しん・夢物語   作:危橋たけ

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3月5日 未了編・その二

 

 帚木鵆の話をしよう。

 この世界には何十億人もの人間がいて、死んでいった先人を含めるとその数は倍では効かないほどの数になるのだが、帚木鵆はそんな無数の人間の中の一人であった。

 僕と帚木鵆が出会ったのは、今から十五年も前になる、現在は存在すらしていない百葉箱高校の中庭だった。

 その日の放課後はたまたま大雨で、その日の放課後はたまたま人が少なく、その日僕はたまたま傘を持っていた。最低限の良心から帚木鵆を自分の傘に入れてみた。彼女は泣いていた。

 いつも見かける野良猫が死んでいた、という理由で泣いていたのだ。僕はそれを下らないと思ったし、実際に馬鹿だとも言った気がする。それでも帚木鵆は更に泣くわけでも逆上するわけでもなく、ただただ野良猫の死を悲しんでいた。

 

 それからだったか。何となく僕と彼女が仲良くなり始めたのは。

 そうは言っても恋人同士なわけではないので二人きりでいちゃいちゃしていた期間は長くなく、三年生になってからは二人の後輩が仲間内に加わった。

 紅葉賀弦弧と空蝉是空。四人組はいつしか『めぐりクラブ』と呼ばれるようになり、一年も無い期間だったけれど駆けて暴れて楽しんでいた。――そう、楽しんでいた。

 それまで僕は生きていて楽しかったことなんてまったく記憶に残っていなくて、自分が生きていることに何の意味も見出さず、無気力で、無価値で、死んだように生きていた。というのに。

 帚木鵆という一人の少女の存在によって、唐突に、そして強制的に僕の人生観は変わってしまったのだ。それを理解せずに流されるほど僕は能天気ではない。『変えられている』ことを感じていたからこそ、僕は帚木鵆のことを憎んでいた。

 

 彼女は善良だったのだ。

 

 帚木鵆の過去に何があったのか。その答えは『何も無かった』のだ。ある時彼女は突然気付いた。自分がどう生きていくべきか。どうすれば愛され、愛することが出来るか。どうすれば傷付くことなく、傷付けることなく生きていけるか。その思索の結果が『これ』だ。誰よりも正しく純粋に生きる帚木鵆が、僕は怖気がするほど嫌いだったのだ。

 だけど彼女は、僕を好きだと言ってしまった。

 そして僕は、彼女を好きだと言ってしまった。

 それは紛れも無い恋心であり、心の底から僕は帚木鵆を好きになっていたのだけれども、『嫌い』である感情は消えることなく、恋心に隠れるように沸々と増大していった。

 

 いつか彼女は、破滅するのだと思った。

 きっと僕が、破滅させるのだと思った。

 しかしそんな僕の危惧など嘲笑うかのように、帚木鵆は『事故』のような形でその命を落とした。

 十五年前の二月。積もった雪を真っ赤に染めて、誰の目から見ても明らかなほど死んでいた。

 その事件を経てそれまでの学校生活も、めぐりクラブも後輩との仲も、そして僕の精神も崩壊した。言うなれば世界の終わりでさえあった。

 十五年も経った今ではその崩壊もいくらかは修繕されているが、きっと何年経とうとも、僕は帚木鵆のことを忘れることはないだろう。

 ずっとずっと、引きずって行くのだ。

 

「えんちょうせんせい、おはようございます」

「はい、おはようございます紡ちゃん。今日も可愛いね。どうしてこんなに可愛いんだろうね。ああそうか、孫だからか。我が孫となるとこんなに可愛いものなんだね。この可愛さは異常事態だね」

「あんたの方が異常だ」

 僕が突っ込むと、白縫(しらぬい)幼稚園園長、夢浮橋藍(あい)は「何だいたのか」と言いたげな風にこちらを睨んだ。

「何だいたのか」

 声に出していた。

「あっくん、いってきます」

「はい、いってらっしゃ。いっぱい学んできな」

 僕と紡ちゃんはハイタッチをする。そして彼女は小走りで自分の教室に入って行った。

「いや、マジで可愛いよな、紡ちゃん。お前が可愛くないから、たぶんお嫁さん似だよね」

「その孫への愛情を一割でも僕の方に向けてくれないかな、お母さん。僕はこの歳にしてグレそうだよ」

「本当に可愛い……生きてて良かった」

 聞いちゃいねえ。

「あと一月もすれば霞組さんか。なんか、早いもんだなあ。この間まで僕はあの子をおんぶ紐で背負ってたような気がするよ」

「そういうものだよ。親から見た子供の成長スピードは恐ろしく速い。あたしはお前のことを全然好きじゃないけど、それでももう三十三歳なのかと感嘆せざるを得ないよ」

「そんなもんか」

 意外なことに、お母さんは僕のことを『子供』とは認めているらしい。ちょっと安心。

「じゃあ愛母さんなんかも、今の僕を見たら嬉しく思ってくれるのかな」

「あたしと違って愛ちゃんはちゃんと、母親としてお前のことを愛していたからね。本当、理解に苦しむよ」

 いつものように僕を貶して、不意にお母さんは「そういえば」と話題を変えた。

「愛ちゃんといえば――お前、マゴコロ機構はどうなの?」

「どうもこうも、あそこはもう僕の管轄じゃないから知らないよ。適当に上手いことやってると思うよ」

 マゴコロ機構。

 三年前に僕がアメリカ合衆国はテキサス州のヒューストンに創設した心理学強化教育機構だ。名称から察せるだろうが前身は愛母さんが設立したアンダーハート機構であり、マゴコロ機構の場合はその超改良版である。機構生の精神崩壊は無くなったし、排出する卒業生も極端に少ないわけもなく、学習内容も良識的かつ合理的なシステムとなっている。

「今やマゴコロ機構は世界的に名の知れ渡った心理学教育機関だ。それは三年前にお前が立ち上げた時点でそうだったし、むしろお前が一年で学長を辞任してからそれ以上の成長は無くなった。前から訊きたかったんだけど芥。お前どうして辞めたの?」

 それを誰かに教えるのは躊躇してしまうのだけれど、考えてみればずっと胸にしまっておく馬鹿みたいな話だ。

 それにこの人は、口は悪いけど僕のお母さんなのだ。

「それは、僕がどうしてマゴコロ機構を創立したのか、というところを説明するべきだね」

「うん、じゃあそれを教えてよ」

「愛母さんがやっていたことを引き継ぎたかったから」

 お母さんは、変な顔をした。

「……そんなことの為に?」

「僕の中じゃ大きかったんだけどね」

「いやだって、愛ちゃん的にはアンダーハート機構なんて冗談で創ったもんで、その形式としてもヤバヤバな学校だったじゃん。それは一年間の地獄を味わったお前なら知ってることだよね」

「冗談だろうと何かをしたかったんだ。愛母さんを殺した罪滅ぼしなんかじゃなくて、ただ純粋に『形見』が欲しかったんだよ。その形造りさえ出来れば、あとは誰だって実力さえあればマゴコロ機構を切り盛りしていける。僕は最初からそのレベルまでしか創ってない。マゴコロ機構は今ので完成形さ」

 沈黙が数秒間流れた後、微妙な風にお母さんは「ふうん」と唸った。解ってはくれなかっただろうけど、分かってはくれたようだ。

「お前が良いんならそれでいいさ。子の幸せは親の幸せってね」

「うん。――ん? 今のってどういう……」

「あ、うん。あの、あれだ。あたしはお前なんか嫌いだ」

「いや、そういうんじゃなくて……」

「早く行け不祥事の息子。あたしが五年前お前が文化祭でやらかしていたことを教育委員会に告発すれば、お前なんか校長はおろか教師ですらいられなくなるんだからな」

「そのことは早く忘れて下さい!」

 このまま古傷を抉られて殺されそうだったので、僕は逃げるように白縫幼稚園を後にした。

 

『子の幸せは親の幸せ』

 

「……ああ、愛母さんの話ね」

 車に乗って、僕はようやくお母さんの言葉の意味を理解した。

 出来ればそれをお母さん目線の意見として言ってほしかったのだが、それはあまりにも希望的観測だろう。今も昔もこれから先も、お母さんは僕のことを嫌うのだ。

 

 それでも不思議と、嫌な気分ではなかった。

 

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