昼前の日差しが、ガレージの天窓から差し込んでいた。
嗅ぎ慣れない匂いに目を覚ます。ガソリンと、オイルと、鉄の香り。時計を視線で探すと、針は11時を過ぎていた。隣のソファで物音。家主も目覚めたようだ。
「おはよ……今何時?」
「11時半。案外寝坊助なんだな」
「お互い様でしょ……久々によく眠れたわ」
マコトが髪をかき上げながら呟く。表情が、少しだけ緩んで見えた。
作業台の隅に、缶コーヒーが二本並んでいる。マコトがそのうちの一本を手に取った。
「あんたも飲む?」
脳裏に浮かんだのは、父さんの手つき。豆を挽く音と、立ち上る香り。
「コーヒーは香りを飲むものだろ」
オレは思わず呟いた。
「へえ、本格派なんだ」
差し出した缶を揺らしながら、マコトが苦笑する。
「まあ……な。でも、ありがたく頂くよ」
手に取った缶コーヒーのラベルを見つめる。大量生産の印刷、添加物の表示、工場で調合された液体。でも、今じゃこの泥水が主流だ。
プルタブを開けると、わざとらしい甘ったるい香りが立ち上がった。豆の風味なんて端から無い。それでも、マコトと一緒に飲むこの時間には、別の意味があった。
「闇市で豆を見かけた事があるわね」
「本当か?」
「高かったけど。どうせご飯食べに行くし、ついでに見てみる?」
そういえば、昨晩から何も食べていなかった。
コーヒーを名乗る黒い何かを飲み終えると、マコトが昨夜の練習用スクーターを指した。
「それじゃ、さっそく路上教習ね。アタシが案内するから」
「でも、スクーターでついていけるバイクじゃないんだろ? オマエのカゲロウってやつ」
「確かにレプリカと原チャリじゃね。でもいいのよ、合わせるのもマスツーの醍醐味だし」
「マスツー?」
「マス・ツーリング。複数台での走行」
マコトが少し照れたような顔をした。
「まあ、二台だけど」
その照れた表情が可愛らしく見えた。
「ああ、これあんたにあげるわ」
練習でも使ったヘルメットを受け取る。顎の部分がつながっていない白いシェル。シンプルだが、しっかりした作りに見えた。
「先輩たちが言ってた、初心者は安全第一って」
マコトが自分のヘルメットを手に取る。黒いシェルに、ステッカーが数枚。インカムもつけているそうだ。オレのヘルメットにもつければ、走行中でも会話できる優れモノ。
「いきなりフルフェイス被っても息苦しいでしょ」
ヘルメットを被ると、視界が少し狭くなった。でも、頭を包まれる安心感がある。楽器ケースに楽器を仕舞う時のような、大切なものを保護する感覚。
スーパーレックスという名前らしいスクーターのシートに座り、エンジンをかける。昨夜より慣れた手つきでセルを押した。静かな音が響く。
「置いていかないだろうな」
「大丈夫、ちゃんと引っ張ってあげるから」
マコトがカゲロウにまたがる。2ストロークの咆哮がガレージに響いた。
「それより開けすぎないようにね。そのレックス、結構ドッカンだから」
「なんだそれ」
「いきなりフルスロットルは危ないってこと」
ガレージの扉が開く。外の光が差し込んで、一瞬目を細めた。
外縁区の路地を抜け、広い道路に出る。
マコトのカゲロウが前を走り、オレのレックスがそれに続く。最初はおっかなびっくりだったが、だんだんリズムが掴めてきた。
直線で少しアクセルを開けてみる。エンジンの鼓動が早まる。緩やかな加速。でも、思ったより伸びない。マコトとの距離が少し開く。
もう少し開けてみよう。アクセルを握り込む。
一拍のラグ、急激な加速。レックスが吠える。予想以上の勢いで前に飛び出した。風切り音が一気に大きくなる。これが「ドッカン」か。
マコトのカゲロウに追いつき、並ぶ。思わず笑みがこみ上げた。
風を切って走る爽快感。昨夜のトランペット演奏とは違う種類の開放感だった。自分がどこへでも行けるような錯覚に陥る。なるほど、走り屋が毎晩のように出るわけだ。
電動バイクの後ろには何度か乗ったことがある。それぞれに個性があるのは、楽器と同じだ。稀に、深夜に排気音が聞こえた理由がわかった。
赤信号で並んで停まる。
「速いな、これ!」
ヘルメット越しにマコトに声をかけた。
「調子に乗ってると吹っ飛ぶわよ」
マコトが振り返る。バイザーを上げた奥で、呆れたような表情が透けて見えた。
「ま、そこまで回せるなら大丈夫そうね」
信号が青に変わる。今度はもう少し大人しく走ろう。でも、この開放感は忘れられそうにない。
マコトの甲高い排気音と、オレの必死な排気音。アンサンブルを奏でていると、風に混じって香辛料と焼き物の匂いが漂ってきた。人の声、笑い声。活気ある空気が鼻をくすぐる。
前方に古い石造りの建物が見えた。教会の前庭に開かれた闇市。
石畳の上にシートを広げた露天商たち。古い電子機器、得体の知れない部品、手作りの工芸品。正規の商業娯楽区とは全く違う雑多な活気があった。
「すげえ賑わいだな」
「この辺、ガードのルートに入ってないのよ。ちょっと待ってて」
マコトがそう言って人混みに消える。オレは一人、闇市を見回した。
空気には様々な匂いが混じり合っていた。香辛料、焼いた肉、揚げ物の油。得体の知れない魚の丼をかき込む背中、湯気を立てる串焼き、正体不明だが美味しそうな香りを放つ屋台料理。
人々の服装も様々だ。企業の制服を着崩した中層市民、作業着姿の技術者、色とりどりの古着を身にまとった若者たち。普段なら絶対に混じり合わない階層の人間が、ここでは同じ空間を共有している。
腹が鳴った。朝の缶コーヒーだけでは足りない。
でも、財布の中身を確認して溜息。オレの所持金じゃ、どの屋台も手が出そうにない。
「はい。アタシのお気に入り」
マコトが戻ってきた。手には湯気を立てる何かの包み。
「貸し一つね」
そう言って、オレに差し出す。
「なんだ、これ?」
「饅頭。甘くないやつ」
マコトが頬張る。美味そうに食べるものだ。
オレも一口食べてみる。ちょっと生地が分厚いが、肉汁の旨味が溢れ出した。
「結構イケるな、屋台料理ってのも」
「何の肉か知らないけどね。一応、この店のやつで当たったことはないわ」
おいおい、本当に大丈夫かよ。
手にした温かい肉饅頭を眺める。かさ増しした生地、気持ち程度の餡。しかし、不味くはない。
なにより空腹には敵わない。マコトに倣って頬張ってみた。なるほど、こうやって食うほうが美味い。青空の下での食べ歩きという、居住区じゃあ絶対に許されない背徳感を感じる。まあ、もう帰れないか。
久しぶりに、満たされた気分だった。
「コーヒー豆、あっちに有るって」
マコトの指差す方を見れば、古い木製の看板が掲げられた露店。
しかし、そこで値段を聞いて絶句することになった。たった一杯分の豆の値段が、さっきの肉饅頭の何倍もする。
「ま、今後の目標ってことで」
マコトが肩をすくめる。その目は、少しだけ遠くを見ていた。
「……ヒモじゃねえし、少しは稼ぐか」
オレはトランペットケースに手を伸ばした。
「ン? ……まあ、ここでやってるやつは見かけるけど」
マコトが見回す。教会の真正面のスペース。ちょうど、他の演者が演奏を終え、機材を片付けてハケた所だった。誰の許可も必要としない、文字通りのストリート。
「この辺りのことは、オマエの方が詳しいだろ。ここにいてくれ、何かあったら頼む」
「……しょうがないわね」
マコトは小さく息を吐いた。
マウスピースを唇に当て、軽くウォーミングアップ。教会の石壁が音を反響させる。思っていたより響きが良い。
思い切って、ベルアップ。
青空に抜けていくようなハイトーン。大昔の映画の曲だと父さんが言っていた。無理やり出していたこの高さも、ちょっとは吹けるようになったつもりだ。
最後をきっちり吹ききって、ダラっとさせずに切る。メリハリが大事だ。
呼吸を整え空を見上げた。外縁にはハトがいるんだな。
「トランペットとは珍しい、新顔ですかな?」
オレが振り返ると、白い法衣を着た人物が教会の扉から現れていた。年配の男性、穏やかな笑顔。ネオン色のバイザーゴーグルが印象的だった。
「あ、たしかこの教会の……なんだっけ」
曖昧なようだ。マコトが視線を向ける。
「時々、夜に騒がしいなとは思ってたけど」
「ワタクシはファーザー・DD」
丁寧に一礼。よく響く、信念の通った声だった。
「電気子羊どもの牧師を務めております」
「電気子羊?」
なんだそれ。オレは首をかしげた。
「この街で音を求めて彷徨う者たちですな」
DDが優しく微笑む。その目に、深い理解と包容力が宿っていた。
「音楽をなさる方も、バイクを愛する方も、皆同じ。沈黙に抗う者たちです」
マコトが少し感心した様子で聞いている。オレが問い返した。
「沈黙に、抗う?」
「祈るよりアゲていくのです、電気子羊どもよ」
両手を広げる大仰な仕草。その動作は演劇的で、こちらを煽り立てるよう。
「もしよろしければ」
そう言って、小さなワイヤレスマイクを差し出してくる。
「バックトラックもつけましょうか」
「いいのか?」
「ワタクシも音を生業としておりまして」
DDが背後のスピーカー群を指す。ただの神父じゃないらしい。音響屋が法衣を着ているという表現が近いか。ただ、単純な見た目だけじゃない何かが有るような気がした。
「お仲間が増えて嬉しい限り」
マイクを使うと、迫力が格段に向上した。単純なビートが入るだけでも、一気に『音楽』って感じになる。3曲ほど、トランペットの美味しいセクションを中心に奏でた。
有り難いことに、ハードケースには小銭がちらほら。
「今夜、北の高架下で
「そこまで騒いだら、ガードが寄ってくるんじゃないのか?」
「さて。ワタクシはこうして生きております」
DDが意味深に微笑む。オレは唖然とした。
「ま、外縁って一口に言っても、色々とあるのよ」
「……それじゃ、未整備区画なんてどうなってんだ」
「あそこはね……アタシも詳しくないから」
マコトが肩をすくめる。
「この世界には、まだまだ知らない場所がたくさんありますよ」
その言葉には、半世紀以上を生き抜いた者が持つ重みがあった。
スメラギが作り上げた管理システムを、軽やかに泳ぎ抜けてきた者の余裕。二人の若者にはまだ理解できない、巡礼者の言葉だった。
「よろしければ覗いてみませんか? 今夜の
オレとマコトは顔を見合わせた。