ナナシは激怒した。
必ず、かの邪智暴虐の冒険者を制裁しなければならぬと決意した。ナナシにはダンジョンのルールがわからぬ。
ここはダンジョン30階層――通称《密林の峡谷》。瘴気漂う深層手前の危険地帯。その奥地に、彼は“研究のため”と称して、遊び半分でやってきた。
目的はただ一つ。蜜だ。
ダンジョンで稀に採取できる特殊な樹液。それは地上のものとは比べものにならない芳香を放ち、かの天界から降り立った神すら「天の蜜」と称賛するほどの逸品。芳しい、深い、心を溶かすような甘さ。
だが、どの木からでも採れるわけではない。
当たりかハズレかは、実際に枝を傷つけるまで分からない。しかも日によって反応が違い、昨日採れた場所が今日は沈黙することもある。
だからこそ、探し出すのは至難で、価値も跳ね上がる。
しかし、それでもナナシはやってきた。すべては自分の好奇心を満たすために。
そんな苦労の果てにようやく見つけた蜜木――それが、目の前で爆散した。
「…………」
数秒の沈黙のあと、ナナシの顔が、笑みでも歪みでもない、無表情のまま凍りついた。
そして――。
「どこのどいつだァ――ッッ!!」
峡谷に、怒声が轟いた。
明らかに人工的な爆発跡。モンスターではない。人為的な何かだ。
瞬間、ナナシの全身に戦闘態勢が走る。
まず殴る。
理由は後だ。
ボコボコにしてから、せいぜい言い訳を聞いてやらなくもない。
怒気が、ダンジョンの瘴気をも押し返す。
研ぎ澄まされた気配探知が、爆心地周辺の人影を捉えた。
次の瞬間、ナナシの右足が地を蹴り、風を裂く音と共に飛翔する。
わずか数秒、彼は集団の頭上に降り立つ――その瞬間だった。
天井が、揺れた。
いや、何かが落ちてきたのだ。
それは“何か”としか言えない存在だった。
巨大で、禍々しい。骨のような外殻に覆われた異形のモンスター。まるでスケルトンと化石を掛け合わせたかのような姿。だが、決して脆弱ではなかった。
その身を包む外骨格は鎧のように重厚で、両腕――いや、六本あるその“腕”のすべてには、アダマンタイトを思わせる鋭利な爪。
その異形が、集団の一人に襲いかかる。
断末魔を上げる間もなく、肉体は紙のように引き裂かれ、赤い霧をまき散らして崩れ落ちた。
絶望が、残された者たちを飲み込む。
理解を越えた死が、ただ目の前で起きた。
我を忘れて魔法を放つ者もいたが、魔力は弾かれ、爆ぜることすらない。武器を振るった者もいたが、打撃は全て甲殻に阻まれ、折れ、跳ね返される。
死が近づく――それを誰もが悟った。
ただ一人を除いて。
「ちょっと待て」
抑揚のない声が、混乱の只中で響いた。
異形が次の獲物へと爪を振り上げたその刹那。誰よりも速く、誰よりも軽く、その腕の軌道に入り――
ナナシは、それを、素手で、受け止めた。
爪が止まる。
無造作に、腕を掴む。そして、そのまま――引きちぎった。
バギィィッ、と骨が砕ける音。モンスターが、悲鳴を上げる。
ナナシは寸分の迷いもなく、懐へと飛び込む。
魔法でも刃でも傷つけられなかった外骨格に、彼の拳が突き刺さる。
そして――静寂が訪れた。
その瞬間まで暴威を振るっていた怪物は、まるで存在そのものが霧散したかのように、跡形もなく掻き消えた。
沈黙。恐怖。呆然。
その場にいた冒険者たちは、誰一人として言葉を発せず、ただ立ち尽くしていた。
ナナシは肩を軽く回しながら、ぽつりと呟く。
「……人の獲物を横取りするとか、マナーを守れ、モンスター」
まるで、少し嫌な出来事に巻き込まれた程度のテンションで。
そして、くるりと振り返る。
爆発の主犯とおぼしき冒険者たちに目を向けた。
「さて」
笑った。――無邪気な笑みだった。
だが、それを見た冒険者たちの顔から、色が消えた。
さっきの怪物以上の、理解不能の存在が、そこにいた。
圧倒的な力。理不尽な力。紛れもなく、“災害”と呼ぶにふさわしい存在。
誰かが悲鳴を上げるよりも早く、泡を吹いて倒れた。
一人、また一人。次々と意識を手放し、地に崩れる。
――断罪の時間。
その日、ダンジョン30階層に現れた“少年”によって、多くの者が人生観を更新することとなる。
己の限界と、世界の広さを知るために。
◆
気絶しているからといって、許されるわけがなかった。
ナナシは無言のまま、近くに転がっていた男の襟首をつかみ、右手を震わせる。
狙うは頬。決めるは百発。
問答無用の百裂ビンタを、今まさにその顔面に叩き込もうとした――そのとき。
「ちょ、ちょっと、いいかしら……?」
控えめな声と共に、トントンと肩を叩かれる。
ナナシが振り返ると、赤髪の少女が困り顔で立っていた。
何を言えばいいのか分からず、とりあえず止めに入ってしまったらしい。体が勝手に動いたのだろう。
「お仲間?」
その一言で、場の空気がピシリと凍った。
もし「はい」と答えていたら、その少女の顔面は間違いなくオークのようにパンパンに膨れ上がり、生涯マスク必須の人生を歩む羽目になっていただろう。
ナナシの怒りが本物だと察した少女は、勢いよく首を横に振った。
――ぶんぶんぶんぶんぶん。
「そ」
その一言で、ナナシの興味は失せた。
が、手は止まらない。
彼は無言で百裂ビンタを放ち、気絶していた男を強制的に覚醒させにかかる。
しかし、男は起きない。頬を叩かれ続けても、ぴくりとも反応しない。
――弱すぎたか。
ナナシは反省し、ビンタの威力を上げた改良版「百裂ビンタ改」を準備しようとした。
「やめて差し上げろ。
そんな彼の肩を、今度は小柄な少女が軽く叩いた。
冷静沈着な口調が、どこか深刻さを帯びていた。
「僕の苦労を台無しにした奴らに人権はない。慈悲もない」
ナナシの目はまだ怒りに燃えていた。
しかし次の標的を狙って動き出そうとする彼を、今度は周囲の少女たちが一斉に取り囲み、言葉で制した。
「この者たちは法の裁きを受けることになりましょう。お天道様の下を歩くことすらできはしません。あなたが手を汚す必要などございません」
そう言ったのは、長く艶やかな黒髪の女性。
口調は優しく、語りかけるようで、どこか淑やかだった。
……が。
「ムカつく。ぶん殴る。僕、笑顔になる」
理屈を超えていた。
「……ライラ、任せた」
「輝夜、面倒くさいならそう言え」
溜め息混じりに前へ出るのは、軽装の少女。
その視線がナナシとぶつかる。
「小僧、やりたいようにやるのが一番だ。やっちまえ」
「おっけ。あざまる」
「「「おいおいおいおいおい!!!」」」
一同が全力でツッコんだ。
「というか、君、見たことない顔だけど何者? あ、私はアリーゼ・ローヴェル。正義と秩序の神、アストレア・ファミリアの団長! えっへん!」
唐突な自己紹介。ドヤ顔つき。
「ナイス団長」と他のメンバーが話題をそらそうと拍手するが、その顔芸にはノーコメントを貫いた。
「個人情報漏洩の観点から、初対面の人には名乗らないようにしてるんだ」
「胡散臭い神様が言いそうなやつ!」
「……アタシとしては高評価だけどな。めんどくせぇけど」
「ライラ、口が悪い」
名前すら伏せるナナシの警戒心に、治安維持組織としての面倒くささと、同時にライラはある種の好感を覚えていた。
情報は武器だ。
自分の弱さを理解している者ほど、それを安易に晒さない。
「とりあえず、地上に戻らない? アストレア様も交えて話せば、少年もきっと――」
「あ、知らない人に誘われてもついていかないようにしてるんだ。何されるか分からないから」
正論だった。
正義のファミリアを名乗ろうと、それが証明になるとは限らない。
この少年にとって、エンブレムなどただの模様でしかない。
アリーゼがどう返そうか悩むその前に、
「とりあえずやることやって落ち着いたから、撤収します。あでゅー」
その場から、少年の姿が、ふっと――掻き消えた。
「……消えた!?」
一同が驚愕する中、さらに衝撃が走る。
「ちょっ……闇派閥の連中の顔……! 全員パンッパンなんだけど!?」
見ると、気絶していたはずの男たちの顔が、全員オーク並みに腫れ上がっていた。
十数人分の百裂ビンタが、誰にも気づかれずに炸裂していた。
「……誰も気づかなかったのかよ……」
レベル4を超える者すら含まれていたというのに、その誰一人として少年の攻撃に反応できなかった。
ただの怪力でも、ただの技術でもない。
あれは、圧倒的な“力”。
少女たちは、笑顔の奥に潜む異質な強さに、ただ圧倒されるしかなかった。
◆
オークにジョブチェンジした
その報告の中には、あえて伏せた「少年」の存在があった――それは今、主神アストレアにだけ伝えられている。
「正体不明のモンスターを、一撃で……それを助けてくれた謎の少年、ね」
静かな館の一角、神アストレアは眉を寄せながら、団員たちの報告を受けていた。
言葉は抑えていたが、その瞳には確かな驚きと警戒の色が浮かんでいる。
「リオンが入団した頃と比べて、幼く見えました。おそらく……十一、いえ、十歳前後かと」
報告するのはアリーゼ。彼女らしからぬ慎重な口調だった。
「その年齢の少年が、貴女たちでも勝てそうにないモンスターを、たった一撃で?」
アストレアの問いかけに、アリーゼは苦笑を浮かべながらも頷いた。
「質が違うとはいえ……イヴィルスの奴らの攻撃は無効化されてました。防御もできず、壊滅していました。あのモンスターに襲われれば十中八九、私達も全滅だったと思います」
その場にいた全員が、言葉を飲み込む。
普段から自信満々なアリーゼが、ここまで断言するのは極めて珍しい。
その慎重さこそが、今回の件の異常性を物語っていた。
アストレアは静かに頷く。
「……貴女がそう言うのであれば、きっとその可能性は高かったのでしょう。最悪の未来が訪れなくて、本当に良かった」
「清く正しく生きてるご褒美ですね、うん。やっぱり私ってばえらいっ!」
胸を張るアリーゼに、輝夜が冷たく言葉を投げつける。
「ボケ倒すな、団長。……それより、件の少年の行方はわかったのか?」
「えー? 私はギルドに報告しに行ってたし、それは輝夜の担当じゃないの?」
「その報告書を、誰が作ったと思っている? 私だ、ボケリーゼ」
眉をぴくつかせながらも、輝夜はため息をつく。
ナナシに関する記述は、すべて削除済み。
それは、必要以上の混乱を防ぐためでもあり――何より、あの少年に無用な注目が集まらぬよう、配慮した結果だった。
補佐役としての責務。
時にイラつく団長の尻拭いも含め、それが副団長たる輝夜の日常である。
「貴女たちがこうして相変わらずでいられるのも、その少年のおかげ。会ってみたいわね……きちんとお礼を言いたい」
アストレアは穏やかに微笑む。
その笑顔には、感謝と尊敬、そして一抹の警戒心が含まれていた。
「ダンジョン下層に防具も付けず、単独潜行するようなイカれたガキだ。何考えてるかなんて分かるわけねぇ」
ライラが頭を掻きながら嘆くと、すぐ隣でアリーゼが鼻を鳴らす。
「来た、来たわ! 私の勘が! すぐ近くに“あの子”がいるって叫んでる!」
両腕を広げ、きらきらとした目で天を仰ぐ団長。その姿は、もはや信仰者というより信者。
「……それ、女神の天啓とでも言いたいのかしら」
苦笑混じりにアストレアが呟くと、団員たちがそろって首をかしげた。
なぜこのアホの子が団長なのか――
毎度湧き上がる疑問が、今回も一同を包んだ。
だが、その“アホの子”の直感は――
なぜか、いつだってよく当たるのだ。
今作は24,25話くらいを想定しています。大筋は出来ているのでエタることはないと思いますが、仕事との兼ね合いもあるのでご了承ください。