普通のキャラ。
夢浮橋愛の話をしよう。
この世界には何十億人もの人間がいて、死んでいった先人を含めるとその数は倍では効かないほどの数になるのだが、夢浮橋愛はそんな無数の人間の中の一人であった。
僕の母親は三人いる。夢浮橋愛はその一人であり、当時最も僕を愛してくれた『愛する係』の母親であった。一人には興味を持たれず、一人には嫌われていた当時の歪な母子の関係では、僕の方も夢浮橋愛を愛していたのは仕方のない話だろう。
というか彼女は、基本的に誰からにも好かれてしまう人柄であったそうだ。『最善』二つ名の通り、極めて優しく善良であったのだ。それは須磨洟子のような利己でもなく、帚木鵆のような純粋でもない。原初の階層から夢浮橋愛が保持していた、『人間性』だろう。
そんな『人間性』の割に、やること為すことに関しても『善』だとは限らなかったようで、夢浮橋愛の若き頃に創設したアンダーハート機構は精神崩壊者を産み出す巣窟であった。事実、僕もその機構の卒業生であったが、あそこが『地獄』と言われたら信じるほどの壮絶さだ。卒業と同時に潰したのでもう心配が要らないと言えばそうなのだけれど、まあ、理由は先の通りということで。
そういうわけで、マゴコロ機構を創設した。
僕は夢浮橋愛のことが好きで、大好きで、しょうがなくって、それは今でも変わっていなくて、だからこじつけでも冗談でも何がしかを『継ぎ』たかったのだ。
これはあくまでも後付けな、僕の妄想だけれど。
夢浮橋愛は僕にそうさせるつもりでアンダーハート機構を創ったのかもしれない、なんて。――僕の産まれを考えてみれば、当時十代から二十代への移行期であった夢浮橋愛に、息子の存在が予想出来る筈も無いのだけれど。
まったく曖昧で気分任せだけれど、とにかくそういうつもりで、僕はマゴコロ機構を創った。
創って、落ち着いたから、今の地位に落ち着いた。
僕は現在、今の地位――職場にいる。午前九時過ぎ。今日もいつものように相方が書類をまとめてくれている。
僕が賢木虎音子(さかき こねこ)を玄舟学院教頭、即ち右腕として選任したのは、彼女が類希なるほどの『普通』の人間であったからだ。
「なあ、賢木ちゃん」
「はい、校長先生」
「まだまだ寒いよなあ」
「そうですね。私も冷え性なのでキツいです。でもまあ、例年通りと言えば例年通りですよね。でも今月半ばには少しマシにはなると思いますよ。あ、紡ちゃん風邪とか大丈夫ですか?」
普通の対応。普通の性格。
「賢木ちゃん。僕は君のような女性と結婚すればよかった」
「え、何で今私、口説かれたんですか?」
教頭先生というそれなりの役職に収まるには、若干二十六歳の賢木虎音子先生はまだ若い。前任者の総角(あげまき)教頭先生が定年退職した後なので、余計に目立ってしまう。
だが仕事自体は申し分なくこなしている辺り流石だ。普通にこなしている。普通に出来ている。美味しいなあ、こいつ。
「校長先生、今朝の報告ですが」
「うん。良い報告が聞けるといいけどねー」
「……ええと、良いか悪いかで言えば、良いのが一つ。悪いのが一つ。普通なのが一つ。合計三つです」
僕の軽薄な態度に一瞬困った様子を見せた賢木ちゃんだが、結局合わせてくれた。良い子だ。それは別として、三つか。
「んー……、じゃあ良いのから」
「はい。紅葉賀さんから校長先生宛てにお手紙が届いております」
「嘘吐き! 良くねえよ!」
僕は嘆きながら賢木ちゃんから封筒を受け取った。
「いいか、覚えておけよ賢木教頭……紅葉賀弦弧に関して『良い』ことなんて一つとして無いということを……!」
「え、そうなんですか!? それは、その……失礼しました」
普通だったら理解してくれればいいのに、と考えたが、思えば賢木ちゃんは弦弧ちゃんと面識がなく、ただの数学が凄い人としか思っていないので向ける感情は『警戒』ではなく『尊敬』なのだ。
「まあ、いいけどね。僕自身、白状すればこういう便りが嬉しくないわけでもないし」
手紙は短いものだった。相変わらず国語能力が無いので字が汚いし文章の要所要所に下ネタが挟んであるが、要約すると近況報告だった。アメリカ合衆国で体験したことが適当に書き殴られている。
自由の女神やら宇宙センターやらの観光のこと。
ラスベガスのカジノに行ったもののビビって遊ばなかった。
ハンバーガーが大きかったこと。
ハーバードとマサチューセッツで講話をしたこと。
そして、空蝉の墓参りをしたこと。
命日には一緒に行きましょうね、ということ。
「凄い人ですよね。誰も解けなかった『パンプキン定理』を挑戦から一週間で証明するなんて」
「それで莫大な報酬金を手に入れて、まさか教師を辞めるとは思ってなかったけど。僕の就任と入れ違いでさ。まあ、あいつの上で仕事するのはあんまり気が進まなかったからいいんだけどさ」
晴れて大金持ちになった紅葉賀弦弧は現在、優雅に旅行生活をしている。数学会ではすっかり顔が売れているので、退屈はしないそうだ。あのドM変態痴女後輩が今や偉人クラスである。まさかそこまで数学の出来る人だったとは、さすがの夢浮橋先生もびっくりだ
『鵆先輩の望んだ教育体制は芥先輩がやってくれるんですよね。だったら私はもう、いいです』
だってさ。
なんて無茶振りだ。
「ま、あいつの話はもういいや。何だか猥談染みてきた」
「すいません、私にはその要素を見出すことが出来ません」
「悪い話を聞こう」
悪いというのならばぶっちゃけ逃げ出してでも聞きたくはないのだけれど。それでも校長先生として、『悪い』ことをどうにかするのは義務なのだ。
「あの、今日のお昼に関することなんですが」
「お昼? お昼は――ああ、あれか。会議だ」
「はい。理事会・学院長・中学校長・小学校長らと会食後、会議になっておりますが、それについて先ほど理事長からお達しがありました」
「どんな」
「『学院長が失踪したから、捕まえて連れて来てください』とのことです」
「………………」
玄舟学院という教育機関のシステムについて。
そもそも『玄舟学院』を冠する学校は玄舟学院高校・玄舟学院中学校・玄舟学院小学校の三つである。いずれも規模・レベル共に他の学校に比べて高位にあるものであり、学校の方針に関しては全ての決定権が学校長に与えられている、言ってしまえば民主主義の日本では珍しい独裁政権な学校なのだ。
極論、僕が死ねと言えば生徒も教師も死ぬべきである、とか。
いや、極論過ぎて自分で例えて引いたけどさ。
だからこそ僕はその権限を執行して校内を大いに改革し、それを大きく取り上げることによって教育界自体に改革をもたらすことに成功したのだけれど、その話はまた別として。
色々なことをやって来たものだが現時点において最も身近な点を明かすとするならば、それは教頭との連携システムだろう。現在僕らがいるこの部屋は校長室ではなく、『校長・教頭室』である。僕と賢木ちゃんは背中合わせ(デスクは向かい合っているけど)で業務に取り組んでおり、そうすることで業務の効率を上げている。現につい一昨日の卒業式もこれまでにないスムーズさで進めた。
もっとも賢木ちゃんは気が付くので(もちろん普通の範疇で)、今では部下とか相棒とかより秘書のような立ち位置だけど。
そうやって僕は今まで仕事をし易く、つまり『楽になる』改革を行ってきたのだが、その成績に比例して責任というもの重くなっていくので未だに『楽』ではなかったりする。偉くなると大変なのだ。中学校・小学校の校長たちは僕ほど暴れてはいないので、まあそれなりらしいけど。
そんな独裁の権利を持つ校長を制御するのが学院長の役割である。校長の権利は所詮、学院長の承認が無ければ執行が出来ない。僕もつい一年前までは『あいつ』を口説くのに随分と骨を折ったものだ。
学院長の他の業務内容は、まあ一介の校長先生である僕にはよく分からないのだけれど、理事会と学校の橋渡しとか何とかをやっているそうな。現在の学院長は理事会への制圧力が強いので、そっちに関しては恐らくそう苦労するようなことではないだろう。
そして、その強い学院長がまた問題を起こしたのだ。
「えっと、一応確認するけどそれ、マジ? いやきみがそういう悪い冗談を言うような人間だとは思ってないんだけどね」
「残念ですが冗談ではありません。私が電話を取り、直接理事長の声を聴きました。間違いがあるとするなら私の耳です」
賢木ちゃんの耳が悪ければよかったのになあ、と思ったが、普通なる彼女がそういうイレギュラーな弱点を持ち合わせているわけがないのであった。
「しかし理事会もどうして学院長を扱い切れないかなあ……。その度に僕の方に連絡くるんだもん」
「事情が事情ですからね。それに校長先生は学院長と仲がよろしいですし」
「いずれはどうにかすべきだけどね……」
そのどうにかする役目も、どうせ僕に回ってくるだろうけど。
「あと普通の話なんですが」
そういえばそんな話もあったっけ。悪い話が強烈なので頭の中から消えかかっていた。
「来年度の教育実習生雇用の資料が届いております。今年は二十通ですね。この中から七人選ぶわけですけど……」
「あー、あったね、それ。去年どうやって選んだっけ」
「……あみだくじ」
去年の僕はどうやらかなり破天荒な仕事をしていたらしい。憶えていない辺りそれで問題はなかっただろうけど、それ以前に決め方が問題だろう。
「去年はご多忙でしたのであまり強く言えませんでしたけど、今年はちゃんと選んで決めて下さいね。締切は四月いっぱいなので、ごゆっくりどうぞ」
「了解しました――っと」
受け渡された資料にざっと目を通す。実際、書類上で選べと言われてもそれで良い人間を連れてくるのは不可能に近いだろう。面接でもやれば少しはマシになるだろうに、時間的な都合上そうもいかないので恨めしい。
と。そこで僕は、一つの名前に目を留めた。
「校長先生……?」
「ん、ああ。あのね、教え子の名前が有ったから」
若紫志吹(わかむらさき しぶき)。
専門教科、心理学。
「そうでしたか――でも、そういうこともありますよね。何年前の卒業生ですか?」
「四年前になるかな。こいつ、マゴコロ機構で一年学んで大学行ったから、たぶん来年で四年生になる」
そうなのか。
もうそろそろ、若紫も『先生』と呼ばれるのか。まったく感慨深いものだ。僕も歳をとったのだ。
……さて、あと六人はどうしようかな。
「まあそれは今度に置いといて、とりあえず僕は理事会の御指示通り、学院長(あいつ)を探しに行った方がいいのかな。じゃ、賢木ちゃん。悪いけどこの辺の書類仕事を……」
「頑張ってください、校長先生。私は職員室の方へ行ってきます」
にっこり笑って、賢木ちゃんは扉の前まで歩いて行った。
「……仕事を押し付ける作戦、失敗か。きみも慣れて来たね」
「学習能力くらい、普通にあるので。それでは」
失礼します、と賢木虎音子は退室して行った。
「あーあ、もういいや。仕事しよ」
ペンを取り仕事に向き直った時だった。突然扉が開かれ、賢木教頭先生がとんぼ返りをしてきた。
「え、おかえり。どうしたの?」
「あの、すいません校長先生。学院長先生がいらっしゃいました」
心底驚いたような、引きつった表情で彼女は続ける。
「桐壷つむじ学院長が」
次回、最終回。