Connection First Spring   作:zs3079

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第九話:名も知らない、すれ違う心

放課後にしては、まだ陽射しがまぶしかった。

 

昼間の暖かさがまだ残っていて、体操着の上から流れる汗がじんわりと肌に張りついていた

 

グラウンドはまだ賑やかだった。

その中で私は、ひとり静かに呼吸を整えていた。

 

トラックの真ん中では、誰かの足音と息遣いが規則的に響いていて、

その外側では、私は他のマネージャーたちと一緒にタオルの整理をしていた。

 

ときどき、視線が自然と彼の方へ向いてしまう。

 

考えるよりも先に、身体が勝手に動いていた。

 

他のマネージャーが持っていたタオルを受け取り、陸上部の共用バッグに入れながらも、

遠くから聞こえてくる足音が、どうしても気になって仕方がなかった。

 

近づいては、遠ざかって、

また戻ってくるそのリズムのなかで、

彼が今、何周目なのかもわからないまま、

私は同じ動作を繰り返していた。

 

「鹿島さん、それ、ここに入れて大丈夫だよ」

 

横からかけられた声に、ハッと我に返った。

 

「あっ、はい。ありがとうございます」

 

顔を上げると、マネージャーの先輩が微笑みながらバッグを私の方へ押してくれた。

 

「気にしないで。最初はみんな、わかんないことばっかだから」

 

そう言って、先輩はまた陽射しの方へ視線を戻した。

 

私はバッグの紐を握ったまま、どこかぎこちない姿勢で止まっていた。

 

タオルを入れようとした手が、ふと、そこで止まった。

 

顔を上げなくてもわかる。

 

トラックの上、陽射しを裂くように走っていたあの姿が、

今も変わらず──そこにあることが。

 

「……」

 

他のマネージャーたちは、すでに次の作業へと移っているようだった。

 

ひとりで少しだけ遅れて、何となく、タオルをもう一度たたんでからバッグに入れた。

 

ようやく意識が戻ってきた。

慌てて体を反転させて、他のマネージャーたちのところへ足を向けた。

 

「鹿島さん、大丈夫?」

 

少し離れたところで、先輩がタオルの束を手にしていた。

すぐに駆け寄って、それを受け取った。

 

「すみません、遅くなって」

 

「ううん、ゆっくりでいいよ」

 

先輩はやわらかく笑いながら、タオルを渡してくれた。

私は軽く会釈して、その手元の感触に意識を向けた。

 

──それでも、

どうしても、耳が他のほうへ向いてしまっていた

 

グラウンドを走る足音。

耳に残る、あのリズム。

 

今、何周目なんだろう。

 

でも、それは重要なことじゃなかった。

 

大事なのは、

どうしてかその音を聞くたびに、

胸のどこかが静かに震えるような気がしたってこと。

 

だめ、

今は集中しないと。

 

私は両手で自分の頬を、そっと二回叩いた。

 

「はい。このタオル、日当たりのいいところで干しておいてくれる?」

 

別の先輩がバスケットを持ち上げながら声をかけてきた。

 

私はうなずいて、すぐに手を伸ばした。

「あっ、はい」

 

バスケットを持ってグラウンドの端のほうへ向かった。

フェンスの近く、日差しがよく入る場所を選んで、

一枚ずつ丁寧にタオルを干しはじめた。

 

風が軽く裾をなでていく。

陽射しはタオルの上に、均等に降り注いでいた。

 

こうやって、手だけ動かしていれば──

少しの間だけでも、

余計なことを考えずに済む気がした。

 

タオルの端を広げかけて、

指先でもう一度布をなぞった。

整えたはずの折り目が、なぜかずれていくような気がした。

 

「でもさ、後藤くんって……」

 

遠くないところで、

ほかのマネージャーたちのグループから小さな声が聞こえてきた。

 

「……なんか、淡白じゃない?」

「そうそう。誰から見ても人気あるのに、本人はまるで興味なさそう」

「それなのに、かっこいいって思っちゃうんだよね。ああいうクールさ、反則だわ」

 

私は顔を上げなかった。

手はずっと、タオルの上をなぞっていた。

 

でも、視界はぼやけていて、

自分がどこに焦点を当てているのかも、はっきりしなかった。

 

だからだろうか。

 

干していたタオルの端を、

もう一度押さえてみた。

 

角を整えるふりをしながら、

すでにきれいに広げたものを

何度も触り続けて──

 

私は今、

何を直そうとしていたのかさえ、

よくわからなくなっていた。

 

ただ、思考がどんどん

変な方向に流れていくような気がして──

それを、どうにか沈めたかった。

 

次のタオルに手を伸ばしかけたそのとき。

 

「話しかけにくくない?」

 

背後から、どこかくすくす笑うような声が飛んできた。

 

「そうそう。さっきも誰か挨拶してたのに、スッと笑って通り抜けてさ〜」

「でも、そういうの逆に印象に残らない?」

「後藤くんってさ、別に何もしてないのに、不思議と気になっちゃうんだよね」

 

──コツン。

 

胸のどこかを、軽く叩かれたような感覚。

 

自然と視線が下を向いた。

なんでもない会話のはずなのに、どこかぎこちなくなってしまった。

 

その瞬間だけ、何かが膨らんで、

すぐに静かにしぼんでいくような気がした。

 

重さはないのに、確かに響いていた。

 

それがどんなものだったのかまではよくわからなかったけど──

 

あのときの私は、しばらく動けなかった。

 

グループの中の先輩たちの言葉は、私に向けられたものじゃなかった。

なのに──

 

「そのうち、誰かが告白しちゃったりして」

 

先輩たちの間で、軽い冗談のように言葉が飛んだ。

別の先輩が笑いながら応じる。

 

「それは困るよ。後藤くん、あんなに気を配ってくれるのに。私たちだけでも、線引きちゃんとしないと」

 

「うん、マジでそれ。告白なんかしちゃったって、関係が気まずくなるだけだもん」

「今の距離感がちょうどいいんだよね」

「だからさ、見てるだけにしよ〜」

「クサッ、それな。ラクすぎて逆にズルい」

 

軽い笑いが輪の中に広がっていった。

 

私に向けた言葉じゃないのに、

 

なぜか──

 

胸が締めつけられるような感覚

 

私は、

ただうつむいたまま、

タオルの端をずっと触っていた。

 

それが整っているのか、乱れているのか、

もう、自分でもよくわからなかった。

 

「でもさ」

また先輩たちの会話が続いた。

 

「1年生の中から、狙う子出てくるかも」

「そうだ、それ。後藤くんに一番近いのって、あの子たちじゃん」

「後藤くんって、無意識に面倒見よすぎるからさ」

「あの年頃なら、そういうの全部特別にじちゃうし」

「もし“目線が変わった”って思えたら、すぐ言うこと。いいね?」

「やたら変に近づいたら、関係崩すってもん知らないやつ、いそうにないけどね~アハハ!」

 

ちょっと冗談まじりの口調だったけど、

 

私は、

 

その一言一言がずっと耳から離れなかった。

 

別に私を名指ししたわけでもないのに、

 

どこかで、

 

静かに──

 

名前も出ない会話が、

 

私を中心にして、回っているような気がした。

 

干し終えたタオルを一通り見直して、

 

何となく一枚をもう一度めくってみた。

 

そのとき──

 

「そろそろ片づけよ。影になったら乾かないし」

 

先輩の一人がぽつりとそう言って、

ほかの皆も、

それぞれバスケットを手にゆっくりと動き出した。

 

私はタオルの端をもう一度押さえた。

日に温まった布の手ざわりが、指先をすり抜けていく。

 

その何でもない感触が、なぜか、ずっと残った。

 

少し止まっていた体を、ようやく静かに動かし始める。

 

バスケットを手に取って、

先輩たちのいる方へ、

自然と歩を進めた。

 

前の方から聞こえてくる笑い声が、

なぜか、遠く感じた。

 

 

片づけが終わったあと、

マネージャーたちは木陰に集まって座っていた。

 

誰が言い出したわけでもないのに、

整理を終えた手で水筒のふたを開けたり、

服の裾についた土を払ったり——

 

いつもと変わらない光景だった。

 

その中で、三年の先輩のひとりが、笑いながら口を開いた。

 

「みんな、今日もお疲れさま」

言い方はゆるくて、声はやさしかった。

 

「顧問の先生が言ってたよ。

うちのマネージャーは、本当にまじめだって。

選手たちも、みんな感謝してるって」

 

そう言ってから、

自分の水筒のふたをゆっくり開けて、言葉を足した。

 

「特に後藤くん。

最近、前よりも無口になってるんだって。

楽だけど、逆に静かすぎて困るって」

 

「それ、もともとの性格でしょ」

別の先輩が笑いながら応じる。

 

「嫌いってわけじゃないけど、ちょっと声かけにくいよね」

 

「マジでそれ。だから、誤解されないように、気を付けよ?皆」

 

また別の先輩が水筒を置きながら話をつないだ。

 

「この前さ、後藤くんが水筒返すときあったじゃん。

一年の子が“ありがとうございます〜”って、けっこう距離近めで言ったら、

無言でくるっと背中向けたんだって」

 

「えー、マジで?」

「うん、それ聞いた子がいてさ。

たぶん、ただびっくりしただけなんじゃない?」

 

何気なくするような会話の中。

私は黙って聞くことしか出来なかった。

 

「一年のみんなも、知ってるよね? 後藤くんって、

ああ見えて、ずっとああいう子だから」

先輩は水筒を置いて、静かに笑った。

 

「あんま、喋らないの、皆好みでしょう?ああいう感じ」

 

それから、少し間を置いて、

無造作にこう付け加えた。

 

「別に特別な意味なんてないから」

 

それは、

誰に向けたわけでも、

何を狙ったわけでもない言葉だった。

 

流れでぽろっと出たにすぎないのに——

 

なぜか、それがずっと残った。

 

他の子たちがうなずくのに合わせて、

私も、ただうなずいただけだったのに——

 

なぜか、胸のどこかが静かに鳴ったような気がした。

 

言葉ではうまく言い表せないけど、

その瞬間、どこか反応を間違えたような、

妙な感覚が残った。

 

ただ、空気に合わせただけなのに、

なぜか——私だけが、どこかズレてしまったような気がした。

 

みんなが水筒を閉じて、ゆっくり立ち上がる。

誰かは、軽く伸びをして、

また別の誰かは、

「今日、ほんと暑かったよねー」

なんて言いながら、

グラウンドの外側へと先に歩いていった。

 

解散の雰囲気が自然と漂い、

皆揃って脱衣室へと歩みを踏んだ。

 

私もその輪に混ざって、ゆっくり動き始めた。

 

他の人たちがどんな表情をしていたのかは、

あまりよく覚えていない。

 

ただ——

 

静かに後片づけをしながらも、

胸のどこかが、

小さく揺れている気がした。

 

誰かに名前を呼ばれたわけでもないのに、

 

なぜか、

 

自分に向けられた言葉のように感じてしまうのは、どうしてなんだろう。

 

なぜ、

 

ただそれだけのことで——

 

歩く足が、少しだけ重くなるんだろう。

 

誰も私を見ていなかったのに、私は——

 

なぜか、見られている人みたいに、そっと動いていた。

 

気がつけば、指先に力が入っていた。

 

汗なんて一滴も出ていないのに、

どこか体力を奪われるような感覚だった。

 

言葉にできない感覚が、

身体のどこかに、うっすらと残っていた。

 

 

実は、ここで止まることもできたのかもしれない。

そうしていれば、よかったのかもしれない。

 

でも、

そのあとに待っていたのは——

 

指先が焼かれるような、まだ消えきらない灰色の温もりだった。




第九話までお読みいただき、ありがとうございました。



今回は、鹿島綾乃の視点から、

名前の出ない会話や、さりげない言葉に揺れる心を描いてみました。



自分に向けられたわけではない一言でも、

なぜか胸の奥に響いてしまうことがある。

その小さなざわめきが、彼女にとっては大きな意味を持つのかもしれません。



ただ空気に合わせていただけなのに、

どこかで自分だけがずれてしまったように感じる瞬間。

その違和感こそが、綾乃の繊細さを映し出し、

静かに心の奥に残っていくのだと思います。



彼女の中に芽生えた揺らぎが、

今後どのように姿を変えていくのか、

引き続き見守っていただければ幸いです。



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