僕、夢浮橋芥(ゆめのうきはし あくた)には不思議な特技があった。
いや、特技だとは思っていなかった。治療方法不明な病気だとか性質の悪い呪いだとか、そういうネガティブな思考でその能力と向き合っていたと思う。
松風界隈と殴り合った『静かな戦争』から五年が経つ。あれから僕は、色々やって、色々遭って、色々色々して、そうして今の僕に辿り着いた。
この僕の能力は、『神の否定』と呼ばれる。
僕はこの五年間でそんな能力が役に立たなくなるような生活を創り上げたつもりだ。それが上手くいったと踏ん反り返るのにはまだ時間が必要だろうけど、少なくとも今、僕はこの能力を使っていない。
三十年以上も付き合ってきたこの体質を蹴っ飛ばしてしまうのは我ながら無情だとは思うけど、罪悪感に反して僕は今の生活に充実を感じている。
きっと『神の否定』なんて、そもそもどうだってよかったことなのだろう。
幽霊が視える、ということは。
神様が視える、ということは。
精神を防御する、ということは。
神の天敵である、ということは。
そんなの、どうでもいいことだったのだ。
……よくもまあ何年も気に掛けれていたものだと、今になって昔の自分に呆れ返る。劣等感(コンプレックス)など気の持ちようでどうにでもなる、というのはあまりにも使い古された綺麗事だろうけど、夢浮橋芥という男にはことの外、当てはまる言葉だ。
だけど今までの苦悩とか葛藤とか辟易とかを否定するつもりはない。それは思い出のように綺麗なものでなければ経験のように実のあるものでもなかったけれども、僕がどうやって生きるべきかの指針にはなるものだった。
須磨洟子(すま はなこ)という憧れも、帚木鵆(ほうきぎ ちどり)という恋人も、夢浮橋愛(あい)という母親も、桐壷つむじ(きりつぼ)という相棒もいないけれど、いなくなった彼女達のことを忘れたことはない。どころかそれなりに引きずってるし、同時にそれなりに吹っ切っている。
矛盾しているようだが、まあそんなものなのだ。
僕は生きている。
だから頑張れる。
とにかく玄舟学院学校長。夢浮橋芥、三十三歳。
今日もちゃんと、生きている。
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須磨洟子の話をしよう。
この世界には何十億人もの人間がいて、死んでいった先人を含めるとその数は倍では効かないほどの数になるのだが、須磨洟子はそんな無数の人間の中の一人であった。
彼女は常に笑顔であった。
あたかもそれが義務であるかのように、まるでそれがクラスで決まった当番であるかのように、常に笑顔を絶やさぬ少女であった。
実際、彼女自身はそれを義務ともクラスの当番とも感じていたのかもしれない。強く、優しく、笑顔でいれば他人は同じだけの要素を自分に与えてくれる。同時に自分がそうあることで、誰かの支えであることが出来ると。
須磨洟子が得たものは極めて矮小でしかし誰もが一度は感じる、自己満足の正義感であった。
もちろん、それに救われた身である僕が『矮小だ』なんて罵る権利は無いだろうけど。
かくして須磨洟子はその個性で小さいながらもコミュニティの中で高い地位を確立していったのだが、それが通用するのは長い期間を過ごした小さなコミュニティのみで、どこであれどんな状況であれ通用するものでは、断じてない。
最期の土地に辿り着くまでに彼女は二度の転校を経験している。一度目は小学二年生。二度目は中学卒業時。どちらも九州の、腑抜けた田舎町だったのだ。それが、致命的だった。
玄舟学院高等学校は、彼女が過ごした土地よりいくらか都会的な場であった。
運が悪かった、要領が悪かったなんて言葉は慰めにもなりはしない。強いて言うならば、須磨洟子の頭が悪かったのだ。辛辣な言葉だろうけど簡潔に言うならばそれしかない。今までと同じような接し方ではやっていけないということに気付けなかったのだから。
アウェイ感、というやつだ。同年代でさえ田舎と都会では天と地ほどの差がある。須磨洟子はその溝に嵌り、そして孤独になってしまった。
もちろん彼女は努力をした。友達を作ろうと、接点を造ろうと、コミュニティを創ろうと努力した。彼女は強かったのだ。しかしながらその強さは裏目となり、やがて須磨洟子はクラスメイトから虐げられるようになった。
現代でも問題視される『いじめ』を受けていながら、それでも一年間を変わることなく生き抜いた精神力はさすがの一言であるが、まさか自分の置かれている状況が理解出来ないほど馬鹿ではない。彼女の心は確実に、凄惨に、衰弱していた。
諦めてしまえば良かったのだ。
強さも優しさも笑顔も放り出して、逃げ出してしまえば良かったのだ。だって衰弱しつつも努力を続ける彼女を、当時の担任教師、松風界隈は見逃さなかったのだから。
そしてようやく、須磨洟子は絶望した。
そしてようやく、須磨洟子は絶命した。
女子トイレで自らの手首を深々と切り失血死した彼女の遺体が発見されて、十八年が経とうとしている。
そんな三月五日の朝七時。電話が鳴った。
「紡(つむぎ)ちゃん、ちょっと出てくれる?」
僕はお弁当の盛り付けの難しいところだったので、電話の対応を彼女に頼んだ。
「はあい」
嬉しそうに返事をして、幼稚園の制服(スモック)に身を包んだ夢浮橋紡はとてとてと電話の方向へ小走りし、コードレスの受話器を取った。
「もしもし、ゆめのうきはしです」
電話の相手は僥倖だろう。あんなに可愛い四歳児が対応してくれたのだから。僕は小さな弁当箱の中に仔犬の鼻(キャラ弁だ)を作ったところで、紡ちゃんが電話を代わるのを待った。
「あ、つーちゃん。おはようございます」
電話の相手は、母親だったそうな。
「うん。こっちはあさだよ。――うん、だいじょうぶ。もうごはんたべた」
つーちゃんこと夢浮橋翅(つばさ)は紡ちゃんの母親であり、僕の奥さんでもある。四年前に紡ちゃんを産んでからは普通のママとして生活していたのだが、まあ研究者の血を抑えきれずに三年前についに母性本能を振り切って研究の為に渡英。翅さんは実家である胡蝶(こちょう)研究室とは絶縁状態にあったのだが、総合研究室長(要するにトップ)の世代交代を期に復縁を果たした。以来、年に二回しか帰って来ない滅茶苦茶な母親である。
ていうか母性、弱いな。
「うん、いるよ。――はい」
そこで紡ちゃんはこちらへ駆け寄り、受話器を差し出した。
「あっくん、ちーちゃんがかわってって」
「うん、ありがとう」
可愛過ぎる娘から受話器を受け取り、僕は恐る恐る受話器に耳を当てた。
「もしも……」
『あっくーん! 紡ちゃんが可愛いんだけどー!』
「うん、知ってるから」
娘の声を聴けてここまでテンションを上げられる母親を珍しい。何か嫌なことでもあったのだろうか。
『研究が失敗しちゃって、ちょっと落ち込んでたのよ』
「ははあ、あんたが失敗するってんならよっぽどな内容だな。何してたんだ?」
『風邪薬』
「……風邪薬?」
『そう。飲んだら即座に身体の異常を消滅させる薬品を作ってたのよ。やっぱりなかなか上手くいかないわ。少なくともあと半年はかかるでしょうね』
「うん……。まあ、頑張って」
果たしてこのお嫁さんはどこまで行くのだろう。既に僕の常識じゃ追いつかないステージに立っていることは分かるが、下手をすればそれこそ、『神の領域』だ。
「そんなことより翅さん。帰ってくるつもりはないのか? その、一緒に生活する考えはさ。――風邪薬、あと半年で出来るってんなら半年で帰って来れたりするわけか?」
『さあ? その研究も最後までやるか分かんないし、また新しい研究課題を見つけるかもしれないし……』
「それ、日本じゃ出来ないのか?」
『出来ないわ』
返事の早さに、イラついてしまった。
「……なあ。紡ちゃんのためを思うとさ、やっぱりママが家にいてくれたほうが助かるわけよ。僕も仕事上、家を空けることも少なくないし」
『その度にお義母さんとかに来てもらってるんだからいいじゃない。もしかして浮気とかしたいの?』
「それはない」
『良い返事。でもあっくんが仕事の都合というものがあるなら、私にも仕事の都合があるのよ。今更日本でクオリティを下げた研究をする気にはならないわ』
それなら、と少し気を立てたように翅さんは続ける。
『あっくんが主夫になればいいじゃない』
「それは……極論だろう。それに僕、今は席を外せる状態じゃないし」
『そう。私と同じね。だったらもうこのままでいいじゃない。あっくんがしっかり教育してれば、紡ちゃんも立派に育つでしょうし』
「……丸投げしないでくれよ。やる気はあるけど、自信は無い。僕自身、まともな教育を受けたわけじゃないし」
『だから私に丸投げしようって?』
「いや、そういうことは言ってないだろう?」
『言ってるのよ。あっくんは私に甘えようとしてるの。私達はどちらもやるべきことがある。どちらかを棄てるなんて無理なのよ』
翅さんの言っていることは確かに極論で屁理屈だったけれど、確かにそれは正論で、だからこそ反論が出来なかった。
『この話はまたにしましょう。それじゃあね、あっくん。愛してるわ』
「……ああ、僕も愛してる」
電話が切れた。僕は溜息を吐く。
「ふん、離婚しても紡ちゃんの親権は渡さんからな」
受話器を一瞥し、本体に戻す。そんな僕を、紡ちゃんは不安そうな眼で見ていた。
「けんかしたの?」
「大丈夫、裁判になったらこっちが勝てるから」
喧嘩したという事実は否定しなかった。僕は紡ちゃんの頭を撫でて、お弁当の盛り付けに戻る。
「あっくん」
娘が僕を呼ぶ。
「こんどつーちゃんがかえってきたら、すいぞっかんいきたい」
「……そうだね。水族館、楽しかったもんね。また行こう」
どうやら離婚調停は、まだ先になりそうだ。