テントを張り終わると辺りはもう、すっかり暗くなってしまっていた。
山の日暮れは早い。ギリギリ間に合ったと胸を撫で下ろし、ランタンの明かりを灯す。奮発して買った品だけあって、夕闇の中でも抜群の存在感を放っている。裸の物寂しい枝から吊るすと、浮かぶ月のようにも見えた。あいにくと、今宵は新月だが。
集めておいた火種に着火して、鍋を温め始めたころには、すっかり帳が下りていた。上着を一枚羽織って、空を見上げる。月のない夜にしては、やけに星が眩しかった。
どこかで獣が小さく泣いた。
「もし、そこの人」
声は目の前から聞こえた。視線を遣れば、三間ほど離れた切り株に、まるで初めからそこにいたかのように、女が座していた。体は夜空を向いたまま、金の瞳がこちらを見つめている。
「よかったら、食べ物を分けて頂けないだろうか? 数日飲まず食わずでね、もう目が回って回って」
大袈裟なジェスチャーで女は言う。動きに合わせて、着物の袖が大きく靡く。
「はあ、構いませんが。丁度食料を買い込みすぎて困っていたところなので、こちらとしても助かります」
「それは重畳」ほう、と女が白い息を吐く。
「寒くて敵わんね。近くに寄っても?」
どうぞと促すと、女は火を挟んで正面に座った。ランタンに照らされた顔立ちはやけに整っている。少し釣り目の、すっきりした印象の美人だった。
鍋に具材を足して、調味料を振る。
「ふむ。よければ、手伝わせて頂けないだろうか? ご相伴に預かる身だ、少しくらいはお役に立ちたい」
「お気持ちだけで十分です。化かされては堪ったものではない」
きょとんとした顔で固まる女の背後で、ゆらゆらと尻尾が揺れた。稲穂のような金髪を撫でつけた女は「いやはや、尻尾が飛び出していたか。頭隠して尻隠さずとはこのことだな」と悪びれる様子もなく言った。
「案ずるな、取って食おうという訳ではない」
飯は食うが、と不要な一言が足された。
「山暮らしもこの時期は暇でね、食べるものがなければ踏み入る人間もいないと来た。そんな中来た客人なのだから、まあ無碍にはしないさ」
「……じゃあ、火の加減だけ見ておいてくれますか」
「心得た」
狐が手を翳すと、少し弱まっていた炎が、息を吹き返したように盛り上がった。それでいて、鍋が沸騰しすぎて焦げるというような予兆もない。既に化かされ始めているのだろうか、と心配になりながら水筒を呷った。狐が物欲しそうな瞳でこちらを見る。
「……よろしければ、どうぞ」
「いやあ、かたじけない」
口をつけてごくごくと、勢いよく水を飲んでいる。返された水筒の重さからして半分くらい飲まれた。どうやら相当喉が渇いていたらしい。もう一口だけ飲んで、鞄にしまった。
「鍋も食べますか。お陰様で、少し早く煮えたみたいなので」
「うむ、有難い」器と箸を手渡せば、ガツガツと勢いよく胃へ掻き込む。美味しくて堪らないというよりは、飢えて堪えられないという印象を受けた。
「情けないものだ」
空になった器を置くと、何処からか取り出した煙管をもくもくと燻らせて、狐は愁いを帯びた顔を向けた。
「かつては天狐と謳われ、信仰すら受けたものの、今や一匹の痩せた獣に過ぎないとは」
「僕からしたら、アナタのような存在が目の前にあるってだけで驚きですがね」
「その割には、平然としていたように見えたが」
「ナニカに会いたくてここに来ているので、そこはご容赦願いたい。そうでもなければ、人里離れたこんな山奥には来ませんよ」
「随分な物好きもいるものだ」呆れたような顔をして、狐は煙を吐いた。それから、物憂げな瞳で山を見遣る。
「かつてはここにも集落があり、自然があり、動物がいた。だが今や、人は離れ、土地は瘦せ細り、生き物は去っていった。最早死を待つのみなのだ、この山は」
「知っていますよ」白い息を吐いて答える。
「じいちゃんちがその、近隣の集落にあったので。もう死んじゃったけど、それでもここは、思い出の場所だから」
「そうか」
狐は目を細めた。パチパチと、火の粉の舞う音だけが夜に響く。
「長期休暇が来るたびに里帰りして、それはもう遊びまわったものです。今思えばこんな何もないところで、よく一か月満喫しつくしたものだって思いますよ」
虫取り、魚釣り、沢遊び──凡そ都会の子供が思いつく、面白そうな遊びはすべてやった。夜になれば花火をしながら星を見上げて、縁側で西瓜を貪ったものだ。
星が多すぎて、三角形になんて気づけなかった。
「それで、別れを告げに来たのか?」狐は優しい声音で問う。
「もう、来る気はないのだろう?」
「そうですね、思い出は、あくまで思い出なので」
共有する者のないソレは、最早感傷に近い。いわば決別に来たのだ、若き己と。
「狐さんは、どうしてここから去らないんですか?」
「そうさなあ────」
深く煙を吐いて、狐は言う。
「産土であり、仲間と過ごした地であり、人の子らを見守った場所でもあるからだ。離れようにも、妾の心がここに囚われて動けんのじゃ」
狐が目を向けるのは、荒れ果てた田畑、廃れた家、闇だけを湛えた森。
「寂しいものだな」
目を閉じれば浮かぶのは、稲穂靡く田畑、活気のある家々、騒めく森。
「ごちそうさまでした」
狐が手を合わせた。どうやら、僕が思いを馳せているうちに鍋を食い終わったらしい。ちゃっかり油揚げを咥えてまでいる。
「さて、では馳走になった礼でもさせてもらおうか」
ぼおっと音を立てて、藍色の狐火が浮かんだ。ランタンよりも大きく、妖しく光る。
「其方は何が欲しい? 宝か? 女か?」
揶揄うように聞かれたもので、思わず笑ってしまった。少し逡巡してから、それに合わせようと、仰々しく答える。
「────それでは、一夜の夢を」
感傷を、思い出を、あの夏を──お願いしますと、そう言った。
「あいわかった!」
狐火が弾けた。部屋のスイッチが押されたみたいに提灯が乱立していって、境内は淡い橙と、波のような喧騒に包まれる。所狭しと屋台がひしめき、笛や太鼓の音がどこからともなく鳴り響く。ふと横を通り過ぎた、癖毛の小さな男の子が、不思議そうにこちらを見つめた。
出店の焼き物の香り、氷をガリガリ削る音、賑やかな家族連れ。間違いなく、あの頃の夏だった。心なしか数割増しで騒がしい気もするが。
「折角なのでな、妾の友たちも呼ばせてもらったぞ」
なるほど、言われてみれば、あそこの少女も連れ添う老人も、屋台の店主も太鼓持ちも、尻尾や耳が飛び出している。それに違和感を覚えないのはきっと、彼らが初めからそこにいたからなのだろう。
「──っていうか、なんで平然と隣にいるんですか」
「老い先短いのでな、少しくらい楽しませてくれ」
狐の面を耳に引っ掛けて、彼女はからからと笑った。別にいいが、こういうのって術者は空間の外にいて、そこから管理したりするものなんじゃないだろうか。
「これでも天狐と呼ばれたモノ故、このくらいは造作ない。特に今は、思い出を映写しているような状態だからな」
よくわからないが、一から空間を捏造して化かすよりも楽、ということはわかった。
「さあ、行こうか坊よ」
「これでも成人男性なんですけど」
口を尖らせて答えると、己の声が高くなっていることに気づく。いつの間にか服装は浴衣に変わり、伸ばした腕は短く小さい。なるほど、化かされたのか。勝ち誇ったような顔の彼女は、オレの腕を引く。
「何か食べたいものはあるか? 年長者として奢ってやろう」
「なら、焼きそばが食べたい!」
ソースの香りと鉄板の音が、食欲をくすぐった。ふっと微笑んだ彼女が、店主に小銭を渡し、パックを受け取る。子供の腕には少し重いくらいに麺が詰められていて、店主の優しさを感じたような気がした。しっかり目玉焼きまで乗っている。
「美味いか?」
「うん、とても!」
そうか、と彼女は満足げに頷く。神社母屋の縁側に座って食べるのが、毎年の恒例だった。不敬とも思えるが、他ならぬ神主の許可を取っていたので、問題はない。喧騒を遠くに見ながら、彼女が隣に座った。
「坊のお陰で、妾まで懐かしいよ」
「いえいえ、こちらこそ」
ご神木の下に立つ、小さな櫓の周りで、人々は和やかに踊っていた。人だけではない、狸も狐も、猫も犬も踊っている。きっと昔から、見えていなかっただけで──もしくは見ていなかっただけで、ずっとそこにいたのだ。
「坊、何故泣いておる?」
「え──?」
気づかぬうちに、瞳から雫は溢れていた。何故、なんて自分でもよくわからなかった。ただ────
「もう、こんな夏はないんだなって。なんとなく、そう思ってしまって」
「それでよいのだ。諸行無常、ただ春の夜の夢のごとし」
しゃなりと鈴の音が響いた気がした。それだけで辺りは静まり、僕らを囲うご神木が桃色に輝いていく──色づいていく。
「誰かが覚えていてくれれば、伝えていてくれればそれでよい」
いつの間にか祭りは終わり、提灯は消え、廃れた境内に戻りつつあった。それでも囃子は絶えず、彼女は上気した顔で振り返る。その姿がやけに懐かしくて、そうして思い出した。
「ああ──そうか」
冷静に考えてみれば、十数年で消え去るような集落群で、夏祭りなど開催できようはずがない。子供が一人きりで、山を満喫しつくせるはずもない。ずっと近くにいたんだ、彼女も、みんなも。
「ようやく思い出しおったか」
彼女の口が綻んだ。しょうがないだろう、大人になってしまったのだから。ああいうのは、純粋な子供しか覚えていられないと相場が決まっている。もう僕に、それを享受する資格はないということだ。
「まだまだ子供よ、あの頃と変わらずな」
「そりゃ、貴女と比べれば」
成長したはずの背丈でも、ぽんと軽々頭を撫でられてしまう。慈しむように口元を綻ばせ、彼女は白い息を吐いた。ふわりと舞い上がったそれは、渦を巻いてご神木に集まっていく。瞬きのうちに、夜を裂くように花が咲いた。
「冬なのか夏なのか春なのか、はっきりしてくださいよ」
「なんでもよいだろう、心が躍るのならば」
満開の桜が、冬風に靡く。ひらりひらりと散っていき、瞬く間に細く、皺くちゃになっていく。気づけばそこにあるのは、一本の枯れた桜だけだった。
「お別れの時間が来たようだ」
東の空は既に紫。目を凝らす必要もない闇は、彼誰時を告げている。
「また──会えますか?」
「はてさて」
彼女は悪戯っぽく笑う。夜の闇に溶けていき、朝の光に消えていく。
気づけばすっかり晴れていて、朝日が優しく瞳孔を突いた。夢だったのだろうか、眠い眠いと眼を擦った右手に、はらりと何かが触れた。見れば、それは白い花弁だった。
「きっと、また」
古びた本殿を見て、呟く。どこかで小さく、狐が鳴いた気がした。