マコトのガレージは、思っていたより生活感に溢れていた。
外縁区の廃ビル群の中に紛れた、小さなプレハブ倉庫。錆びた扉を開けると、ケミカルな匂いが鼻を突いた。一瞬、何の匂いか分からなかった。甘く、それでいて危険な香り。
これが、ガソリンなのか。
オレが幼い頃には現役だったらしいが、記憶に残っていない。たまに走ってるやつを見かけても、こうも間近で嗅ぐのは初めてだった。想像していたより、ずっと強烈で、なんだか生々しい匂い。
壁際には工具箱が雑然と積まれている。なぜそこまで大量にあるのか分からないレンチやドライバーが、カップラーメンの空き容器と一緒に置かれていたり、何かしらの測定器らしい機械の隣に、コーヒーを名乗る泥水の空き缶が転がっていたり。少し散らかって見えるが、欲しいものが欲しい場所にあるのだろう。使い込まれたドラム・セットのようだった。
奥に置かれているのが、バラバラになったバイクだった。どうやら、マコトのものと同じ車種らしい。フレームは残っているものの、外した部品が小分けにされている。まるで楽器を分解して研究している感じだ。
「すげえな、これ」
オレは思わず呟いた。部品の数がやたらと多い。ステッカーで彩られた外装から、大小さまざまなパイプに、小さな金属片まで。とにかく細かく分かれている。楽器だって、ここまでやるのは大変だ。ましてやバイクで。どれだけ大変か想像もできない。
「先輩のやつ。直すつもりだったんだけど、結局部品取り用になっちゃった」
マコトがヘルメットを棚に置きながら言う。その声に、少しだけ寂しさが混じっていた。
「でも、魂は残ってる。先輩たちが教えてくれたこと、全部ここにある」
あちらこちらに積まれた古いバイク雑誌、読み込まれた整備マニュアル、壁に雑に貼られたタイヤ交換の手順メモ。乱雑だが、全部が彼女の努力と日常の痕跡だった。
オレはハードケースを背中から下ろし、慎重にガレージの隅に置いた。
「しかし、いつまでもオマエの世話になってるわけにもいかないよな」
正直なところを口にする。
「そうね。いつまでもタンデムってわけにもいかないし、あんたも足が必要でしょ」
マコトは振り返ると、ガレージの隅を指した。まるで、オレがここに留まることを当然のように考えているような口ぶりだった。
「スクーターなら目立たないし、音でガードが寄ってくる心配も、まあ、大丈夫でしょ」
「バイクなんて後ろにしか乗ったこと無いぞ、オレ」
声が少し震えた。一晩泊めてもらうだけのつもりだったが、マコトはそうではないらしい。彼女から施しを受けてばかりだ。
「ちゃんと教えるわよ、事故ったら大変なんだから」
マコトの表情が少し緩んだ。どこか嬉しそうにも見える。
「コケても直すから心配しないで」
軽い調子で付け加える。
「ただし、ガード見かけたらエンジン切って隠れてね。ま、乗ってるだけなら持ってる事より罪は軽いんだけど」
マコトがさらりと言った言葉に、オレの背筋が凍った。ライブなんかよりも、ずっとヤバい。
そうか、ここにあるもの全部が違法なのか。
改めてガレージを見回すと、配管のジャンク、マフラー、ガソリン携行缶にエンジンオイル。素人目にも分かりそうな証拠がゴロゴロと転がっている。どれも
オレの地下ライブなんて可愛いもので、ここにいるだけで人生が終わる可能性があった。
思っていた以上にとんでもない奴に頼ってしまったのかもしれない。
「アタシだってスクーターから始めたんだから。ものは試しで」
「……分かったよ」
オレは頷いた。ここまで来てしまえば一緒だろう。
積まれたパーツ類やタイヤの隙間を縫うように、ガレージの隅に置かれたスクーターは、まるで楽器のケースのように小さく見えた。マコトがカバーを外すと、ボディのあちこちに刻まれた傷。色褪せたステッカーが数枚。
「これ、先輩たちが置いてったやつ。クラッチもギアチェンジもない。簡単よ。まあ、今どきのやつと違って、操縦補助だとか路面解析なんて上等な代物積んでないけど……」
マコトが跨って、というより座って見せる。さっきまで乗っていたいかにも走り屋なバイクに比べると、随分と大人しい乗り物だった。
「とりあえず、乗ってみなよ。ボロいけど、ちゃんと動くようにしてる」
渡されたヘルメットを被り、オレは恐る恐るシートに座った。足つきは問題ない。ハンドルの感じも、思っていたより自然だった。
「キーオンにして、ブレーキ握って、右のセルスイッチを押す。あとはスロットル開けるだけで進む。スロットルは優しくじわっと、いきなり全開は危ないから」
マコトの説明は的確だった。キュルキュルとセルが回り、ややあってエンジンが鼓動する。マコトの後ろで聞いていた甲高い排気音とは違う、優しい音に感じられた。
「最初はゆっくりでいいから。パワーが伝わるラグがあるから、焦って開けすぎない。体重移動でバランス取る」
言われた通りにやってみる。最初はぎこちなかったが、だんだんコツが掴めてきた。音楽でもそうだけど、身体が覚えるまでは地道な練習が必要だ。
「そうそう、リズムがいいじゃない」
マコトが横で歩きながら指導してくれる。その表情は、どこか柔らかい。
「コーナーは怖がらないで、ちゃんとブレーキしてから、内側の足を踏み込むイメージで体重移動。コケそうになったら足をつく。手で曲げようとしてハンドルを切るのは、絶対駄目。バイクが倒れる感覚に慣れること」
プレハブ前の小さな広場。外周をなぞるようにゆっくりと走る。曲がれの指示。止まりそうになって、思わずスロットルを開ける。ややあって加速。少し速度が出ると、勝手に車体が安定した。
なるほど、流れを保つ方が自然なんだ。
「お、コケなかった」
「楽器の演奏と似てるかも」
オレは素直に感想を口にした。
「楽器と?」
「体の使い方。リズム感とか、身体で覚える感じとか。あと、機械との対話っていうのかな」
マコトが少し考え込んだ。
「機械との対話、ね。確かに、バイクはそういうところがある。エンジンの声を聞いて、応えてやる感じ」
三十分ほど練習すると、ゆっくり周回できるようになった。ゆったりとした加速と、軽いハンドリング。思っていたより楽しかった。
フルスロットルではどうなるのだろう。
「もう大丈夫そうね。あとは道路に出て慣れるだけ」
マコトがエンジンを止めさせ、満足そうに頷いた。
「ありがとう。思ったより簡単だったな」
「あんたが飲み込み早いからよ。それに……」
短く躊躇い、照れたように言った。
「やってみたかったのよ、先輩風を吹かすの」
はにかんだ笑顔で、マコトが工具を片付け始める。金属の触れ合う音が響く中、不意にガレージの隅に置いたハードケースに視線を向けた。
「そっちの音も聞きたいな」
咄嗟には、何も言えなかった。このガレージでトランペットを吹くのは、なんだか特別な感じがした。彼女の聖域に、オレの音を響かせるということ。
「いいのか?」
「構わない。むしろ、どんな音なのか気になってた」
オレはハードケースを開け、真鍮製のトランペットを取り出した。オレが産まれたときに、父さんが買ったそうだ。母さんがよく笑っていた。手に取ると、いつものように金属の重みと温もりが伝わってきた。
マウスピースを唇に当て、軽くウォーミングアップ。ガレージの狭い空間に、
短く、スカの旋律を吹いてみる。跳ねるようなリズム、明るく力強いメロディー。ガレージの外から、遠くの工場の音が聞こえてくる。でも、ここは静かで安全だった。
曲を終えて、トランペットを下ろす。マコトは作業台に腰をかけ、じっと聞いていた。
「すごい」
手を胸に置き、目を閉じた。
「生音って、身体に響くんだ」
「バイクもな。おかげでまだケツが痛え」
二人で、小さく笑った。
数分のソロ・ライブ。観客は走り屋が一人と、バイクが数台。悪くない。
「いい場所だな、ここ」
オレは改めて思った。トランペットをケースに仕舞いながら、なんだか少しだけ気持ちが軽くなった気がした。