昼下がりのオラリオ北の通り。
少し喧騒が和らいだ時間帯。冒険者たちの声も一息つき、露店の店主たちがぼやきながら日陰に腰を下ろしている。
そんな通りを、一人の少女――いや、少女というにはいささか勝気すぎる――が書物を抱えて歩いていた。
黒髪を綺麗に背中に流し、凛とした瞳に正義の意志を宿す彼女こそ、アストレア・ファミリアの副団長、輝夜。
「……ふむ、やはり魔力循環における身体能力向上は、過剰にやりすぎると体を壊すか」
難しい顔で頁をめくる。
彼女の手に取る背表紙には、『ナナシ式ワンパン美学――一撃で倒したいよね?』というどこぞの感性がぶっ飛んだ少年が書いた技術書である。
輝夜の魔力に関する説明に答えるのが面倒なナナシが、本にして渡したものだ。
本にする方が面倒なのは、この際気にしない。
書物を読んでいても周囲の気配には敏感だ。この本の中で書かれている、魔力による気配探知を実践しているからだ。
だからだろう、そんな彼女が視線を上にあげた。
その歩みは自然と止まる。
視界に、見慣れた女性の姿が映った。
露店通りであるため、なにやら物色しながら歩いていた。
「……あれは」
落ち着きのある深い青の髪。
街の群衆の中でも、ひときわ目を引く威圧感。
それはガネーシャ・ファミリアの団長、シャクティ・ヴァルマであった。
彼女もまた、輝夜に気づいたのか、立ち止まりこちらを見やった。
「……輝夜か。奇遇だな」
「そちらこそ、まさかこの時間に街をぶらついているとは思いませんでした。憲兵さまもたまには休暇ですかぁ?」
一拍の静寂。互いに仕事の合間というには、あまりにもリラックスした空気が漂っていた。
「まあ、そんなところだ。ガネーシャの奴が、働き過ぎだとうるさくてな」
「あらあら、私も同じですぅ。アストレア様が、たまには息抜きをというので、こうしてぶらついてましたぁ」
「本を読みながらは感心せんがな」
「怒られてしまってはいけませんね。どうです? 軽い食事でもしながらお話でも。アーディのこともありますし」
「そうだな。3日に一度はガネーシャ・ファミリアを訪れているが、今のあいつの仲間から客観的な評価を聞くのも悪くない」
静かに頷き、二人は連れ立って近くの食堂へと歩き出す。
凛とした美人が二人であるいているというのに、彼女たちに絡もうなどという勇者はいないのだった。
「あの二人怖ぇよ」
勇者になれなかった男の呟きである。
◆
選んだのは、通りの裏手にある小さな食堂だった。
冒険者相手の店にしては落ち着いた雰囲気で、昼時を少し過ぎていたためか、客もまばら。
二人は奥の席を陣取り、注文を済ませると湯気の立つスープを手にとって、ようやく一息ついた。
そうして、各々が情報交換をしていく。
「……最近、
少し真剣な顔をするシャクティに、輝夜も猫被りをやめた。
「嵐の前の静けさとならなければいいが。おかしな武器の流れとかはないのだろう?」
「ああ。しかし、最近おかしな野菜が市場に出回っているらしい。なんでも、活きが良いと脱走するとのことだ」
「聞いたことがありますね」
なんならうちの食堂で披露されていると、輝夜は言いかけてやめた。
ルノアがデメテル畑を手伝う際に、おすそ分けとしてもらってくるのだ。
食事を口に運びながらも、話題はどうしても仕事じみてしまう。
だが、その話の中心にやはり彼が登場してしまう。
「……ところで、例の少年。ナナシという子、だな」
その名前に、輝夜はほんの少し、苦笑いを浮かべた。
「噂になっているか?」
「いや、アーディの話にちょくちょく出てきてな。何度も命の危機にさらされていると不満そうに言っていたが、命の保証はされていると苦笑していたぞ」
「言い得て妙だな。あいつの近くにいるのが一番危険で、一番安全だからな。アーディが被害にあうのも仕方がない」
「借金を半分以上返したと聞いて驚いたが、まさか命がけなのかと説教してやったぞ」
「ナナシについていくだけで命がけだ。私達も何度か地獄をみた。まあ、借金返済の一番の近道ではあるがな」
輝夜が語るナナシ。どこか少し楽しそうなのが、シャクティは気になった。
「珍しいな。お前が人を楽しそうに語るのは。リオンあたりは口喧嘩が絶えないはずだが?」
「あのクソ雑魚妖精は純真すぎる。うちの姉たちは甘やかすからな、私がきつく言ってやらねばならんのだ。それにナナシに関して言えば、あれと知り合って興味を持たない方がおかしい。アーディもそうだろう?」
輝夜の問いに、シャクティは微妙な顔をした。
「まあ、男女の恋愛は自由だが、まだ子供だ。好きならそれでいいが、世間的な目を考えると……」
「……なぜそうなる? あれを知って異性としてみるわけなかろう。珍獣の類だ」
「しかし、アーディが言っていたぞ。輝夜のナナシを見る目がちょっと怪しいと」
シャクティがすました顔をするが、口元は少しだけ上がっている。
「アーディは帰ったら訓練でぶちのめす」
姉の不要な発言により、アーディの悲鳴が上がることが確定した。
「で、実際はどうなのだ?」
「乙女か! それを言ったらお前こそ良い歳――」
「ん?」
アラサーからアラフォーに向かう乙女に、言ってはならない発言だ。
見た目が20代にしか見えないため、勘違いされやすいが、彼女はオラリオ最強のオッタルより年上。アーディとの年齢差を考えると、親子でもおかしくない。
非常にデリケートな内容にしまったと、輝夜は視線を泳がせ、話を変える。
「ナナシの話だったな。あやつの奇天烈っぷりは枚挙にいとまがない。私たちが海に沈められた時の話をしよう」
鬼畜の所業を語ることで、自分の失言を帳消しにしようと画策する。
性格が悪いとナナシに言われるだけはある。どっちもどっちだが。
「……まさか
「いやそうではない。あ奴の中ではこれくらいは普通、問題ないという認識なのだ。常人では拷問に近くともな」
「力量を把握できない輩か、リオンのように不器用な奴か?」
「それをナナシの前で言うな。おそらくとんでもない逆襲される。そしてナナシの観察眼は異常に高い。死なないラインを完全に見極めている。だからこそ、たちが悪いのだが」
「お前たち、レベル5が複数いて、一人の少年にいい様にやられると聞くと、笑い話では済まされないな。
妹の恩人とはいえ、それは別の話だ。世界の脅威になるのならただ見ているわけにはいかない。
「その点に関しては今のところ問題ない。常識がずれているだけで、当人は善人だ。性格が悪く、クソ生意気な小僧だが、根はいい奴なのは間違いない」
輝夜とナナシは似たもの同士なのかもしれない。お互いがお互いを認めつつも、性格がクソという一点は譲らないようだ。
「ほーう、お前がそこまで言うのか。もう少し少年の話を聞かせてくれ。面白そうだ」
「アーディから散々聞かされているだろう」
そう言いながらも、輝夜はナナシの話を楽しそうに語るのだった。
◆
食堂の片隅、二人の美女が語り合うテーブルから少し離れた席に、一人の小柄な少女が腰かけていた。
栗色の髪に大きなリュック――リリルカ・アーデ。その瞳は、二人の会話に向けられてはいなかったが、耳はしっかりと働いている。
彼女は聞いてしまったのだ。
“ナナシ”という名を。
(……その名前、また聞いた)
心の奥がざわりと揺れる。名は知らずとも、恩がある。その“誰か”が、そう呼ばれていたと、最近になって断片的に耳にしていたのだ。
思い返す。
かつて、自分がまだソーマ・ファミリアにいた頃――。
それは、絶望の渦の中だった。
ファミリアの団員に虐げられ、命を落としかけたことも何度もあった。
けれど、彼らに縋らなければ生きていけない。そう思っていた。
こんなクソの世界は滅んでしまえと何度も思った。
だけど自分は何もしていない。ただ世界を呪うばかりで何も行動できなかった。
しかし転機が訪れる。
ただ、助かった。
言葉にしてしまえばそうだけだ。
しかし、自分にとってはまるで神の奇跡。
だけど、そこに神はいなかった。
ただ、誰かがいた。
誰かが、助けてくれた。
それが“ナナシ”という名の人物なのだと、最近ようやく繋がり始めた。
リリは、静かにスープを啜る。
熱さで涙がにじんだのをごまかすように。
(ありがとう、って……ちゃんと、言える日が来るのかな)
彼女は誰にも気づかれず、椅子の上で小さく肩を揺らした。
ほんの少しだけ、笑って。
彼女は知らない。彼女が地獄から解放されたのは本当に偶然で、犯罪者に人権はないと金をせびりに行ったクソな性格の少年の行動の結果の副産物だったとは……。
世の中知らない方が幸せということは往々にしてあるのだ。