「たまにはファミリアの外で、気分転換も悪くないでしょう」
女神アストレアの穏やかな提案に、アリーゼ・輝夜・ライラの三人は素直に頷いた。
ギルドから戻って久々の外食――ホームに残っていたメンバーで軽く外食にでも、と話はすぐまとまり、四人は和やかに門をくぐった。
だが――その瞬間。
ふわりと、風に乗って漂ってきた甘い香りが、一行の鼻孔をくすぐる。
「……ん?」
戦乙女たちが思わず立ち止まるほど、濃密で、幸福感に満ちたその匂い。
甘ったるいのにしつこくなく、まるで夢のように優しい香りが、自然と足をその方向へと導いていた。
そして、普段は見かけない路地裏に、忽然と姿を現した屋台――
白い布にでかでかと書かれた文字にはこうあった。
『クレープ』
――反応したのは、やはりこの人だった。
「これ、絶対おいしいやつ!! 行きましょう、ええ、行っちゃいましょう! さあ、ゴー、ゴー、ゴー!!」
「テンションぶっ壊れかよ……」
ライラが呆れたように呟いたが、止める気配はない。
アリーゼはすでに勢いよく駆け出しており、後を追う三人も結局流れに飲み込まれるのだった。
「へい、らっしゃい」
屋台の店主は、少年だった。
年の頃は十歳そこそこ。だが、その手際はまるで熟練の菓子職人のように洗練されていた。
先頭に突撃したアリーゼは、店主の顔などまったく気にすることなく、焼き上げられるクレープの動きに視線を釘付けにしている。
だが――遅れてやってきた輝夜とライラの足が、ぴたりと止まった。
「…………」
「…………」
二人は無言のまま、クレープ屋の少年を凝視する。
「どうしたの、二人とも?」
様子を不審に思ったアストレアが声を掛けるが、返事はない。
ただ、視線だけが少年に集中していた。
それをよそに、団長様はマイペースに突き進む。
「私、この“ダンジョン特製ソース”ってやつにするー!」
無邪気な声で注文を伝えるアリーゼに、少年は「かしこまり~」と気の抜けた返事を返し、クレープ生地を薄く広げて焼き始めた。
手際よくフルーツを乗せ、濃厚そうなソースを回しかけ、くるりと包んで紙で包む――その一連の動きに、団長の視線は釘付けである。
看板に目をやって金額を確認し、しっかりと支払って、ついに受け取ったクレープを一口。
「~~~~~~っ!!」
アリーゼの全身がびくんと震えた。
口に含んだクレープは、まるで夢のように柔らかく、舌の上で溶け、深い甘みと香りが全身を包み込む。
味覚だけでなく、心の奥まで甘く蕩けさせるような一品。
今日あった恐怖や疲労が、すうっと溶けていくのを感じる。
それは、まさに異世界の幸福だった。
「おい、バカ団長」
陶酔に浸るアリーゼの背後から、輝夜の冷静な――いや、呆れ気味の声が飛ぶ。
よほどのことだったのか、いつも丁寧な口調の彼女からお淑やかさが抜けていた。
「輝夜も頼んだ方がいいわよっ! すっごく、すごいからっ!」
「……表現が死んでるぞ」
輝夜は軽くアリーゼをどかすと、クレープ屋の少年にまっすぐ顔を向けて声をかけた。
「……また会えたな、少年」
だが、返ってきたのは冷たい一言。
「……誰?」
きょとんとした少年の目。
それは悪意でも、意図的な無視でもなかった。
本気で――覚えていない。
その事実が、少なからず彼女の胸に突き刺さる。
自分の容姿に多少なりとも自信があった輝夜にとって、それは地味に――いや、かなり――堪える一言だった。
それでも、その感情を顔に出さなかったのは、さすが副団長といったところだろう。
ただ、ライラがその横で小声で呟いたのを、彼女は聞き逃さなかった。
「……地味にショック受けてるな、あれ」
◆
ナナシは基本的に、どうでもいいことはすぐ忘れる。
だからこそ――自分に声をかけてきた少女に対しても、遠慮なく率直な感想をぶつけた。
「……誰?」
その無垢な一言が、まだ少女と呼んで差し支えない年頃の輝夜の心に、サクッと小さな傷を刻んだ。
だがナナシは、その反応に気づかない。
気づかないというより、「察する」という高等スキルを最初から搭載していなかった。
「あっ! あの時の子!」
ようやく気づいたらしいアリーゼが、両手を打ち鳴らして歓喜の声を上げる。
「……遅せぇよ、気づくの……」
ツッコまずにはいられないライラが、小声で毒づく。
そんな三人のやり取りを見て、アストレアもようやく目の前の少年が「件の少年」だと理解した。
ふと、落ち込む輝夜の肩にそっと手を添え、女神は優しい笑顔でナナシに語りかける。
「初めまして。私はこの子たちの主神、アストレアよ。ダンジョンでは私の子どもたちを助けてくれて、ありがとう」
「……?」
少年の眉が小さく寄る。
「……心当たりがありませんって顔してるね」
アリーゼが苦笑を浮かべながら呟く。
自分たちの命を救ってくれた存在が、この程度の認識しかしていないという事実に、どこか肩の力が抜けてしまった。
「うん。何の話?」
「お前、アタシらとダンジョンで会ったの、覚えてるか?」
ライラが語気を抑えながら尋ねると、ナナシは首をかしげたまま、ぼんやりと答えた。
「……なんとなく」
「なんとなく、かよ……」
予想通りの返答に、ライラは顔をしかめる。
「三十階層で、変な連中をボコボコにしたのは?」
「ああ、それは覚えてる。僕の苦労を台無しにした愚か者どもに、怒りの猛抗議しようとしたら……顔がふくらんでた」
「そりゃお前のビンタが強すぎたせいだな」
「いや、あれでダメージ受ける方が悪い」
平然と返すナナシに、ライラは言葉を失う。
(第二級冒険者が見えない速度で往復ビンタ……。全力だったら……頭ごと消し飛ぶか……?)
想像したが最後、脳が自己防衛本能で停止を選んだ。
「それでだ。その連中が呼び出したかは不明だが、化け物みたいな化石モンスターが出ただろ? ……あれを倒してくれなかったら、アタシたちは全滅してた。だから、アストレア様が礼を言ってんだ。分かったか?」
「まあ」
「……まあ、ってなんだ……。まあいい。礼を言わせろ。ありがとうな」
ライラが丁寧に頭を下げ、それに続くように輝夜とアリーゼも深く礼をする。
「特に気にしなくていいよ。あいつらが僕の邪魔をしただけだから、ついでみたいなもんだしね」
ナナシのスタンスはあくまで“自己都合”。
だがそれでも、結果的に助けられた彼女たちには、その無関心ささえ救いに思えた。
「じゃあ……!」
と、アリーゼがひらめいた顔で声を上げた。
「この屋台の商品、全部買うわ! それが恩返しよ!」
「お前が食べたいだけだろ、アリーゼ」
「輝夜もライラもいっぱい食べるといいわよ! すっごく……すごいから!」
「語彙力どこいった」
天然すぎる団長のボケっぷりに、思わず突っ込まずにはいられない輝夜。
それでも、団長の一言が場を柔らかくする。
結果として、他の三人もクレープを注文し、それぞれ出来上がりを楽しみに待つこととなった。
「はい、餡子と生クリームの人」
「私は輝夜だ。変なあだ名を付けるな」
一口、ぱくり。
目を見開いた輝夜は、数秒ののち、ゆっくりと頬をゆるめる。
「……美味い」
それだけで、十分だった。
「フルーツの人」
「ライラだ。こう見えて、お姉さんだ」
「僕、11歳だから、だいたいみんなお兄さんかお姉さんだよ」
「……11歳……。やっぱりその歳であの実力って、頭の中じゃ理解してても、受け入れられねぇな」
「11歳が、無装備で下層にソロ潜行とか……この聡明な私の思考回路では処理できないわ……」
「というかさ、お前……最近オラリオに来たのか?」
「チョコレートの人」
「あっ、私ですね」
ライラの質問は完全にスルーされ、アストレアにクレープが手渡される。
神である彼女も、例外なくその甘味に目を細めた。
まるで母が我が子を見守るように、微笑みながらクレープをかじる。
その後しばらく、ナナシが焼く→乙女たちが食べる、という和やかな時間が繰り返された。
――だが、ナナシはその一部始終を、じっと観察していた。
「……ん? なんかついてるか?」
じっと見つめられて、ライラが顔を手でぬぐう。
「ううん。今、調査中」
「調査……?」
「そう。至高の甘味で乙女たちがどれだけ横に成長するかの経過観察」
「……成長、横に?」
その瞬間、クレープを食べる手が止まった。
聞こえてしまったのだ。聞きたくなかった言葉が、はっきりと耳に入ってしまった。
「ダンジョン産の食材って栄養価が異常に高いんだよね。しかも僕のスキルが入ってるから、効果は10倍以上。1個で3食分の栄養価あるし、90%の吸収率。つまり、食べたらほぼ脂肪になるってこと」
ざわっ、と乙女たちの顔が引きつる。
「えっ、それって……」
「うん。特に顎周り、少し膨らんできたね」
全員、神速で顎に手を添えた。
ぷにっ。
――終わった。
「……ちなみにこれは、元々家畜を大きく育てるための研究成果なんだけど、人間でもいけるってわかってよかったよ!」
満面の、まるで天使のような笑顔。
「……言い残すことは、それだけか?」
殺意を含んだライラの声に、輝夜とアリーゼも無言で武器を構えた。
自覚はある。自業自得なのもわかっている。
でも……乙女心は理屈じゃない。
乙女に喜々として肉を付けようとしたら、それはもう――戦争だろうが!!
「あ、僕、こういう時にボコられるギャグキャラじゃないから」
ふ、と一閃。
風圧だけで、3人の額を正確に打ち抜いた。
光速の3連デコピン。
それは一瞬で、三人の意識を地に沈めた。
バタッ。
「……貴方、本当に何者かしら」
ただ一人静観していたアストレアが、乾いた笑みを浮かべる。
「ひゅーまん」
少年――ナナシは、まるで何事もなかったかのように、次のクレープを焼き始めた。
◆
いくら神といえど、下界では万能ではない。
力の大半を封じられた女神アストレアにとって、気絶した団員三人を抱えて帰ることなど到底無理な相談だった。
ホームはすぐそこだ。されど、この状態では――。
「この子たちを運ぶの、手伝ってくれないかしら?」
気絶させた張本人にそんなお願いをするのも変な話だとは思った。
だが、他に頼れる者もいない今、背に腹は代えられない。
「おkおk」
ナナシはあっさりと了承した。
手早く屋台を畳むと、気絶しているアリーゼと輝夜を、それぞれ肩に担ぐ。
まるで収穫した芋袋を運ぶかのような雑な扱い。
一番小柄なライラをアストレアに任せたのは、少年なりの配慮だったのかもしれない。
屋台を引き、二人の少女を両肩に担ぎ、女神と並んで街を歩く。
――異様だった。
そしてさらに異様なのは、その隣にいる女神までもが、少女を背負っているという事実。
誰がどう見ても「事件性を疑われる構図」である。
が、本人たちは至って真面目だった。
しばらく奇妙な隊列で街を進んだのち、アストレアがふと隣の少年を見た。
「あなた、お名前は?」
「個人情報なので黙秘で」
「……そう。けれど、それだと会話が難しいと思うの」
「ナナシ。名前がないからナナシ。良いネーミングでしょ?」
アストレアの表情が一瞬止まる。
その言葉に――少年の過去の一端を、彼女は察してしまった。
神は下界において人のように振る舞っていても、"真偽"だけは感知できる。
この少年の言葉は――嘘ではなかった。
彼は本当に、名前を持たずに生きてきたのだ。
「あ、でもね。別に過去に縛られてるわけじゃないから。恨みとか復讐とか、そういう中二病みたいなことはしてないよ。……ま、相容れない国はあるけど」
「……なぜかしら。天界の友人と話している感覚に近いわ」
「ああ、それは言葉遣いかな? 胡散臭い爺さんが『神様の日常漫画』なる本をくれてさ。あれ、言語覚えるのに便利だったんだよ。影響で語彙が神様寄りになってるのかも」
「胡散臭い爺さん……」
アストレアの記憶の中で、数々の「胡散臭い神」のリストが次々と浮かんでは消えていった。
あまりに該当者が多すぎて、誰とも特定できなかった。
そうして会話を続けるうちにアストレアは感じていた。
この少年は――自由を望んでいる。誰にも縛られず、自らの信じる道を歩もうとしている。
たとえ、それが神を敵に回すことになっても。
そんな感覚をアストレアは感じ取ったのだ。
「貴方は正義が嫌いかしら?」
なぜそんな質問をしたのか? 子供に聞くような話ではないが、アストレアの口から自然ともれたものだった。
「ああ~、もしかして僕が自分の不幸を~みたいなこと思ってる? ないない。正義? 良いんじゃない好きにすれば? 正義だろうが悪だろうが、結局のところ力の強いものが決める都合の良い考えなんだから。モンスターみたいな弱肉強食の世界、僕たち人間のように秩序を是とする世界。要は大多数にとって過ごしやすい世界を目指す。その秩序を守る存在を正義、乱す存在を悪っていっているだけだと思う」
正義と秩序の女神に対して、それを気にしたそぶりもなく言い切るナナシ。
「それこそ、どこぞの国家みたいに周辺に侵略戦争をしかけるのが日常だと、秩序なんてクソくらえ。一人でも敵を多く殺した者が正義。逆にオラリオみたいにある程度統制が取れているなら、暴れる奴を倒す者が正義。ただの言葉遊びじゃない?」
「絶対的な正義はないということかしら?」
「少なくともこの世界では。そもそも絶対的なものがないからね。諸行無常だっけ? 極東の言葉だったかな? 世界は変わるのだから、考え方が変わるのも当然」
まるで一つの考えに縛られるのがおかしいとでも言いたげだった。
「貴方は正義が嫌い?」
そんなナナシに対して、アストレアは同じ質問をした。
「僕は、うーん……苦手かな。誰かのために命を張るとか、正義のために全力を尽くすとか。そういうの、たぶん向いてない。でも、それを当たり前みたいにやっちゃう人がいるのは、すごいと思うよ。綺麗ごとを命がけで笑いながら語っちゃう存在、それが正義の味方だからね。頭が下がるよ」
その言葉にアストレアは一瞬きょとんとしてしまう。バカにされたわけでも、見下されたわけでもはないことがわかってしまうからだ。
純粋に心から言葉。
だから、少しだけ嬉しくなった。
やがて、アストレア・ファミリアのホームが見えてくる。
団員たちはまだ外出中らしく、静かな館の門を開き、アストレアが先導する。
掃除が行き届いた廊下を進み、来客用ホールへ。
ナナシは躊躇なくソファへと進み、アリーゼと輝夜を左右に放り投げた。
「はい、完了。じゃ、バイバイ」
軽く手を振って、踵を返す。
その背中に、柔らかな声がかかる。
「ありがとう、ナナシ」
ナナシは振り向き、にこりと笑った。
「どういたま。また会ったときはよろしくね」
そう言って、ふわりと――影に溶けるように消えていった。
そして、館には静寂が戻る。
「……ん」
その直後、ソファに横になっていた3人が、順々に目を覚ます。
「起きたのね。頭は大丈夫?」
「アストレア様、それだとアタシたちがヤバい奴みたいだからやめてくれ……」
額を押さえながらライラが呻く。
「あの少年は……?」
周囲を見回しながら、輝夜が問う。
「貴女たちを運んでくれたあと、すぐに帰ったわ。名前は“ナナシ”だそうよ」
「……完全に偽名じゃねーか」
ライラが憤るが、アストレアの静かな声がそれを打ち消す。
「名前がないから“ナナシ”。おそらく、親や家族を知らずに育ったのでしょう」
「戦災孤児か……」
輝夜が、ぽつりと呟く。
雰囲気が、一気に沈む。
そこへ――アリーゼの明るい声が割って入った。
「暗い、暗い! あの子、今すっごく楽しそうだったじゃない。それって素敵なことだし、私たちがあの子の過去をどうこう言うのって、ただの傲慢じゃない?」
その言葉に、皆の顔がはっと上がる。
「さすが、聡明で美少女な私♪」
「「イラ☆」」
輝夜とライラは無言の笑顔で親指を下に向けた。
アストレアは静かに微笑む。
「それにしても、あの子……間違いなく、レベル5以上よね。腕の動きがギリギリ見えたくらい」
「あやつの腕が一瞬だけぶれた。分かったのはそれだけだ」
「うげぇ……アタシなんて気づいた時には地面に転がってたぞ……」
ライラがうなだれる。
本当はナナシの動きは“見せていた”のではなく、“見えた気になった”だけだ。
それだけの速度で、彼のデコピンは炸裂していた。
「ねぇ、どこのファミリア所属なのかしら? あの実力ならフレイヤかロキ・ファミリアにいてもおかしくない」
「二つ名を聞いたことがないのが逆に怖ぇ」
「……オラリオの外から来た?」
「妥当でしょうね。さすが私!」
「お前の意見じゃねーだろ」
テンプレ通りのライラのツッコミに、アリーゼは得意げに胸を張る。
――と、その時。
「ナナシはたぶん、“
「「「……えっ?」」」
アストレアの静かな爆弾発言に、全員の思考がフリーズする。
「確証はないけれど、神の気配がしなかった。私たち神には分かるの。恩恵を受けた子どもたちの気配くらいは」
「……それ、冗談ですよね……?」
輝夜が乾いた笑みを浮かべるが、アストレアは優しく――だが、確かに頷いた。
「まじかよ……」
ライラが呟く。
「神の恩恵なしで……あそこまで……?」
「? ……いいじゃない、そういう子がいても。神様がいるんだから、人間にもとんでもないのがいてもいいと思わない?」
アリーゼの正論に、ライラも輝夜も、反論できなかった。
「ま、屋台やってるみたいだし、またすぐ会えるわよ。その時、もっと話しましょ♪」
「お前の楽観主義、時々神がかってるよな……」
「同感だ」
そして、アストレア・ファミリアは――また、団長によっていつもの調子を取り戻していくのだった。