鍛冶師志望のTS幼狐 作:黒幼狐
ダンジョンの空気は、今日も湿り気を帯びて重かった。
けれど、僕の胸は妙に軽い。
ここしばらく潜り続け、敵を倒し続けたことで身体も心も慣れてきた。
子狐丸を手にすれば、刃が自然に動く。以前のように怖じ気づくことも少なくなった。
「……僕、ちゃんと強くなってる」
小さく呟いたその言葉は、今の僕には確かな実感だった。
ゴブリンの群れを危なげ無く捌き、コボルトを切り倒す。傷だって負わずに済むようになってきた。
スキル【鍛魂一如】の力が確かに働いているのだ。
━━だが、その油断が命取りになるとは、このときの僕は知らなかったのだ。
◆ ◆ ◆
翅音がした。
最初は気のせいだと思った。
けれどそれはすぐ、はっきりと僕の耳を打つ羽ばたきに変わった。
「……なに?」
振り仰いだ暗がりの天井。
そこに貼りつくようにして、紫色の翅を持つ巨大な蛾がいた。
━━パープル・モス
冒険者の間で忌避される魔物の名が、頭の中で鳴り響いた。
次の瞬間、紫の粉がはらはらと舞い落ちる。
「━━ッ!?」
息を吸った途端、喉が焼けるように痛み、視界がかすむ。
慌てて口を袖で覆ったが、すでに遅い。身体が鉛のように重くなっていく。
(毒……!?)
刃を振りかざして跳び上がろうとする。しかし、紫蛾は遥か上空。壁を蹴ったところで子狐丸の間合いでは届かない。
その間にも粉は絶え間なく降り注ぐ。
「はぁ……く、そっ……!」
一歩踏み出すたび、身体が沈む。肺は毒に蝕まれ、息をするたびに痛みが走る。
焦燥と恐怖が混じり合い、鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。
「このままじゃ……負ける……!?」
心の中で、はっきりとその言葉が浮かんだ。
(逃げなきゃ……!)
頭を振り、脚を踏み出す。
走るたび、身体がぎしぎしと軋んで肺が悲鳴を上げる。
背後からは翅音が追いすがり、毒粉が絶え間なく降ってくる。
脚は震え、視界は霞む。
石壁に手をついて必死に支えながら、それでも前へ、前へと進む。
『生きて帰れ』
神様の声が、脳裏に蘇った。
あの硬い指先で頭を撫でながら告げてくれた言葉。
「……絶対に……帰る……!」
声にならない声を吐き、最後の力で駆け出す。
やがて翅音が遠ざかり、粉の気配が消えていった。
階段を駆け上がり、地上の光を目にした瞬間、僕はその場に崩れ落ちたのだ。
◆ ◆ ◆
荒い呼吸を繰り返しながら、僕は背中に冷たい石床を感じていた。
身体はまだ重く、手足の痺れは抜けていない。
「……勝てなかった」
絞り出した声が、やけに弱々しく響いた。
刃は震えている。僕の心と同じように。
それでも、子狐丸だけはしっかりと握り締めていた。
この相棒と一緒なら、きっと次は乗り越えられる。
そう信じたかった。
震える胸の奥の、小さな炎を守るように……。