REACH Syncのマルチディスプレイの隙間で、燃料系の針が赤域に踊っていた。
仕事の帰り道、アタシはカゲロウを労わるように走らせていた。今日の荷は無事に届けた。依頼主は何も聞かず、アタシも何も語らない。それで十分だった。
先輩たちが言っていた。カゲロウの頃のバイクには、燃料計が無い車種もあったらしい。だから、常に残量を頭に入れて走っていたそうだ。廃墟となったガソリンスタンドが視界を過る。
フューエルコックは既にリザーブ位置。ガレージまではなんとかなる。
遠く鳴り響く電子音に意識を向け、律儀に信号を守っていると、背後から足音が近づいてきた。
振り返ると、ハードケースを背負った少女がいる。アタシと同じくらいか。色褪せたジャケット、汚れたスニーカー。だが身のこなしに感じる、妙な上品さ。
「乗せてくれ」
そう言いながら、既に足をステップにかけている。
「断る」
振り落とそうとする間もなく、彼女は狭いタンデムシートに跨っていた。軽やかな動作。初めてではないらしい。
「追われてる」
電子音が近づく。規則的で冷たい警告音。滅多なことがない限り、スメラギ・ガードがここへ来るはずがない。彼女が目的だろう。
そうでなくとも、今から隠れるには遅すぎる。連れて逃げるしか無くなった。
ゆっくりとカゲロウを前に出す。思わぬ荷を積む羽目になった。
左のハンドルに追加されたスイッチを叩き、待機状態だったREACHを立ち上げる。アンダーカウルのセンサーが起動、スイングアームのレーダーが、スメラギの青バイ──高速機動警備中隊を捉えた。厄介な相手を連れてきたものだ。
アタシはスロットルを開いた。どうやって撒いたものか。直線速度では、このカゲロウでも敵う相手ではない。
「あの店の連中がオレたちを売るはずがない」
少女が、背中越しに呟いた。風に混じって聞こえる声は確信を帯びていたが、トーンが一瞬落ちた。
「今までは上手くやれてたんだ」
アタシの腰に回した腕がこわばる。
「何やっちゃったの」
「第七十一条違反。路上演奏等の禁止ってやつだ」
環境調和基準を無視した排気音を響かせながら、クラッチを繋いだ。
「第七十四条違反も追加ね、同乗者も同罪よ、アレ」
「縋った藁がガソリン車なんてな」
「悪かったわね」
アタシは脇道に逸れた。路地というシケインで、ガードの追跡を振り切るためだ。ホログラフィックスで表示される普段より詳細な地図データが、複雑に入り組んだ抜け道を鮮やかに描き出している。
──REACH(
アタシを追走する青バイ部隊、スメラギ・SX-48Pインターセプターが迫る。高トルクモーターの静寂な加速。だが、アタシのほうが疾い。狭い路地、アクセルターンで切り返す。カゲロウの爆発的トルクが、スメラギ・ブルーを振り切っていく。
「奴ら、外縁の境界で撤退するはずよ!」
「なんで分かるんだ!」
「仕事に必要で……ね!」
REACHが示す最適逃走ルートに従って、アタシは路地の奥へ進んだ。曲がり角のたびにバンク角が深くなる。少女の体重移動は、最初はぎこちなかった。だが数回のコーナーを過ぎる頃には、アタシの動きに合わせて自然に重心を内側に傾けている。
二人乗りには技術がいる。後ろの人間がバランスを崩せば、ライダーがどれだけ上手くても転倒は免れない。特に急激なコーナリングでは、同乗者の重心移動がマシンの安定に直結する。
アタシがブレーキングで車体を立てると、彼女も背筋を伸ばして荷重を後ろに移す。コーナーへの進入で車体を倒し込むと、迷いなく内側へ体を預けてくる。
素人ではない。教わったのか、センスが良いのか。次第に、軽口を叩く余裕が出てきた。
「慣れてるわね」
「いつも即興演奏だからな、リズムに乗れなきゃ……」
路面の段差でリアサスが跳ねた衝撃に呻く。舌を噛んでいなければいいが。
左に曲がって二つ目の廃墟、崩れた壁を潜り抜ける。一台、根性の入った青バイがようやくミラーから消えた。あの重量級を、よく乗りこなすものだ。
路地を抜け、廃ビル群が立ち並ぶ一角に入る。ここは外縁区でも特に荒廃した地域だった。街頭のカメラは軒並み壊れ、レンズが割れたまま宙を向いている。公共の集音マイクなんて代物、この辺りには最初から設置されていない。
統治コストと監視効果を天秤にかけた結果、見捨てられた場所。スメラギ・インダストリーにとって、ここに住む人間は既に統計の対象外だった。
廃ビルの影に滑り込み、エンジンを切った。アタシは辺りの様子を探る。壊れた看板が風に揺れる音。どこからか響く重低音は、この街が重工業で成り立っていた頃の名残か。電子音は遠ざかり、やがて聞こえなくなった。REACHのディスプレイが小さく明滅し、Trackingから通常表示に戻って停止する。
「助かった」
降りた彼女は、ハードケースを背中から下げ、アタシを見つめた。
「キョウ」
名前だけを告げる。それ以上は言わない。視線が一瞬外れた。
「オマエは?」
「運び屋」
ヘルメットを脱いで髪をかき上げる。メットをミラーに預け、タバコを咥えて火を灯す。身体を預けた車体が揺れ、チャプチャプと心許ない音がした。
キョウがハードケースを胸に抱き、顔を上げた。
「運び屋なら、オレを運んでくれ。ガソリン代くらいは出せる……多分」
矯正施設送りなのに、金があるわけがない。それに、どこへ行くつもりなのか。
キョウと名乗った少女の顔を見る。視線が一瞬外れ、また戻った。
アタシは先輩たちの記憶を思い出していた。アテも無く飛び出した小娘をガレージへ迎え入れてくれた、愛すべきバイク野郎たち。
ガードの電子音はもう聞こえない。甲高い演奏の余韻冷めやらぬサイレンサーから、甘く優しい匂いが香る。
「来なよ」
先輩たちが言っていた。
「狭いけれど、屋根はある」
キョウの視線が再びこちらを捉える。
「いい響きだな、誰の歌だ?」
「アタシの先輩」
「詩人だな、そいつ」
短くなったタバコを揉み消す。
「マコト、金月麻琴。走り屋よ」
レバーを蹴り込み、エンジンをかけ直した。
「ほら、乗って」
キョウは一瞬ためらった。ハードケースを背負い直し、それからタンデムシートに跨る。慎重な動作だったが、やがて腰を落ち着けた。
「さっきので第百十三条違反も追加ね」
「捕まったら、仲良く権利剥奪ってわけだ……オマエ、一人で走ってるのか」
「今は一人」
「寂しいもんだな」
「でも、今夜は一人じゃない」
カゲロウが再び動き出す。燃料は心許ないが、ガス欠になったら一緒に押そう。アタシはスロットルを握り直した。