳子』って書こう」
A4の白紙にでっかく「佳子」。そして俺は④の机に座る。うん、座るところまでが一番の難関。英語の長文を開いて気付いた。──よしこの得意分野、実は勉強だったわ。推薦でどこでも行けるレベルだもん。
「ここ、接続詞が“however”じゃなくて“whereas”だよ」
「なにそのプロゲーマーみたいなエイムの良さ」
よしこは問題の“弱点”を次々ハイライトしていく。俺のマウスより正確なペン先。気付けば一時間が二時間に伸び、単語帳に付箋が増え、ノートの余白にちっちゃいスノーマンの落書きが並ぶ。
「ふぅ……」
トイレ行って、戻って、何気なく机の端に置いたさっきの“佳子”の紙を見た瞬間、心臓が一回だけ大きく跳ねた。インクが、乾いたはずの線が、ほんのり濃くなっている気がした。プラシーボ? いやでも、そこに“重さ”が乗った感じがする。
「写真、もう一回」
さっきと同じ角度で撮る。プレビューを拡大。──ほんの、ほんの指先分、俺の肩の辺りに淡い影が重なっていた。
「うっす……」
「うっすって何よ」
「いや、薄いって意味の方の“うっす”」
希望が出ると、人間は調子に乗る生き物だ。俺はさらに②の録音をもう一度──今度は勉強の合間の独り言も拾うように回しっぱなしで、問題を声に出して読む。読み上げが苦手で、ちょっと噛む。よしこがクスクス笑う。再生。……微かに、笑い声が混じった。ノイズかもしれないほど微かだけど、俺にはわかった。
船田にも進捗を送る。「でござる」が五個くらい返ってきた後、妙な仮説が飛んできた。
『現実逃避値が高い人ほど、よしこ殿を認識できる説! ニートのマイケル殿、二次元の拙者、そして君。逆に、責任感と実存が高い者ほど、輪郭が薄くなる説!』
「実存って言葉、中学生で使う?」
「ふなじが使ってるからうちの学年は使っていい」
でも、その仮説は半分当たってる気がした。福久は噂だと模試学年一位。妹の友達の船越も委員長で真面目オブ真面目。ママは……一人で俺らを育ててきた超人だ。つまり、背負ってるものが重いほど、軽くなって消えていく“何か”がある。雪みたいに、温かい手ほど溶けやすい。
夜。初雪は、音のない雨みたいに降り続いている。窓を開けると白い息がゆらぐ。
「外、行こ」
よしこが言う。いつもより、ちょっとだけ頼る目で。
マンションの非常階段を降り、エントランス脇の植え込み──薄く積もった雪に、人差し指で俺は大きく書いた。
「佳子」
そして、その下にもう一行。
「合格」
「それ、だじゃれ狙ってる?」
「いや偶然。……いや、狙った」
二人で並んで雪を見ていると、どこからか電話が鳴った。ママのスマホだ。名前の表示は「入試説明会(録音)」。自動で流れる案内音声が、スピーカーから淡々と流れ出す。
『──受験票は各自で印刷し、氏名(フリガナ)を正しく記入してください──』
受験票。紙。名前。記録。パズルのピースが、光の速さで繋がった(※ただし紙の上の話なので相対性理論には配慮してある)。
「明日、学校の印刷室でやろう」
「何を?」
「“佳子”の受験票。ダミーでもいい。公式のフォーマットに、フリガナまで、ちゃんと記す」
「私、受験もう終わってるけど」
「形式が大事なんだよ。世界に『妹はここにいる』って提出する。俺のやつも一緒に印刷して、二枚重ねて、ホチキスで留めて、教務にドヤ顔で出す」
「バレるでしょ」
「バレる前に新野先生の“はい”でごまかす」
次の日。登校日。俺は印刷室の前に並び、フォームを作った。学校指定の願書サンプルを拝借し、「氏名:浅田 佳子(アサダ ヨシコ)」と打ち込む。プリンタが唸り、紙が吐き出される。トレイの上に、二人分の“在る”が並んだ。
その瞬間──視界の端で、色の濃度が上がった。よしこの輪郭が、蛍光灯の白に食い込むようにくっきりする。鏡じゃなくても、ガラスに、モニターに、俺の横に。そして扉が開いて、新野先生が入ってきた。
「はい──。何してるのかな──、はい。印刷室は先生の許可が、はい、必要、はい」
先生の視線が、俺の肩の向こうで止まった。ほんの一拍、目を瞬かせる。
「……はい? 佳子さん、はい?」
聞こえた。先生の口から、はっきり名前が。よしこが、目を丸くして俺を見る。俺は親指を立てた。新野の“はい”に生まれて初めて感謝した瞬間だ。
昼休み、保健室。ママに電話をかける。スピーカーにして、よしこにも聞かせる。
「もしもし、ママ? 俺だよ」
『どうしたの? 学校で何か──』
「今から、変なこと言うけど、一回だけでいいから答えて。俺には、妹がいる?」
無音。息を吸う音。
『……いるに決まってるでしょ。何言ってるの』
涙腺ってこんなに急に、物理スイッチみたいにONになるんだな。よしこは、手の甲で目元をこすって「マスカラしてないのに」とか意味不明なことを言って笑った。
その夜。俺はゲームを起動しなかった。代わりに、プリンター横に受験票を二枚置き、机に座って、“④”を続けた。マイケルには「今日は息抜き休む」とメッセージを送る。返事は英語で「Are you okay?」だった。俺は「I’m okay」と返した。本当に、OKだ。
窓の外、初雪は止んで、街路灯の下でだけ細かい欠片が名残みたいに舞っている。よしこが、そこにいる。俺の横にいる。──それだけで、英単語帳の“覚えた”に線を引く手が、ちょっとだけ速くなる。
明日からの計画はこうだ。①毎朝、鏡の前で二人分の名前を読み上げる。②一時間の勉強を最低ラインにして、終わったら写真を撮る。③忘れ癖が出たら、雪の代わりに紙に書く。④そして、合格する。シンプル。ゲームで言うなら、デイリークエスト。
「ねえ」
「ん?」
「合格発表、二人で見に行こうね」
「当たり前だろ。俺、光速で結果見に行けるし」
「リモートだけどね」
「リモートだけどな」
俺はノートの端に、小さく雪だるまを描き足した。丸が二つ、点が三つ、そして下に細く一本の線。──「佳子」。消えないインクで、ちゃんと、濃く。