優神を許さないのは何も間違っていない   作:生物産業

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第11話 脅威の男(震)

 ナナシは今、人生で五本の指に入るほどの冷や汗をかいていた。

 修羅場――そう呼んでもいい。かつて、人生最大の地獄と称した島国で、毎日尊厳の生死の境を彷徨っていたあの頃に匹敵する。

 

 いや、それすらも今は遠い日の記憶。

 数多の戦場をくぐり抜け、成長を重ねたナナシにとって、もはや脅威など存在しない――はずだった。

 

 その慢心が、今日の悲劇を招いたのである。

 

 へファイストスとの交渉で手に入れた不動産の一つを、ナナシは自らの研究施設へと改造していた。

 三日三晩、寝食を忘れ研究に没頭し、そろそろ気分転換がてらダンジョンでも、と扉を開けた――

 

 その時だった。

 

 扉の向こうに立っていたのは、筋骨隆々の大男。

 肌は褐色、目はぎらつき、背丈は二メートルを超える。

 種族はおそらく、猪人(ボアズ)

 

(ッッッ……来たッッ!!)

 

 久しぶりの“気配”に、ナナシの背筋が総毛立った。

 見覚えがあった。

 あの地獄の島で、自分の尻を執拗に狙ってきた益荒男たちと、同じ香りがする。

 

(こいつ……尻を……狙ってやがる!!)

 

 あの島――狂戦士の楽園。

 全裸の猛者たちが愛と筋肉と拳を武器に、“雄”を求めて戦場を駆けていた。

 

 まさか、奴らの尖兵がすでにオラリオに!?

 警戒を怠った自分を、今すぐ膝から崩れるほど殴りたい。

 

 ……まあ、全力で誤解だが。

 

「小僧、少し――」

「死に晒せえぇぇッ!!」

 

 相手の言葉を待たず、ナナシは光の残像と化した。

 かつては男の象徴を蹴り上げていたが、それが相手の性癖にヒットしてパワーアップされたというトラウマがある。

 

 故に、彼は学んだ。ボディだ、ボディを叩け。

 

 そして繰り出される――

 腹パン・イズ・ジャスティス!

 

 だが、相手も古強者。咄嗟に腕を下げ、衝撃を防いだ。

 

「チッ……」

 

 舌打ちをしながら、ナナシは続けざまに接近。

 尻はダメだ。尻に刺激を与えると、向こうの“覚醒”を引き起こす可能性がある。

 経験でそれを知っている彼は、相手の防御を逆手にとって、懐へ潜り込むと――

 

「ぬんっ!!」

 

 アッパー! 狙うは顎ッッ!

 

 だが、かすっただけで決定打にはならない。

 相手は後方に跳躍して距離をとる。

 

(クソッ……驕っていた……! 僕はあの頃より強くなったと思っていた……でも奴らも進化している……!)

 

 ナナシは後悔した。

 そして、よぎるのは最終手段――性転換。

 

 かの益荒男たちは“男”にしか興味がない。

 女になれば襲われることはない。つまり、尻は守られる――!

 

 だが、その代償はあまりに大きい。

 

(ちがう……! その道は尊厳を失う……ッ!)

 

 ナナシは震えた。

 襲われずとも、大事な何かが……自分の“核”が……消えてしまう。

 

 己を鍛え、仲間を集め、奴らに対抗する軍団を作るはずだったのに。

 油断した。奴らの上陸はまだ先だと思っていた。

 

「くそっ……! なぜ、もっと全力で準備を……!」

 

 だが、まだ敗北はしていない。

 

 目の前の脅威(おとこ)を排除し、どのルートで潜入してきたのか情報を引き出す。

 追加の刺客がいるかもしれない。全員の特徴を洗い出し、弱点を解析し、対抗魔道具を開発する必要がある。

 

 ナナシは震える拳を握りしめる。

 

(……やるしかない……!)

 

「聞きたいことがある。このオラリオに何人来ている!? 本隊はどこだッ!?」

「……何の話だ?」

 

 自分の尊厳を守るため、さらにギアを上げようとしたその時だった。

 

「待て。なぜ攻撃をしかけてくる?」

 

 大男が、至極真っ当な疑問を口にした。

 

「お尻を守るためさ」

 

 ナナシがキッと睨む。

 

「まさかこの都市にすでに侵入していたとは……アベの魔の手は、こんな遠くまで伸びていたのか。そうなると、他の都市は……もうダメかもしれない」

 

 オラリオが、地下にダンジョンを抱えながら、地上では益荒男(へんたい)たちの侵略から尻を守る最後の砦になるとは……誰が想像できただろうか。

 

「尻? なんの話だ?」

 

 大男は、至極当然の疑問を、二度目として口にする。だがこの状況では、それしか言えない。

 

「まさか……自分が“入れられる側”で悦ぶタイプか!? くっ、どうして僕なんだ!? もっと襲い甲斐があるのが他にいるだろう!? どうして僕みたいな幼気な少年にッ!」

 

 ナナシの叫びが、空に虚しくこだまする。

 叫ばずにはいられなかった。たとえ世界が無慈悲でも、尻の自由は譲れない。

 

「……何の話だ?」

 

 三度目の正直。大男は本気で困惑していた。

 

「知らないフリして、背後からの奇襲……もうその手には乗らない。散っていった元同志たちを、僕は何人も見てきた……!」

「……俺はフレイヤ・ファミリアの団長、オッタル。貴様には我が女神が――」

「女神を語るだと!? 擬態か!? まさか女という単語を出せるまでに進化したのか!? あの連中、女と聞けば吐き気を催すような、生粋の男好きのはず……!」

 

 オッタルは思った。

 

(もう……やだ)

 

 心の底から、そう思った。

 

 女神の命令じゃなければ、さっさと帰ってる。断言できる。

 

 その時だった。

 

「オッタル。随分と手こずっているようね」

 

 耳より先に、背中がぞわりと震えた。

 

 低く、甘く、まるで毒を垂らした蜂蜜のような声音。

 それは、“本物の女神”の登場を告げる声だった。

 

 巨躯のオッタルの背後から、ゆっくりと“それ”が姿を現す。

 

 風もないのに揺れる銀紫の髪。

 陶磁器のような白い肌に、全てを見透かすような黄金の瞳。

 微笑一つで、空気ごと支配してしまうような、得体の知れぬ“格”。

 

 その女神の名は、フレイヤ。

 

 ナナシは彼女を見て、反射的に口走った。

 

「な、なんだこの痴女……」

 

 ……言った。完全に、言った。心の声じゃなく、物理的に言葉に出た。

 

 直感が叫んでいた。

 

(この人……尻とか超越してる)

 

 肉体でも、魔力でも、精神でも、全部“上”から見下ろされている。

 性癖とかそういう次元ではない。これはもう、本能的なヤバさだ。

 

「ふふっ……面白い子。ねえ――あなた、わたしの眷属になる気はないかしら?」

 

 フレイヤは微笑む。妖しく、優雅に、余裕の笑みで。

 

 だが、ナナシは即答した。

 

「無理です!!」

 

 叫んだ。全力で拒否した。

 

「自分は普通なんで! アブノーマルな世界には行きたくない! 本能が叫んでる! あんたは……度し難い変態だああぁぁ!!」

 

 沈黙。

 

 フレイヤの微笑が、ゆっくりと深くなる。

 

 その瞳に浮かぶのは――好奇心、支配欲、そしてほんのわずかな――慈しみ。

 

「貴様、我が神に……そのような暴言を……!」

 

 オッタルがぷるぷると震え出す。怒りで全身が沸騰している。

 

 崇拝してやまぬ女神の寵愛を、真正面から突っぱねた少年。

 しかも“痴女”呼ばわり。

 

 もはや理性の限界だった。

 

「なんて悪魔のようなタッグ……! オラリオ……ここまで危険な都市だったなんて……!」

 

 ナナシは震えていた。

 目の前にいるのは、地獄から来た変態コンビ。

 

 ひとりは誤解。ひとりは本物。

 

 どちらも興味津々で、こちらを“狩る”気まんまんなのだ。

 

 オラリオ最大の脅威はダンジョンじゃない。変態だ。

 

 ナナシは今、確信した。

 

「あまりこういうのはやりたくなかったけど……私、欲しいものは必ず手に入れるたちなの」

 

 静かに、しかし確かな決意と共に、フレイヤは囁いた。

 

 その声に混じる甘さは毒にも似て、聞いた者の思考を蝕む。

 美の女神――その名は伊達ではない。

 神の力が封じられていようと、彼女の“魅了”は健在だ。同じ神であっても抗えぬほどに。

 

 フレイヤは、自身の象徴を解放した。

 

 普段は封じている“美”の奔流を、ナナシという少年に向けて放ったのだ。

 

「あ……アベの呪い……!」

 

 ナナシの顔が引きつる。

 

「これにやられて、何人の元同志が……! キモッ!」

 

 その一言が引き金となった。

 

 ぷつん、とオッタルの堪忍袋が音を立てて切れる。怒りのオーラを纏って接近してくる。

 

(大男が近づく=ヤバい)

 

 ナナシの脳内に染みついた方程式が発動した。

 

 反射的に繰り出される正拳突き――それはナナシの全攻撃の中で最速、そして最も精密な防衛行動。

 

 

「ぐはっ!」

 

 豪快な一撃を顔面に受けたオッタルが、錐もみ回転しながら吹き飛ぶ。

 そのまま空き家を三軒ほどぶち抜いて、地面にめり込んだ。

 

 ちなみに、このエリアは二年前の大抗争によってすでに廃墟と化しており、住人はいない。

 よって、被害はゼロ。ナナシに非はない。たぶん。

 この場にアストレアが来ようものなら、ボクは被害者の顔をする準備も万端だ。

 

 ……ただし、今回に関して言えば、十割ナナシが悪い。

 

「……ウソでしょ」

 

 女神フレイヤは、思わず口にしてしまった。

 自らの魅了が通じず、最強の眷属がぶっ飛ばされた。

 

 それは大抗争ですら味わえなかった衝撃だった。

 

「僕にかかわらないで……アベの同志」

「アベ? ああ、彼ね。あなた、彼の眷属なの?」

 

 フレイヤが、艶っぽく首を傾げる。

 

「私が言うのもなんだけど、愛の形は人それぞれ。……まあ、アレに私の魅了が効かないのは確か。なら、その子供にも効かないのは当然かしら。ちょっと自信、失くしちゃうわね……」

「訂正しろ! 僕は汚れていないっ!」

 

 ナナシの叫びが木霊する。

 

「変態痴女のくせに人を罵倒するなんて! 恥を知れ! アストレアちゃんの爪の垢でも煎じて飲むべきだ!」

 

 美の女神に対する前代未聞の暴言。

 だがナナシにとって、フレイヤの色香はただの毒霧でしかない。

 

「……まさか、神の恩恵(ファルナ)を受けていない?」

「誰が変態クラブの仲間入りになるか! 性癖を他人に押しつけるな!」

 

 ナナシが必死に叫ぶ中、フレイヤの笑みはさらに深く、妖しくなっていく。

 

「バベルから見ていたの。……あなたの魂、まったく見えなかったわ。汚れているのか、澄んでいるのか……まるで霧がかかっているみたいで。だからオッタルに会いに行かせたのに」

 

 我慢できなくて来ちゃったとフレイヤは可愛らしく微笑むが、その瞳は完全に猛禽のそれだ。

 捕食者。すべてを支配し、抱く女神。

 

 ナナシは、本能的に悟る。

 

(やべえ。この女、なにか分からんけどヤバすぎる)

 

「……貴方が欲しい」

 

 その一言。

 

 ナナシの脳内で、「即時撤退」のアラートが鳴り響いた。

 

(痴女様半端ないって! 正面からめっちゃねっとり見つめてくるもん! 少年相手に普通言う!? 言わんやろ、普通!)

 

 尻を狙う変態よりも、合法的に囲い込もうとする女神の方がヤバい。

 ナナシはそれを理解した。

 散らされる。何か色々と。

 

 ゆえに。

 

 無言で、だが全力で。ナナシは逃げ出した。

 フレイヤはその背を見送り、口元に手を添えてくすくすと笑う。

 

「ふふ……可愛い子」

 

 ――この瞬間、オラリオにまたひとつ、未解決事件が増えた。

 

 最強の敗北。

 そう噂される事件は、真相を誰も知らないまま、静かに神々の間で語られることになる。

 

 数日後

 

「物件変更したい」

 

 ナナシが真顔で研究室の立地変更を申し出た。

 

 代わりに差し出されたのは、彼が開発したばかりの合成素材。

 鑑定眼鏡に続くヤバいアイテム第二弾に、へファイストスが静かに頭を抱えるのは、また別の話である。

 

 ◆

 

「相談があるんだ」

 

 ナナシが珍しく神妙な顔でアストレア・ファミリアを訪れた。

 

 その表情に、アリーゼとアストレアは一瞬顔を見合わせる。

 これはただ事ではない、と。

 

 ホームに残っていた彼女たちは、急ぎ手を止め、ナナシをテーブルへと誘導した。

 

「フレイヤ・ファミリア……あれはヤバい。マジで。アベと同等のヤバさだ」

 

 その言葉を聞いて、アストレアの思考が一度フリーズした。

 

 フレイヤ・ファミリアと、アベ……?

 何の関係が? あ、お互い眷属に対する愛は凄かったとアストレアは共通点を思い出す。

 

 その作業に時間がかかったからだろう思考が停止してしまい、見かねたアリーゼが、代わりに尋ねる。

 

「ナナシ、フレイヤ・ファミリアと何かあったの?」

「いきなり、家の扉の前に居た。しかもヤバい気配をバチバチに放ってたから、問答無用でぶん殴った。そしたら痴女様が出てきて……全身の毛が逆立つような、あの、こう……なんとも言えない気持ち悪さに襲われて、やむなく撤退した」

 

 なんとも物騒な報告が淡々と告げられる。

 

「安心して。尖兵たる“おったてる”と、自分のナニの状態をいきなり告げてきた変態は撃退済み。まさか、初対面の少年に興奮する変態だったとはね……オラリオの恥部を一つ取り去れてよかった」

 

 情報量が多すぎる。

 

 そもそも、“おったてる”と記憶している時点で、人としてどうかしている。

 

「……ナナシ、正気を取り戻して」

 

 アリーゼが静かに口を開いた。声が少しだけ震えている。

 

「多分だけど、ナナシが吹き飛ばしたのは……フレイヤ・ファミリアの団長。オッタル。オラリオ最強の冒険者よ」

「……ぱーどん?」

 

 ナナシの顔に“???”が浮かぶ。

 一方、アリーゼの顔にも“???”が浮かんでいた。

 つまり、“何言ってんのこの子”の応酬である。

 

「魔境の地の尖兵じゃないの?」

「魔境の地ってどこなの……。でもオッタルさんは、ずっとオラリオにいるわよ。少なくとも、私よりずっと前から」

「……え?」

 

 時が止まった。

 

 ここでナナシの中に、一つの認識が更新された。

 

 ――自分を追ってきた益荒男では、ない。

 ――そもそも、時系列的に不可能。

 

 つまり――

 

「……人違い……?」

 

 アリーゼとアストレアは、揃ってコクンと頷いた。

 

「…………」

 

 ナナシは、テーブルの上の木皿を無言で手に取り、ガンと頭を軽く打ちつけた。

 

「よかった……僕の尻は……まだ守られていた……」

「そこじゃないのよ」

 

 アリーゼが眉をひそめる。

 

「フレイヤの眷属(こども)たちは、フレイヤを“崇拝”や“敬愛”ってレベル以上で見てるわ」

 

 アストレアが静かに補足した。

 

「ナナシに興味があるのはフレイヤ自身。眷属たちは……たぶん、興味ないわ。彼らにとって一番大事なのは、常にフレイヤだから」

 

 この発言に、ナナシの表情がほんの少し、いやほんの少しだけ曇る。

 

「まさか……勘違い?」

「……たぶんね」

 

 アリーゼの即答が、ナナシの心にダイレクトに刺さる。

 

「でも、フレイヤが興味を持ったみたいだから……関わってくるのは確実だと思うけど」

 

 アストレアが小さく肩をすくめる。

 その未来予測に、ナナシは目を細めた。

 

「……あの痴女様を、亡き者に」

「やめてぇぇええっ!!」

 

 アリーゼが思わず立ち上がる。

 

「それをやったら、オラリオが本当に滅びちゃうのっ!!」

 

 この都市は、かつて闇派閥との大抗争によって半壊状態にまでなった。

 ようやく復興の道を歩み始めたというのに、今また火種を投げ込む気かこの少年は。

 

 しかも本物の神様を。

 

「でもさ、痴女様を何とかしないと、変態の部下たちがこぞって襲ってくるんでしょ? 全滅か、痴女様か。犠牲が少ない方を選ぶのは、当然の判断だと思うけど」

「……あのね、普通、美の女神を“痴女様”呼びする人いないの。イシュタルが聞いたら笑い転げるわよ……」

 

 それでもナナシからすれば、至極まっとうな案だった。

 

 犠牲は少なく、目的は尻の安全確保。

 都市最強ファミリアの主神が一人いなくなるくらい、大した問題ではない(※致命的です)。

 

「つまり、今後“痴女様軍団”に遭遇した場合は――即逃走。尻に危険があれば、即切除。精神に影響が出る前に記憶封印。そして最悪の場合は――」

「ナナシっ、それもう完全に相手は死ぬから!!」

 

 アリーゼが悲鳴のような声で叫んだ。

 

「だって、僕が悪いわけじゃない! 悪いのは向こうだよ! 変態なんだよ!!」

「だから……! 誤解だってば!!」

 

 もはや論点が収拾不能である。

 アリーゼはそっと溜め息をついた。

 

「……お願いだから、これ以上オラリオを荒らさないで……」

 

 切実な願いであった。

 なにせ、これ以上大事件を起こされたら、マジで神々の会合に呼び出されかねない。

 

「でも、僕の尻は一つしかないんだ……!」

 

 その夜、アリーゼは生まれて初めて頭痛薬を飲んだ。

 

 翌朝、消えていた薬を見て、ファミリアの面々は絶句したという。

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